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◇落花流水◇

『落下流水』


◇落花流水◇


 僕は今、電車に乗っている。今回は両親とでは無く、友達と、大事な彼女をつれて。
 あれから二年が経った。今思えば刹那に感じるようなその時間は、早く過ぎたと思うけれど、同時に尊いものなんだと言うのも感じる。
 今回は夏休みを利用しての旅行だ。場所は黄昏町、田舎に旅行するにはもってこいの場所だと場所決めの時に僕が提案したのである。なんと、宿はじいちゃんの家。そんなに人数多くないし、どうだろうと交渉してみたら思いがけず了解をもらったのだ。あれには驚いている。
 電車代と少しの食費や諸経費がかかるだけの格安の旅行にはもちろん、隠しているけれど理由があった。それは、夕菜さんとの約束を果たすためだった。
 あの時、僕らは確かに結ばれた。本当に短い間の恋だったと思うけど、濃密過ぎる恋愛だったと僕は思っている。あの後、キスをした後の話だ。抱擁を交わし、キスをした後に、それは起こった。


 僕たちは肩を寄せ合うようにして、その場にいた。雨は晴れて、灰色の空から伸びる光達がとても綺麗だったと記憶している。時間がゆっくりと過ぎていって、不意に夕菜さんが言ったのだ。
「そろそろ、行かなくちゃ』
 と。そう言うのが早いか否か、夕菜さんの体が光り始める。夕菜さんはもう迎えが来てるからと言って笑う。僕は必死に引き留めた。引き留めたけど、夕菜さんは首を横に振る。もう、これ以上は引き延ばせないと。奇跡とは儚いからこそ奇跡なんだと夕菜さんは言った。
 一度限りかもしれない黄昏町の奇跡。それが今、終わろうとしていたのだ。夕菜さんは僕を抱きしめる。柔らかい胸の中で僕は夕菜さんの温かさに触れる。優しい良い匂いがした。
「私が消えてしまったら、あなたは私のことを忘れてしまうかもしれない。でも、私は忘れない。この恋を。あなたのぬくもりを」
「忘れるもんか。絶対に忘れない。夕菜さんを好きな自分を忘れない。僕はその笑顔を忘れない!」
 僕が涙を溜めて言うと夕菜さんはあはは、と笑った。細い人差し指が伸びて、僕の唇に触れる。
「じゃあ、約束して。私が消えてしまったら、私よりも好きな人を見つけて。そして、その人と恋人になること。そして、その人を私に紹介してほしい。それが今の私の願い……」
「でも、夕菜さん以上だなんて、僕にはあんたしか……」
「嬉しいけど、そんな悲しいこと言わないで。私はね、本来はここにいてはいけないの。本当なら、あなたと会わないはずだった、そんな世界のイレギュラーなの」
「でも!」
「やくそく、してくれるよね?」
 少しだけきつい目で見てくるものだから、言うしかないじゃないか。悲しすぎるその言葉を。僕は想いが一杯になった。なりすぎて、馬鹿になりそうだった。おかしくなりそうだった。
「分かった。連れてくるよ。絶対に。夕菜さんに紹介する」
 零れた気持ちを抑え込む。だって、しょうがないじゃないか。これは最後の言葉なんだろう。だったら、ここで男を見せないでどうするんだ。やらないといけない時がある。だとしたら、それはここに違いないのだから。
「でも! 僕は好きだ! それだけは、それだけは本当だから。だから……」
 段々と体がまばゆい光に包まれる。足から光の粒子になって天に昇って行くのが分かった。
 夕菜さんはその言葉を聞くと思いっきり笑顔になる。僕の唇から指を離すとそれを自分の口につける。
「……間接キス」
 えへへ、と笑う。少女的な雰囲気だった。
「ありがとう。本当にありがとう。私もあなたが好き。本当に、本当に……」
 体が消える。柔らかさがフッと失われた。そこからは加速的に体が光の粒子になって行く。消えないで、そう思うけれどその想いは届かない。
 笑顔のまま粒子になる。そして、最後まで切る瞬間に切なそうに笑ないながらこう言うのだった。

 ――あなたを好きになれて、私は本当に幸せだね……。

 消えた光を抱きしめる。もはや感触のない腕の中を見て泣いた。夕菜さんが旅立った、その空を仰ぎながら……泣いた……。


 そして今に至るのだけれど。約束を果たすために駅を降りる。ここからは少しばかり遠いが歩くしかない。夏と言えば、セミである。人気のあまりない道を歩きながら、耳一杯のその大合唱を聞く。
「あっちぃ」
 友達の一人が言った。
「んだよ、歩くのかよぉ」
 さらにもう一人が言った。
「もう、だらしないなぁ」
 僕の彼女の友達が言う。
 そんなやりとりを見ながら僕と、その腕に腕を絡ませている彼女が笑った。向日葵が咲いたような笑顔に僕は惚れたのだ。
 やがて一本の畦道が見えた。僕はその道にみんなと入るといつも座っていたその場所で立ち止まる。
「どうしたんだよ?」
 友達が不審がって聞いてくる。こいつのことだ。早く家に着いて涼しくなりたいのだろうが、ここは立ち止まらないといけない場所だ。彼女を抱き寄せて空を仰ぐ。彼女は不思議そうに僕を見るけれど、僕は笑って誤魔化した。
 ――夕菜さん、みていますか? この人が僕の今、最愛の人です。約束を果たしに来ました。
 空を仰いで心でつぶやく。すると、今まで凪いでいたのに、いきなり突風が吹く。風は森を揺らし、ザワザワと多重奏を奏でた。僕は、夕菜さんが見届けてくれたのだろうと勝手に思いこむことにする。こういうのはそう言う気持ちが大事だと思うから。
「あ、タンポポ」
 彼女が僕の足元を指差して言う。そこには一輪のタンポポが咲いていた。そう言えば、夕菜さんがタンポポのことを好きだったことを思い出す。そう言えば、花言葉だけは教えてくれなかったっけなぁと思っていると、彼女が僕の顔を覗き込みながら言った。
「ねぇ、創人君。タンポポの花言葉って知ってる?」
「ん、知らないなぁ」
 そうかそうか、と彼女は笑った。そして、
「真心の愛って言うんだよ」
 と言った。真心の愛、それは素晴らしい花言葉だ。まさに夕菜さんにふさわしい言葉だ、僕は足元に咲いているタンポポを見て思った。ふと、そのタンポポが夕菜さんのような気がしたけれど、そんなことはさすがにないだろう。
僕はこの先、この人と好き合うことになる。それはとっても幸せで、奇跡のはずだ。好きな人がめぐり合う奇跡。それって実はすごい確率なんだと僕は思ってる。


 あっちに着いたら何をしようか、そう言う事を考えながら僕たちは再び歩き始める。
 バーベキューでもいいし、釣りに行くのもいい。花火大会だって行ける。やることは色々ありそうだ。と言う事は二泊三日の旅路、そうボヤボヤもしていられないかもしれない。
 僕は歩きながら空を仰ぐ。うだる様な暑さけど、こんなに暑い夏だけれど。南に高く広がるスカイブルーの空が今日も綺麗だと思った。
~了~
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2

『落下流水』


 玄関を開けて僕たち家族が使っている部屋に入る。そこにはじいちゃんがいて新聞を読んでいた。
「ただいま、じいちゃん」
「おお、お帰りぃ」
 そう言うと新聞を読む作業に戻る。そう言えば、じいちゃんは何でここにいるのだろう。特に話すことなどないと思うのだが。
「何やってんの、じいちゃん?」
「ん?」
 一瞬顔を上げるけれど、すぐに興味が失せたのか、新聞に視線が戻っていた。ついでに言っておくと、じいちゃんは僕の文庫本を枕にして、仰向けで新聞を読んでいる。
「いやぁなぁ、ウチはいつもは新聞取ってないからな。息子のを読んでいるのじゃ」
 そう言って訳を話す。やっと僕にも伝わった。まぁ訳さえ知ってしまえば、後はどうでもいい。僕は荷物を置くと、その場に横たわる。その頭に敷いている本を返してほしいと思う。
「なんじゃい、創人、元気ないのぉ」
 じいちゃんが起き上がって覗き込んできた。正直、このアングルは女性にやられるとうれしいものだけど、男のしかもじいちゃんはうれしくない。僕は思わず目を細めた。
「んでもないよ」
「ほーかほーか」
 じいちゃんは強いて興味がないように頷くと、また仰向けになって新聞を読もうとする。その前に素早くその本を奪い返す。
「何するんじゃ!」
 頭に枕があると思って仰向けになったじいちゃんは畳に思いっきり髪もろくに生えていない頭をズリッと擦り付ける。その摩擦は少しだけ見ていて痛そうだった。しかし、文庫本は返さない。これは僕のだ。
「この本は僕の。じいちゃんのではないの」
「少しくらい良いだろうに……」
 舌を打つと、近くにあった座布団を丸め始める。最初からそれを使えとツッコむ。じいちゃん曰く「堅さがいけん」なのだそうだ。僕には良く分からない理屈だった。
 じいちゃんは新聞を読む。僕は文庫本を開いた。まるで読まれていない文庫本は結構最初の位置から栞が動いていない。それを動かすには今のような時間は丁度いいのだろう。この訳のわからない気持ちをストーリーと感応していく中で整理していくのも悪くないと思わないか。
 チックタック、時計が呻く。小さな呻きはしかし、地味に部屋に浸透している。人が話している時は特に気にしないようなその音も、こういうときはボリュームを行き成り上げたように大きいから困りものだ。
 こういう事を考えている時点で話に集中していないんだろうと思うけれども、疑問が頭を掠めるたびにそれを弾いているから頷ける。どうやら、思考の扉は、僕が考えることを拒絶するだけには飽き足らずに、僕の普段の集中力も削ぎ落そうと言うのか。自慢ではないが、集中力は全くない僕である。
 ペラリ、パラリと読んでいないのに、なんとなくページは進んでいく。今度読んだたら間違いなく分からないだろうと思いつつも、ページをめくる指は止まってくれない。
「なぁ、創人」
 新聞を読みながら、独り言を奏でるように僕にその言葉が向いた。
「何?」
「聞きたいことがあってなぁ」
 僕はこの実りのない時間に少しばかり、退屈し始めていたから、その話を聞くことにする。さっきは読みたかったはずの文庫本がやけに手に重く感じるのだ。ウェイト運動してるみたいでなんか嫌だ。小説って心をダンベルトレーニングするはずにあるものだっけか。
 じいちゃんは珍しく、言葉が出ないようだ。こういうことはすっぱりとすっきりと言うタイプだと思っていたのだが。……そう言えば、あの祭りの時もそうだったと思いだしていた。そのあとのこともだ。そして落ち込んで行く悪循環。心の中で自分を嗤ってみる。余計に凹んだ。
「お前、この前の祭りの時のべっぴんさんとまだ仲がいいのか」
「ええ、うん……」
 さっき泣かしてしまいましたが、と自分を責めてみる。まだエムの境地に達していない僕のハートはブローキン。ナイフが心の中の優しいところにズブリズブリと別に優しい速度でなくてもいいのに、むしろ、遅い方が余計に痛いのに、進行速度遅めに刺さってきた。なんかとても痛い。そしてなぜじいちゃんが夕菜さんのことを話すのか、それがイマイチ掴めないでいる。
「そうかぁ……うん、そうか」
 じいちゃんは僕のあの一言に満足してしまったのだろうと思う。ただ頷くと、新聞に戻りそうになる。僕は慌てて止めた。自己完結とか勘弁してほしい。こちらは気になってしょうがないのだから。
「ちょっと待ってよ! なんでそこで終わるのさ、理由を教えてよ」
「いやぁ、ただなぁ」
「何‼」
「ええ、ああ……」
 じいちゃんが答えに渋るものだから、僕はさらに近寄った。そんなに僕に聞かれては都合の悪いことなのだろうか。それで、夕菜さんが関わっているのなら、余計に、引き下がるわけにはいかない。
 僕は文庫本を放り出すと、詰め寄った。瞳孔を一杯に開けて、ビビるじいちゃんにのしかかるように詰め寄った。やっと話すから、やめてくれ! と心からの叫びが聞こえたので、行動をやめる。さぁどうぞと先を促した。
 じいちゃんは細い目で僕を一瞥すると、ごほん、と咳払いを一つした。
「あのな、似ていたんだよ」
「似ていた? 誰に? ばぁちゃんの若い時?」
「んな訳あるか! ばぁさんは綺麗だったが、あそこまででは無かったよ」
 ここは冗談でも、ばぁちゃんを立たせるべきではないだろうかと思うけれども、それはやらないらしい。ちょっとばぁちゃんが不憫に思える気がする。
「昔な、すんごくええ子がいたんだよ」
「うむ。で?」
 何だろう。違和感を感じる。この会話自体に違和感を感じるのだ。それはじいちゃんが珍しく、言葉を発せていないからだろうと思った。
「近所でも有名じゃったぁ。近くの学校に通っている女学生で、成績良好、スポーツ万能。まさに文武両道の大和撫子を絵にかいたような人物じゃって。実際に見たこともあったが、人当たりもよくてな。わしゃ、あんなバカ息子でなく、こんな子が子供だったら、さぞ幸せだろうと思ったもんだよ」
「あのさ」
 僕は話の腰を折る。僕の質問に対しての答えはあまりに曖昧すぎる。何が言いたいのか。何がしたのかもさっぱり分からない。いい加減しびれを切らしてしまいそうだった。
「何が言いたいの? さっさと結論を言ってほしいと思うんだけど?」
「ああ、すまない」
 じいいちゃんは切なそうな顔をする。一瞬僕が何かやらかしたのだろうかと思ってみたけれど、僕の意見は正論だと思ってるから、その先を待った。じいちゃんは逡巡する。そそして口を開いた。
「悲しい、事故じゃったぁ」
 ――は?
 いきなり出たその前の話からは全く無関係なワードに一瞬戸惑う。脳が瞬時にその状況を整理しようとして動き始めるが、少しばかり処理速度が間に合わない用だ。
「その子はな、その日は帰りが遅くなったらしい。で、家に急いで帰ろうとして、外灯もろくにない道を走り、畦道を転げ落ちた。そこは、既に使われていなくてな。地面は堅いし、それに打ち所が悪かった。まさに、不慮の事故だった……」
「はぁ。それ、で?」
 続きは聞くのが怖い、そう思う。僕が感じた違和感の正体が少しずつ紐解かれていくような感覚に襲われた。なんていうのか分からないが、段々と思考のピースが埋まって行く感じ。テストが面白いほどスムーズにテンポよく解ける時の感覚に今は似ていた。
「当時十八歳の少女はその若さで生涯を終えることになる」
 カチリ。
 パチリ。
 何かが当てはまる。動き始める。自分ではもはや抗えない速度で全てが流転していた。この濁流に僕は自分の身を任せるしか方法を知らない。
「何が、言いたいんだよ?」
 そういう意味のわからないストレスに言葉が荒くなる。じいちゃんは悪くない。それくらいは馬鹿でチャラ男な僕にもわかる。でも、それだけど。イライラが止まりそうもない。この感情の激流はもう動き出してしまったんだから。
 じいちゃんは、物憂げに僕を見る。慈しむような、同情するような目に思わず、拳を握りしめた。
「その子の名前がな……」
 名前を聞いて僕は一気に力が抜けて、その場に崩れた。
 ああ、なんて言う事だ。
 僕の中にあるパズル式の鍵に最後のピースを欲していた。黙れ、と自分の体に黙るように命じるといきなり立ち上がった。これは間違いだ。自分の出した結論は明らかに有意ではないと棄却するためには裏付けが必要だ。
 自分の行動は最後のピースをあてはめることになるというのに。そんな事実さえも捻じ曲げて、僕は行く。
 意識をするよりも早く、僕の足は図書館に向かっていた。


 走っている時に色々考えた。自分の考えた自分なりの結論というやつに対してだ。それは酷く馬鹿げていて、酷く現実離れしたものだけれど、なぜか信じたくなってしまうようなジレンマ。それ以外の可能性というやつのほうが考えていて、答えが出てこないなんて本当になんて言うトンデモ展開だ。
「はぁ、はっ」
 息が荒い。じめっとした空気はこの暑さで風と共に体にまとわりついて離れない。汗が思うように出て行かないから体に熱がたまる。このまま川にでもダイブしたい気分だった。
 そう言えば、あの人の体温はいつでも冷たかったなぁと思いながら、また湧き上がる予感めいた確信を押しこめた。段々と目の前に図書館がその輪郭を現してくる。黄昏町にある図書館はここだけ。というか、この黄昏町付近――上黄昏町、下黄昏町、右黄昏町、左黄昏町とあるが、その中でも一番の田舎であり、また学園が多く存在するこの黄昏町にしか図書館は存在しない。規模も中々で、見栄えも荘厳な造りで有名だ。
 入口に着く。この空を見ればわかるように、扉はとっくに閉まっていた。“本日は閉館しました”の札が忌々しげにぶら下がっている。しかし、僕はもう考える力が一部にしか働いていないようだ。そんな物は知らないと思う存分扉を叩き、声を張り上げる。
「すみません!」
 ありったけの力を込めよう。
「開けてください!」
 自分の考えが間違っていることを証明するために。
「どうしても調べたいことが! 緊急で調べたいことがあるんです!」
 そして、あの人にもう一度告白するために。今度は最高のシチュエーションで、最高の言葉で、最高の笑顔で伝えるのだ。そうすればきっと夕菜さんだって天使の笑顔を僕に向けてくれるから。もう二度と泣かせたくない。あの人を、あの人のあんな表情を僕は見て痛くない。
 張り裂けそうな胸の高鳴りは、喉を震わせて、魂を共振させた。
 そうだ! 俺は! 俺は!
「あけろって言ってんだよおおおおおおお」
 僕のフラストレーションが咆哮を上げた。何について考えるのか、僕は夕菜さんのことしか考えていなかった。全ては事実を知るために。それにはまず確かな地盤を気づくことが大事なのだから。これは一か八かの賭けかもしれない。じいちゃんの言葉を信じれば、僕の考えは恐らくあたっているんだろう。でも、少ない確率で、違う未来を見たいのだ。縋りたいのだ。そのために、今ここに来たのだから。
 ドン! と思い切り扉を叩き、尚、微動だにしない扉をにらんだ。
 駄目なのか、そう思った時に、後ろから影が伸びる。
「何やってるんですか!」
 見ると、そこには。
 この図書館の制服を着た女性が一人。必死の形相でこちらを見ている。手には携帯をもち、いつでもどこかに連絡できるようだった。これだけ騒いだのだ。相手は恐らく想像がつく。
「もう閉館時間です! こんな迷惑な行為……信じられないわ」
 ハッキリと軽蔑の眼でこちらを見る。胸元には「渡辺沙織」と書かれたプレートがある。
「すみません、渡辺さん」
「む、そう言う風に初対面の方に言われたくないのですが?」
 僕がいきなり、えへへと笑いながらチャラ男に戻ると、図書館員の渡辺さんはサッと胸元を隠した。そして、じろりと睨む。
「で、何の御用です? 本の返却ならばあそこのボックスに入れてくださればいいのですが」
 僕とは完全に距離を置きたがっている喋り方に緊張しながらも、僕は事情を説明した。これだけ美人だともてるだろうな、と思ったけれど、クールビューティーっぽいからそれもないのかなとどうでもいいことを考えている自分に苦笑いしてみる。もちろん、心のかで。多分、色々考えすぎて疲れているから意味のわからないことを考えているに違いない。
 しかし、この願いはすぐには通らなかった。
「なら、明日にして下さい」
「そこをどーにか! この通り!」
 合掌する。ちらりと片目をあけると、感情の揺るぎも一切見られない渡辺さんの顔が見る。駄目らしい。
 ここで帰ってしまったら、全てが駄目な気がした。今日知りたい。今すぐに知りたいのだ。こんなところでたたら踏んでいる場合じゃないのに。無情にも時間が過ぎていく。こうして無駄なやり取りをしている間中ずっと。夕菜さんに少しでも割きたい時間がどんどん消費されているのだ。堪らない。やってられないと思った。
「頼む! 大事なことなんだ。明日じゃ手遅れなんよ! 頼む!」
 僕はプライドや周囲の目を捨てることにした。まぁ元々プライドは低い方だし、周りの目なんてこの時間にはないのだけれど。それでもありったけの気持ちを込めて言う。夕菜さんへの想いも込めて言った。それは、土下座をした状態でだ。
「頼む!」
 頭を地面に擦り付けながら言った。一ミリでもいい、想いと思いが伝わったのなら。それでいいのだ。どうにかこの中に入れてくれという願いは、この行為によって実現される。
「わ、分かったわ。分かったわよぉ……。だから頭を上げてください」
 やっと分かってくれたかと顔を上げて喜びをあらわにした。渡辺さんの困惑顔が視界に入り、少し罪悪感が湧くけれど、それでも、僕の用事は大事だと思った。
 裏口から中に通される。真っ暗になった室内に明かりが灯り、渡辺さんはカウンターの席に座った。
「さぁ、早く終わらせてください。私も早く帰りたいので」
「有り難うございます!」
 誠意を込めての感謝を述べる。時間制限はこれから一時間。その間に探さないといけない。お礼を言うとすぐに探し始めた。図書館内で走るの禁止事項の一つであるが、今はそんな事を気にしている場合ではないのだ。走りこそしないが、競歩の気持ちで先を急いだ。
 もっとあらゆる所を探すのかと思っていたけれど、そのコーナーはすぐに見つかった。そこは郷土資料室。この黄昏町の歴史なんかをまとめてある場所だ。新聞は見てみたけど、そこまで遡るとなると、有名なニュースならピックアップされてますよ、と教えてもらったので、すぐに見ることが出来た。
 何冊も有名になった事件や地域のことがスクラップされて製本されているものが並んでいる。年代別に分かれていて、じいちゃんが言っていた事件があったころのものを引き出す。開いてみると、そこには六年の年月を感じさせるような記事が載っている。そして、何ページかめくって行くうちに、とうとう、その場所が見つかる。地元ではやはりニュースになったらしい。
 文章を読んでみる。最初の犠牲者の部分で指が止まる。汗がにじみ出た。そこには“松江夕菜”の文字が。少し名字が違う物の、下の名前は漢字も同じだった。
 その先を読んでみる。そこには事件の経過が第三者の証言から描かれていた。部活がその日は遅く終わり、その帰り道、暗い夜道。そして急いでいたのだろう、偶然転んでしまい、打ち所が悪く死んでしまったと言う事。すごく端的で端折った文章だった。その学校のアイドルだったらしく、写真が載っているとのこと。指で追って行った。段々と写真が近づき、そして枠が視界に見え始めたころに、指が止まる。この先を見てしまっていいのだろうか、そんな疑問が頭を掠めた。しかし、みないと前に進めない。決して意義のある一歩を踏み出すことが出来ない。
 でも、見なくちゃ!
 ただ、あの人は違うのだと自己満足するために!
 ゴクリ、喉が鳴る。そして震える指で段々と写真に近づき、その写真を視界に収める。すると、乾いた笑いが込み上げた。
 あっははは。
 これは傑作ではないだろうか。傑作すぎて話にならない。こんなシナリオはB級ホラーででもやっていればいいものを。なんでここでそんな事やっているんだ。そして、何で僕はその当事者になっているんだ。
 静かに本棚に本を戻す。床が少しずつ湿っていた。赤色の絨毯が紅色に染まっているような気がする。僕はその時初めて、自分が泣いているのだと気がついた。最後の思考のピースがぴたりとはまり込む。ガチンと大きな音を立てて扉が開いた。
 その先には何が待っているのだろうか。そう、その先には意味のわからない残酷な未来しか残っていないではないか。
 ――そこには、僕の知っている同じ顔の永江夕菜その人の写真が映っていたのだ。
 やはり開けるべきでは無かった。かつてパンドラと言う少女が箱を開けて、この世界に病気を振りまいてしまったように。また僕も開けてしまった故に最悪の結果を知ることなる。思い描いていたように推理は当たった。
 なんでなんだろう、そう思う。
 知らなきゃよかったんだ。運命なんて感じなきゃよかったんだ。あの時に、普通に気にすることなく、そのまま東京に帰る準備でもしていれば。こんな残酷な未来を知らないでも済んだかもしれないのに。
 黄昏町は不思議なことが起こる町とはよく言ったものだ。その不思議とやらで僕の心は絶望と悲しみで縛られている。この鎖は絡みついてとれないものだった。
 しばらく泣いた。その場に崩れ落ちて。今が閉館後で良かった。職員が一人だけでよかったと思う。チャラ男だって一人の男だ。こんな事実は残酷すぎて、泣けてしまうけど、それを人にみられたくはない。
 立ち上がる。力なく歩いた。やがて、カウンターまで残ると読書をしている渡辺さんに会う。渡辺さんはこちらを向くと、首を傾げた。
「もう、用事は終わりましたか?」
「ええ、とっても知りたい情報が載っていましたよ」
 思わず笑顔まで卑屈になるから嫌になる。渡辺さんはそんな顔に不審に思いながらも、帰りたい欲求が勝ったのだろう。それ以上は追及せずに出口へ行く。僕もついて行って外に出た。外に出ると、
「うわっ。最悪」
 渡辺さんは忌々しげにそれを見つめて、僕を見る。
「これどうぞ、使ってください」
 そう言うと、走って行ってしまった。裏口は駐車場が近いから、車にすぐに乗り込むのが見えた。今、外では大雨が降っている。なんて絶好なタイミングだろう。こういう物語のラストは大体、雨のシーンが出てくるものだ。しかし、僕の相手ではどうなんだろう。
 さっきまでは限界以上に働き続けた脳味噌も今ではすっかり元通り。ダルイ動作しかしたくなさそうだった。低速回転の脳味噌で僕は傘を開く。ここの所有物らしくて、名前のステッカーが傘に貼ってあった。
 帰り道は空っぽだった。
 そう空っぽ。
 ……心にはもはや、何が残されているんだろう。
 山の向こうからもそびえ立つ巨大な入道雲この雨を降らせている。今年は雨の量も少なかったし、恵みの雨とでも言うのだろうか。
 傘ではカバーしきれない部分から雨が侵入してきて服を濡らす。気持ちが重いからもっと質量を感じた。灰色の空はどこまでも広がって、そこから水滴は流れ続けた。帰る途中にも人には一切会わない。夕方が過ぎた道はもう暗くて、電灯の存在感ないつもよりもあるように思った。
 なんにも考えずに歩く。ただ、楽しかった数日のことを思い出しながら。
 雨はみるのが好きだ。降られるのは嫌いだ。でも、時と場合によっては降られる雨にも利点はある。それは泣いていてもほとんど気づかれないことだ。人もいないし、僕はまた頬を伝う涙を感じる。
 心が泣いていた。さっき治まったはずの感情の激流がまた暴れているのだろう。いくつもの“なんで”が脳内を飛び交い、そのたびに、もしもこうしていればという後悔が押し寄せては引いて行って。潮騒のようなそんな気持ちで気分はかなりブルーだった。
「あーあ」
 涙が止まらない。ちなみに、あと少ししたら、声も出ることだろう。大声をあげて泣くのだ。ひたすら泣いて。泣いて。泣きまくる。家に着くまでには泣きやみたいから今泣いておくことにする。外で泣きまくるのは男としてはどうだろうと思ったけど、チャラ男だから平気なはずだ。そして、この雨に紛れて僕の声を涙を流してくれることを願う。
 灰色に染まりきって、しかし夜の要素も垣間見える空を見上げながら岐路に着いた。


 ――そしてその次の日は朝から雨だった……。


「うっ」
 起き上がると頭が痛い。それに目が痛い。腫れあがっているではないか。現在布団の中。僕は目を覚ますとむくりと起き上がった。昨夜は布団の中でも泣いていた。なんだか我ながら女々しくて困る。
 リビングに行き、家族と挨拶を交わすとニュースが流れていたので座ってみることにした。天気予報で今日は一日雨らしい。
 しかし、今日は行くことはないだろう。あの場所には。もう二度といかないかもしれない。出発は明日だ。明日には東京に帰り、東京っ子としてチャラ男で菱山創人は一般的な高校生としての夏休みを過ごすのだ。帰ってもちょっとしか夏休みは残っていない。宿題はギリギリにやればいいとして、誰と遊ぶか今のうちから計画を立てておくことにする。
 家族は今日くらい休むらしい。一日家にいて、明日の体力を充てんするらしいのだ。僕は何をしようと考えて、その先が思いつかなかった。いつもならば、あの場所に行って夕菜さんと話して楽しい時間を過ごす。これだけで一日はあっという間で、帰る日も惜しくて一日よもっと遅く時間が流れればいいのにと思っていた。今は違うんだけど。
 今は早く帰りたい。東京というカオスな町で、東京色に染まりたい。今は少しだけ田舎色に染まっているから、心身ともに僕らしくないと、そう思うのだ。
 とりあえず、ご飯も食べたし、小説でも読むことにしようとねっ転がった。母さんは怒るけど、この体勢は楽だしやめる気はない。小説を開くと、やはり先が分からなくなっていた。この前は中身を理解しようともしていないのに読み進めていたせいだ。そこまで遡って読むことしよう。
 読むのはリビングだった。故にテレビの音や、会話の声が聞こえるけれど、僕はそういうのはあまり気にしないタイプなので居心地がよい。そのまま読み進める。
 やっとこういう話だったのかと理解し始めたころ。それでもいい感じに読み進められないこれにイライラし始める。
 要は僕が馬鹿なのだ。
 馬鹿でどうしようもない。救いようのない馬鹿。馬鹿すぎて笑えてしまうような馬鹿。馬鹿の中の馬鹿。キングオブバカは僕にこそ相応しい称号である。
 愛に愚直な自分に嫌気がさす。あんなことを知ってしまって尚、あの人のことを考えてしまう自分に嫌気がさした。もう考えることもないだろうと思っていた。もう何も考えないで、そのまま東京に帰るんだろうと。
 でも、そう思えば思うほど、夕菜さんへの愛情を渇望した。やっぱり好きなんだなぁと自覚する。僕は知ってしまった。細かいところは違うかもしれないけど、夕菜さんが時々見せる切なそうにどこかを見る理由を知ってしまった気がした。だから思う。こんなときにこんなところで呑気に小説など読んでいていいのかと。でも、こんな雨だから何をやってもしょうがないと心のどこかが告げた。
 窓から外を見る。強い雨だった。カンカンと屋根を定期的にノックするような音が聞こえる。庭にある植物たちが嬉しそうに空に向けて口を開けているように思えた。こんなに降っているのだ。あそこにいるはずがない。僕は外を見るのをやめて、また寝ころぶ。今度は窓の近くで横たわった。
 目を閉じる。すると、そこからは雨の音、人の発する雑音だけが聞こえてくる。視界はゼロで真っ暗だった。その音のリズムはやがて僕をリラックスさせていく。意識が段々と遠くなって、暗闇にずぶりと沈んで行った。そして、静かに暗闇に身を任せた。


 どれくらい目を閉じていたんだろう。ぱちりといきなり目が覚めて僕は目を開ける。やけに外が眩しいと思ったけれど相変わらず雨の音が聞こえる。起き上がると誰もいない。机に置き手紙があったので読んでみる。みんなで今夜の食事を調達に行ったらしい。読むと座ってため息をついた。
 まるで全てがノスタルジーのような感覚がした。全ては遠い過去で全てはもう手が出せない場所。少しだけ夢を見ていた気がする。そこではフィルムを回しているかのようにセピア色の視界がノイズ混じりに映っていて、その先には夕菜さんが切なそうに空を見上げているのだ。
 僕は何もできずにその場にいる。そう言う夢を見た。
 ハッキリ言って良い夢とは言えないだろう。でも、それを覚えていると言う事が、遠い過去だと思ってしまいたい現実が、僕にまだ未練があるのだと言う事を知らせているようなものだ。
 雨はさっきよりも強くなっている。雨のせいで和らいだ暑さは、部屋の中だと少し肌寒いとすら感じさせる。コーヒーを入れて飲むことにした。ヤカンに水を入れて火を掛ける。温められるヤカンを見ながら僕はぼうっとしていた。
 ――本当に、自分はここにいてもいいのだろうか。
 ――もしかしたら。あそこに夕菜さんはいるかもしれないのに。
 この雨でそれはない。それは建前だ。人の基本的な感情の流れだろう。しかし。僕が昨日。無理に図書館に入ったように、時に人は不可解な行動に出る。それがどんなに非合理的だろうとやってしまうものだ。
 それってつまり、恋と同じだ。
 恋愛だってあれほど非合理的なものはない。科学的に解明できる男女の部分はあるかも知れないが、一概にそれが全部とは言えないのだが恋愛というやつだ。人間咄嗟にそういう非合理的な行動に出てしまうのならば、夕菜さんにとってもまた同じなのではないだろうか。
 会いたくない。でも会いたい。
 ドクンドクンと心臓の高鳴りが聞こえてきた。心が命じている。いや、心というよりは本能とでも言った方がいいような、そんな感情が僕に叫んだ。「行けよ!」と。
 ピーっとヤカンが蒸気を吹かす。もう沸いたみたいだ。僕は一回頷いてみた。自分への最終確認の意味を含めて。火を消すと、用意しておいたマグカップには見向きもしないで準備をした。服を着替える。そして、外に傘を持って飛び出した。


 雨をかき分けるように道を走る。傘は途中でしまった。走る時に邪魔だと思ったからだ。
 視界が狭くなっていて、面倒だと感じる。時々ぬかるみに足がハマっては嫌な思いをする。でも、夕菜さんはもっと嫌な思いをしているのかもしれない。辛い思いをしているのかもしれない。あの表情の理由を、思いこみでなく本人の口から聞きたかった。
 胸が苦しい。
 彼女への想いと走る苦しさから。
 会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。
 もうなんでも良かった。夕菜さんの正体がなんでも良かった。僕はそれでも彼女を愛したい。恐らくだけど、全てを理解したかもしれないからこそ湧き出る想いがあった。
 天使の笑顔が好きだった。そのふわりとなびく綺麗な黒髪が好きでした。しなやかな体のラインも、包み込むような雰囲気も。全てが好きだった。全部欲しいと思った。
 何か囚われて導かれる結果もあるかも知れないけど。でも、僕はそういう道を抗いたい。僕はあの人が欲しい。抱きしめて、キスをして。僕のものにしたかった。自分で活路を見出して、駄目なはずの事実を駄目じゃない事実として上書きしたいと思う。
 やがてあの道見える。僕は一回深呼吸をすると、その道に入った。すぐ先に彼女はいた。僕は呼吸を整えると静かに近寄る。夕菜さんは何を思うのだろう。いつものように空を見上げて静かにたたずんでいる。しかし、今日はロケーションが違う。でも雨が降り注ぐ中で佇むあの人もなんと美しいことか。
 女神が羽を休めているようだった。それくらいに美しくて、それくらいに神々しさすら感じる。見とれてしまって目が離れない。これって言うのは惹かれあう引力のせいだと信じたいと思う。
 僕は傘を開いた。もちろん、使い道は自分に使うのではない。
「何してんですか」
 スッと夕菜さんの上に傘を被せる。気づいた夕菜さんはこっちを向いた。
「あ、創人君」
 いつもように笑うのかと思えば、すごく儚い笑顔で思わず胸が締め付けられた。僕がこんな顔にしてしまったんだろうか、そう思うたびに後悔がよぎるけれど、それを表だって後悔するのはもしかしたら、夕菜さんにとっての侮辱になるのかもしれない。
「隣、いいですか?」
「うん」
 僕は彼女の隣に座る。地面はじっとりと雨にぬれているが、そんな物は気にしない。座ると夕菜さんが口を開いた。
「良かったぁ」
「え?」
 夕菜さんは僕の方を向く。儚そうに、でも嬉しそうに口元が緩んでいる。これは思いあがりでもない限り、本当に喜んでくれているのだろう。
「この前、私泣いちゃったでしょう。それで逃げちゃったでしょう。創人君、もう来てくれないかなって思ってたから。ここでずっと待ってみても来てくれないかなって思ってたから」
 僕は言葉が出なかった。夕菜さんはここでずっと待っていたのだ。いつも僕が来る時間帯に。それからは大分時間が過ぎて、雨も強くなっていると言うのに。それでも夕菜さんはここで待っていたと言うのだ。
「それは、すみません」
 謝るしか分からない。これ以上に気を利かせた言葉も見つからないし分からない。僕はそう言って項垂れると頭に冷たい感触が乗った。
 夕菜さんが僕の頭を撫でてくれていた。顔を上げると夕菜さんは微笑んでいる。
「気にしないで。私のわがままなんだから。ここで待つと言う事。そしてここに存在していると言うことすらも……」
 その言葉は何を意味するのだろう。僕はもう分かっている。全てが分かっていた。じいちゃんから話を聞いて、新聞を見て。今までの良く分からない違和感が理路整然と並びかえられる感じ。
 そして僕は、僕の本当の気持ちとは別に、どうしても聞かないといけないことがある。
「夕菜さん。いや、松江夕菜さん」
「あ、そう、そうか……」
 僕はその名前を口にする。夕菜さんの口から聞いた言葉とはちょっと違うその名前。それは、六年前にここで亡くなった一人の女学生の名前だった。
「もう、全部分かってるんだね……」
 一瞬驚いた顔になって、夕菜さんは一人頷く。全てを悟って、全てを覚悟したような目で僕を見た。
「そうだよ。私は松江夕菜。六年前にここで死んだ、松江夕菜なんだ」
 そして夕菜さんは朗々と語り始める。全ての真実が段々と紐解かれていった。


 それはどういう話だっただろう。僕はそれを聞いて、切ない気持ちになった。恋を出来なかった少女の恋をしたいと言う強い想い。そして、この黄昏町という場所のことを。黄昏町は不思議なことが起こる町だ。
 UFOが目撃されたり、幽霊や怪奇現象という意味でも有名だったりする。要はこの町は、現実と非現実の境目、特異点なのだそうだ。
 恋が出来なかった少女は恋を望んだ。不本意にも死んでしまった自分。そんな自分が嫌だった。せめて、一回だけ。一回だけでいい。恋がしたかった。
 誰かを好きになって、普通に恋をして。普通に話したかった。生きている時には出来なかったそんな事。でも、死んでしまって余計に遠のいたそれを強く願い続けた。成仏はしたものの、それだけが心残りで。そんな少女の切ない願いを神様は聞き届けてくれた。だから、お盆の期間だけ。それだけだけど、この町に舞い降りることが許された。
 黄昏町というそれだけで不思議の塊で、それが叶えた少しの奇跡だった。少女は実体化し、声でしゃべり、物を触ることが出来た。自我もちゃんとあって、恋をすることが出来た。そのほかの味覚なんかは戻ることはなく、その体を維持できるのは黄昏町の中でだけという括りもあったが、それでも少女は幸せだった。
 でも、彼女は僕と出会った。そして、好きになった。どこがというのは無かったのだそうだ。ただの一目ぼれ。魂が魅かれあった、そんな感覚だったのだそうだ。だからお盆が終わっても帰れずにいたのだ。神様にお願いして、一週間だけ、その期間を延ばして貰った。そして、明日帰らないといけない、と。
 喋り終えてから夕菜さんは一呼吸ついた。そして、はにかみながら笑う。
「なんかさ、恥かしいね、自分のこういうことを話すのって」
「え、ああはい」
「何よ、その気のない返事」
 うふふといつもの笑顔だった。僕は全部聞いて、そしてほとんどが予想通りだった。でも、以外だったことが一つ。それは、夕菜さんも僕のことを好きだったと言う事だ。僕は衝撃的な一目ぼれをしたと思っていたから。でも、そんな感覚は夕菜さんと共有してると思わなかった。
「すみません」
 僕も笑う。恥かしさが込み上げて、それを紛らわすために。嬉しさが体中を駆け巡って、それだけで泣きそうなったから。嬉しくて。嬉しくて。この素晴らしい気持ちをみんなで共有したいと思うほどに。
「でも、嬉しくて」
「うん」
「嬉しくて。でも、どう言ったらいいのか分からなくて」
「うん」
 でももうダメみたいだ。僕はチャラ男。だから心が実は弱かったりする。込み上げる想いが涙腺を押し上げて、体液が表面張力に耐えきれずに流れ出す。ダムが崩壊するみたいに涙が出るようだった。
「泣かないでよ。私ね。思ったんだ。流れ星って地球の引力に魅かれてやってくるでしょう。私もおんなじなんだなって。もう心があなたに魅せられていた。みた瞬間に好きだって思ったの。心の引力に私は魅せられたのよ」
 夕菜さんはそっと僕の手を握る。冷たい手。それは夕菜さんが死んでいるからなのだろう。でも、心は誰よりも温かいんだと思った。それは表面上では分からないようなフィ―リングに頼った感想だけれど。そう思いたい。だって、僕が人間で、感情がこみあげて涙した。そして夕菜さんもそう言う風に涙を流すことが出来るんだから。
 顔をぐしぐしと拭く。でも正直、落ちてくる雨にぬれているからあまり意味を為さない。夕菜さんはつづけた。
「花火を見ていた時、私は空を見ながら考えていたの。花火って、あんなに華々しく咲いた後に、何処へ消えてしまうんだろうって。そして創人君を見てさらに思ったんだ」
 夕菜さんは不意に僕を見た。涙にうるんだその瞳がやけに艶やかな印象を受ける。泣きながら、震える唇を開いて言った。
「私はあなたと出会えて、結ばれたとして、そのあとに何処へ消えてしまうのだろうって。私はあなたの記憶から消えてしまうのかって」
 だからね、と。
「怖かったの。告白されたときに、怖くて怖くて。体が震えるようだった。寒さだってそんなに感じることのないはずのこの体が一気に凍えるようだった」
 そして僕は抱きしめられる。
「私はあなたのことが好き。好き。大好き。好きすぎて、帰りたくないと思ってしまうほどに好きでたまらない。心が重すぎて、歩けなくなるほどあなたが好きなのよ」
 温かさを感じるようだった。雨の中でもその心の温かさは変わらずに僕の中に流れ込んでくるんだろう。そのコップ一杯になりすぎて、零れてしまう想いの欠片を集めていく。
 少しずつ少しずつ。スコップで掬うように回収して。
 また僕の心も満たされていった。好きで堪らない。そんな気持ちが共有できた奇跡。
 この世で好き合って付き合う人たくさんいると思う。そして同時に好きでもないのに付き合ってる人だっているはずだ。そう言う人に伝えたい。好き合って結ばれる尊さを。その価値を。お金では買えない、素晴らしいものを。
 僕は抱きしめる。雨にぬれた制服はぐっしょりと水を滴らせていた。抱きしめてしまえば、なんて小さい背中だろうと思った。年上でお姉さんな彼女も一人の女性だった。
 愛おしい。
 愛おしい。
 全てを自分のもんにしたくなるくらいに。
「僕も好きでした。好きで好きでたまらなくて。あの泣かせてしまった夜には後悔しました。あんなに一方的な思いの伝え方が、夕菜さんをあんな表情にしてしまったのかって。僕はいつでもあなたの笑顔を見ていたいです。僕を包み込んでいて欲しいんです。幽霊だってかまわない。今、僕はあなたが好きなんだから」
 想いを伝えあうにはどれ程の奇跡を用いるんだろうかとこんな時にふと考える。それってとってもすごいことなんだ。簡単に見えて簡単でないそれは、何よりも素晴らしくて。伝えあったのなら、それはミラクルを重ねたミラクルなのかもしれない。
 どれくらい抱きしめあったのだろう。雨の冷たさなんて関係ないほどに熱い抱擁を交わしていた。やがて、力が弱まる。少しだけ距離を離して見つめ合った。
「創人君。あのね……」
 言おうとした言葉を僕は止めた。
「僕に言わせて下さい」
 そして、
「松江夕菜さん、あなたが好きです。付き合ってください」
 期間なんて問題じゃない。好き合った時間が問題なんじゃない。要は心の問題だ。その人好きだと思う心が大事なんだから。明日帰ることになる。二人とも状況は似ているけれど、今この時間を大事にしたいんだと思った。
 想いの旋律に乗せて言う。
 あなたの心に届けと願う。
 降り続く雨が、僕の想いの欠片なら、もっと多くを伝えられたのかなと思った。
 夕菜さんは僕の言葉を聞くと、また目から涙をこぼす。何が、味覚を感じられないだ。今、夕菜さんは人間だ。人種なんて関係ない、ただ、目の前にいると言う事実。それが一つだけ重要な真実のはずだから。
 夕菜さんが口を開く。雨の音に消えてしまうようなか細い声だけど、「はい」と確かにその言葉は僕に伝わった気がした。
 涙を流しながらはにかみ笑いを浮かべる彼女の後ろに、いつの間にか雨が弱まって、太陽の光が空から線のように伸びているのがとても印象的だった。
「私も好き」
 どちらが先に動いたんだろうというのは思いだせないけど。自然と体が動き始めて、ゆっくりと二人の唇が触れた……。
 その唇は柔らかく、湿っていたけれど、夕菜さんの想いが一杯詰まっているような気がした。
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◇水火君私◇

『落下流水』


◇水火君私◇


 ………ある日言っていたあの言葉が胸をよぎる。
 片方の手にその花を持って言うのだ。
 ――私ね、タンポポの花が好きなんだ。
 理由は分からない。だって、教えてくれないから。でも、それを教えてくれなかった時の彼女はとても少女的だった。顔を赤くしている様子や、追いかけると、「べーっ」と舌を出して僕から逃げる。ひらりとプリーツスカートをひらめかせて。長く綺麗な夜の粒子を集めたような黒髪をなびかせながら。
 後に分かったその言葉の意味に、僕はなぜだか涙していた……。


 現状を報告せねばなるまい。いや、別に誰にというわけではない。今日の脳内会議で提出する内容だった。まず、ここ数日の動向。夕菜さんと遊ぶ。夕菜さんと食事をする。夕菜さんと一緒に歩き、夕菜さんとの会話に大満足。
 ――ふむ。で?
 何か進展したかと言われれば答えはノーだった。
 頭を抱えたかったけど、そうもいかない。僕は正気に戻った。現在キッチン。目の前にはボールがあり、手には小麦粉やら付着して真っ白だった。何をしているのかと聞かれれば、僕はただいま料理の真っ最中だ。正確には料理というよりかは製菓作業だけど。
 僕は今、朝に早起きをして、種を作っておいたのを形にする作業をしていた。これは夕菜さんに今日持っていこうと思っていた奴である。母さんたちがご飯を食べるのが遅かったせいで予定よりも時間が押しているが、致し方が無い。せっせと作らなければ。
 実はかくかくしかじかな内容で、不安はたっぷりあるものの、僕は自分のお菓子作りが
得意な普段のポテンシャルを信じてみることにした。早速、オーブンにスイッチオン!
 ブオンブオンと鈍いうめき声を出しているオーブンの隣で、手を洗ってインスタントコーヒーを入れて待つことにする。ここは田舎なので特にやることもない。
「ぶおんぶおんぶおん」
 オーブンの鳴き声を真似しながら待ってみる。いや、鳴き声……なんだろうか。
 それにも飽きると、文庫本でも読むかと広げた。危うく、コーヒーをこぼしそうになった。ああ、もう駄目ではないかと新聞を広げた。今のチャラ男には情報戦は必須だ。だからインテリなチャラ男になるのだと読み始めて数行、その行構成に四苦八苦して断念。どうやら今の僕にはレベルが足りない。
 結局文庫本に戻り、しばらくして。
 ――チン!
 小気味の良い音がした。文庫本をしまうと、オーブンの蓋をあける。良い匂いがした。香ばしくて、思わずそそるような。とりあえず匂いは大丈夫らしい。後は、味だな……。
 僕は味見をしようとして手を伸ばした。後もちょっとで手が届くところで携帯が鳴った。悲しい現代っ子の習性でクッキーそっちのけ、携帯をとる。内容はメールと見せかけてアラームだった。自分が先ほど設定したもので、もしもの時の最終防衛ラインだった。
 変な言い方になってしまったが、要は、今日の約束は時間指定があり、それに遅刻しないギリギリな時間だったのだ。
「あっ」
 僕は味見をするのを忘れて、そのクッキーたちを包みに入れた。本当はもうちょっと冷まさないといけないのだが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「いそ、が、なきゃ!」
 靴を履く。バランスが取れないでドアに激突した。肩を打っていたかったけど、これからを思えばそれすらも幸せの痛みである。別に僕がエムなわけではないと注釈しておく。
 ドアを開けた。バッグに入れたクッキーの匂いを微かに振りまきながら先を急ぐ。遥か上空に仰ぐ空、山の向こうにそびえ立つ入道雲の方向に向けて、ストローク大きめに走り出した。


 黄昏町の駅前、改札口の近くに立つ彼女をみる。今日も夕菜さんは戦闘服を着ていた。いつも着ているけれど、もしかしたら替えの制服がないのかなと思ってみたりする。とっても失礼だった。
 携帯を出して時間を確認。よし、まだ時間には十分早い。友達との約束には基本的に一時間遅れるほどの僕だけれど、やはり、夕菜さんとの約束は別格らしい。この行動だけで賞とかもらえそうな勢いだ。
 そろりそろりと足音を立てないように忍び寄った。もちろん、そのまま行ってはつまらないからだ。僕が少しずつ立ち止まっては近づいて行く過程で気がついたことがあった。それは、やはり夕菜さんはずば抜けて綺麗だと言う事だ。綺麗で、見とれてしまう。
 だから、というのだろうか、男に声を掛けられていた。なんと相手は如何にもチャラチャラして……あ、自分もか。
 まぁとにかくチャラ男だった。二人組のチャラ男。チャラオブラザーと名付けることにした。以降チャラブザと呼称する。チャラブザの片方。レッドが声をかける。夕菜さんは華麗に無視をしていた。続いてブルーが声をかける。この喧騒の中でもある程度声が聞こえるのだから結構声は大きめだ。でも、美麗にスルー。素敵です!
 夕菜さんは本当に気が付いているのかいないのか分からないように手元をいじくる。僕の距離だと少しだけ、正体が微妙に掴めないが、遠目に見たら彼女の手元にはタンポポが納まっているように見えた。
 あんまりにも無視を決め込まれるものだから、とうとう、チャラブザがキレた。夕菜さんに手を上げようとした。さすがにそれは止めなければ。僕が飛び出したところで面白いようなタイミングで夕菜さんがこっちを向く。ぱぁっと晴れる笑顔。飛び出す足。抱きつく様に僕の元に来た。あの人の波をスルスルとかき分けて。
 そのタイミングというか、の良さにレッドは手が止められない。レッドの平手は夕菜さんに届く訳もなく、夕菜さんが寄りかかっていた柱に激突。ぱちーんと乾いた音が聞こえた後に沈み込むレッド。黙祷でもしておこう。
「遅いよ!」
 そのまま肩タックルを喰らった。あんまし痛くない。むしろ、思わず抱きしめたくなるような愛くるしさを纏っていた。
「いやぁ、すみません。それにしても……」
「ん?」
 よく、無事でしたねぇ、と先ほどの事を聞いてみた。夕菜さんは僕の話をタンポポをいじくりながら一生懸命聞いて、そして首を傾げる。
「うむ。そんな人いたっけ?」
 どうやら、意識の中にも入っていなかったとのこと。ぼうっと手元をみていたのだと言う。そして、
「でも、その人達、チャラチャラしてたんでしょ? だったら気付かなくてよかったわ。私、そう言う人嫌いなの!」
 珍しく嫌悪感を露わに夕菜さんが愚痴る。そして、その言葉はチャラブザを貶めるのと同時に、僕の心にナイフを突き刺した。
 ずぶり。
 ああ、では自分はいかがなものか、と。僕はちょびっと不良でチャラ男である。へたれでどうしようもないけどチャラ男なのだ。自称するほどチャラ男なのだ。夕菜さんはやがて泣きそうにウルウルとした僕のことに気がついたみたいだった。
「僕も、チャラ男ですぅ」
 ぐす。
 情けないとか言わないでくれ。好きな女にこんなこと言われたらエムでもなければ泣いている。今なら変態にでもついて行ってしまいそうなほど心に隙間があいていた。
「え、あああ! そうじゃないのよ!」
 あれよあれ、と夕菜さんが必死に言葉を探すが、見つからないようだった。
「あ、ん。えう……」
 しばらく唸った後に行動停止、夕菜さんは俯いた。そして思いついたように顔を上げる。
「ん。まとまった。私はね、創人君なら良いんだ。だって……」
「だって?」
「あなた、自分で思ってるほどチャラくないよ?」
 天使の笑顔で言われた。そんな僕のハートはブレイク。良い意味でブレイク。ぶち抜かれた。
 一瞬にして機嫌が直る。生きていていいのだと思った。我ながら単純な奴である。自称チャラ男なのに、違うと言われたのは少しショックだけれど、とりあえずは、嫌われていないことを喜ぼうじゃないか。
 さぁ、今日も頑張って行こうと思ったその時だった。やっとさっきの痛みから立ち直ったチャラブザの姿を見た。そいつらはそう、一直線に僕らの方向に進んできている。顔は真っ赤になって。あれって、赤ペンキとか塗ってないんだよね? だったら相当怒ってる。
 冷や汗が垂れる。次の瞬間には手を握っていた。
「え、え?」
 突然のことに夕菜さんの頭上には今、すごい数の疑問符が浮かんでいることだろう。しかし、そんなことは知ったことか。駅の時計を見て思ったのだ。今ならちょうど電車が来る。
 人ゴミを分けながら走る。人ゴミと言っても田舎だからそんなにいないことが焦らせる要素だった。
 走って、改札を抜けて、ワン・ツーのタイミングで来た電車に滑り込んだ。半分転がるように乗り込んだために、周囲の視線が痛い。やがてドアが閉まる。しまった時にドアの向こうにチャラブザの姿があった。
 チャタブザめ、残念だったな、と心の中で罵声を浴びせて優越感を感じながら席に座った。
「あの……」
「なんです?」
 隣の夕菜さんを見る。顔が真っ赤だった。走ったから暑いのだろうか。見渡してみると、ここは弱冷房である。乗る車両を間違ったな。
「ごめんなさい、違う車両にしましょうか? 暑いですもんね」
「違うのよ! あのね……んん! とりあえず、おはよう」
「おはようございます」
「で、ね……」
 合った視線が徐々に下に向き、僕は気がついた。
「うわぁ、ごめんなさい!」
 繋いだままの手を離した。ひんやりとしていて気持ちがよかったのは夕菜さんの手だったらしい。なんとも恥かしいやつだろうと自分を馬鹿にする。
「いえいえ。温かい手なんだね」
 にこりとお姉さんの笑顔だった。僕はそれだけで、恥かしい気持ちがどうでもよくなってしまったことに笑えてしまうのだった。
「……はい」
 ああ、やっぱり恋って偉大だ。こんなにも今が幸せなんだから。
 電車が動き出す。横にどんどんと景色が流れて行った。車両には数名しか乗っていなかったために話が弾んだ。ガラガラの車両は心地がよい。そして、次に車両のスピーカーから上黄昏町の名前が飛び出すまでの少しの間。僕はポカポカと温かい、外の暑さとは大分違った時間を過ごすことになったのだ。


 そして到着して。僕らはいつものように映画を見て、買い物を楽しむ。ウィンドウショッピングなんかも面白かった。最終的には、上黄昏町だけではなく、右黄昏町の電気街にも足を延ばす。運のいいことにチャラブザには遭遇することなく、時間は過ぎた。
 そして駅前の喫茶店に入った。この前のところとは違い、右黄昏町の喫茶店は落ち着いた趣だ。ビジネス街のある、下黄昏町が近くにあるためと、後は電気街の会社はそこそこレベルが高いのが集まっているために、ジャンクフード的なイメージでなく、落ち着いた大人のイメージしているらしい。
 僕はアイスコーヒーを頼んだ。夕菜さんは今日のお勧めコーヒーだ。夕菜さんは朝から持っているタンポポをポケットから取り出すと、また手元でいじっている。
「それ、好きなんですか?」
「え?」
「タンポポ」
 言いながら思う。タンポポの花言葉ってなんだっけ? と。実は女の人を口説くために、そこら辺は勉強した試しがあるのだけれど、いかんせん、思い出せない。肝心な時に思い出せない自分に嫌気がさした。
「うん。好きなの」
「差し支えなければ、どこがか聞いていいですか?」
「どうぞどうぞ」
 また天使の笑顔だった。思わず口元が緩んでしまうのを隠すのに苦労した。
「私ね、自分が違ったから。私って言う人間がこんな雑草みたいな花じゃなかったから。実は心が弱いと思うから。だから、こんなにも力強い、でも、雑草みたいなのに可憐で美しいこの花が好き」
 そう説明する時の雰囲気を見て思う。これだ。この雰囲気だと。夕菜さんが時々見せる悲しそうな、寂しそうな雰囲気。何を考えているんだろう、どこを見ているんだろうと遠くを見ている時のあの感じだった。
 そんな違和感を感じるけれど、やはり僕には何も出来ない。この話を聞いていることしか。今さらながら、地雷を踏んでしまったのではないかと後悔した。
「ん、なんかごめんね、しんみりとした空気になっちゃったわね」
 それは皮肉なことにこの喫茶店と見事にマッチした空気だった。でも、僕はそれが嫌だった。いつも夕菜さんには笑顔で居て欲しいと、そう思うから。そうさせてあげ続けたいと心から渇望しているから。
「いえ、で、それって花言葉なんでしたっけ?」
 でも夕菜さんは多分、その悲しさの訳を話したくないのだろう。それは言いたくないからだ。心のもっとも柔らかい何かを晒すような、そんな事情だからなんだろう。だから、聞かない。夕菜さんが自分から言うまでは。僕は、そんな疑問を持たないようなふりをして聞いた。
 んー、と。
 夕菜さんはしばらく考えた後に体を乗り出す。行き成りでびっくりした。その細い人さし指を僕の口元に当てる。
「ヒミツ」
 多分、いつか分かる時が来るよ、というと元のポジションに戻った。びっくりするような大人を感じさせる雰囲気に一瞬ぽかんとなった後に顔が真っ赤になった。多分、こういう大げさな行動をとることによって、この話はここでおしまいと言いたいのかもしれない。少々過激な自己表現だと思う。
 コーヒーが運ばれてきてしばらくは何も会話が無いまま進んだ。そしてテーブルの隅にある、可愛らしい小さなバスケットを見て思い出す。
「ああ、そうだ」
 鞄に手を突っ込んだ。包みを取り出すと、微かに匂いが残っていた。香ばしい匂いのバッグになってしまったものだ。
「これ、作ったんです」
「え、創人君が?」
 今朝作ったクッキーだった。夕菜さんのことを想い過ぎて、途中の過程が思い出せないから味には不安が残るものの、匂いは大丈夫だった、というわけで行けるはず。
「食べる食べる!」
 嬉々として、包みからクッキーを取り出すと、小気味の良い音を立てながら夕菜さんは租借する。あの様子じゃ味も大丈夫らしい。
「おいしいよ!」
 包みに中に二枚残った時にそれを言われた。そして、その包みは僕の元に戻ってきた。全部は食べれないから後は食べてという意味らしい。僕自身味見をしていなかったし、ちょうといいとそれは受け取っておいた。
「そろそろ、行こうかしらね」
「ですね」
 それを食べおわってからしばらくして、夕菜さんが言った。僕もそれに続く。僕は何も想いを伝えられていないことにかなりの不安を覚えていた。なんとかしなければと思うたびに何もできない。喫茶店であの落ち着いた雰囲気。やろうと思えば結構良いムードで話を持っていけていたと言うのに。
 もったいないことこの上ない。後で反省会だなと思いながら電車に乗った。


 いつものあぜ道にて。
 またいつものようにそのポジションに座った。もう帰りの時間であるからして、空は一面赤色だった。茜色の空に大きな雲たちが映える。風は生ぬるいけれど吹いていて、僕の肌をそよそよと撫でていた。隣を見る。隣には夕菜さんが長い髪を抑えて遠くの空を見る。いつも見る違和感がそこにあった。
「ん?」
 夕菜さんの顔がこちらに向いた。そして微笑む。
「どうかしたの」
「いやぁ」
 特になかった。でも、ただ見ていたかった。そう思うのは僕の傲慢か。
 整った顔に茜色が差す。少し逆光気味にうつるシルエットはまるでどこかの肖像画でも見ているかのよう。ここは美術館かなんかで、モナリザなんかの隣にその絵がある、そういう錯覚に陥った。
 突然思った。何かもが突然だった。湧き上がる衝動に僕自身が戸惑った。
今言いたい、そう思う。
その顔をずっと見ていたかった。そのぬくもりを確かに感じたかった。今日が終わればこの気持ちは冷めてしまうのかもしれないけれど、そうはさせたくない。今、自分の物にしたい。
「あの」
 夕日に映える君を見て想う。
 ずっと好きでしたなんて戯言はいえない。一目ぼれだったから。でも今日まで過ごした夕菜さんとの時間は、僕の中で、多分恐らく馬鹿みたいに濃密な時間だった。もうそろそろ帰る日にちだって迫っている。もしもいえなかったそれでもいいかなと思う日もあったけど。さっきその顔を見て思ったのだ。
 その考えは間違っている。今言わないと、絶対に後悔する。終わらせたくない時間に終始符を打つ結果になるのかもしれないけど。
 でもこのありったけの気持ちを込めて言いたいのだ。
「好きです」
 好きなんです、と。唐突に、でも、僕の中ではずっと予行練習していた言葉を口にした。口にしてみて、死ぬほど恥ずかしくなったけど。それでも後悔はしていない。言えたんだから。
 まだドクドクと脈打つ心臓を押さえ込んだ。前をしっかりと見据える。
「え、え?」
 僕の言葉はあまりにも突然だったのかもしれない。僕だって言うつもりはなかったのだ。でも、その顔を見たら言わざるを得なくなったというか、言わなきゃ嫌だと思ったというか。
 一気に周囲が静まった気がした。何も聞こえない錯覚に陥り、それでも聞こえる心臓の音に辟易する。相手の挙動が気になって、夕菜さんから目が離せない。夕菜さんは俯き、空を仰ぎ、横を向き、指を交互にいじり、近くに生えていたタンポポを摘んで手でいじったり。顔は赤くて、眼が潤んで、今にも泣きそうで。何かしがみつきたい様な助けを請うような目をしていた。
「あ、の」
 あのね、と。
「……うれしいよ」
 流れて伝う涙が僕を戸惑わせた。その口が奏でる音はなんだろう。否定? それとも肯定? どちらともつかない様な空気が流れて、そして、夕菜さんはいきなり立ち上がった。
「ごめん!」
 言うのが早いか、夕菜さんは踵を返す。あんまりにも見ることに集中していたから、その行動にとっさに反応できないでいた。
「え? あ? 夕菜さん!」
 手を伸ばす。一瞬とどきそうなその手は空を切り、僕の手から逃れてしまう。あっという間にその背中は見えなくなった。僕はその場に佇む事しか出来なかった。


 帰り道を歩きながら僕は考えた。何がいけなかったんだろうと。まぁ何がいけないのかと聞かれれば、それは間違いなく、僕がフライング気味に発したあの言葉なんだろうけど。もっとタイミングを計るべきだったのか。でも、それでは時間がない。あと少しで僕は東京に帰らないといけないんだ。その前に、僕は彼女にこの気持ちを伝えたかった。
 それは傲慢で、エゴで、自己満足で。
 そういう黒くて綺麗じゃない感情から発せられた言葉なのかもしれないけど。でも、人を好きになるって綺麗ごとじゃない。人を好きなれば、その人が他の人と話しているとどうしようもなく嫉妬するし、嫌な気持ちになる。自分以外の人間がその人から見えなくなればいいのにと思う。自分勝手な気持ちを推しつけることだってあるはずだ。でもそれはそれほど相手が好きだから。
 相手がもしも困ることがあったとしても、強引に言って、自分のものにしたい。そんな独占欲が恋を占める数パーセントだと僕は信じている。
 そう自分に言い訳してみても結果は変わらなかった。ようは僕は振られたのかもしれない。信じたくない現実が脳内をいったりきたりしていた。
 もしかしたら、あの時言わない方がよかったのか。あのまま言わないで、じゃあねって言って東京に帰ってれば良かったのか。僕は違うと思うのだ。それではいけない。それじゃいけないからあの時言ったんだから。
 でも、よく分からない確信だけは胸の中にあった。
 あの告白をしたことで、何かが大きく動き始めたのだ。決定的な分岐点に僕は立ち、そして道を選んだ。広大でいくらでも行き来できる共通の道では無く、選んで狭くなった道を。
 運命、とでも言うのだろうか。
 運命の歯車が動き出す。もはや、僕の手が届く範囲では無いのかもしれない。もう、神のみぞ知る様な、そんな結果なのかもしれない。サイは振られたのだ。だから歩き始めるしかないだろう。
 嫌な予感がしないでもない。でも、それを乗り越えるのが本当の恋愛だと言うのならば、それはそれで良い感じだと思う。まったくもって、僕は恋愛に愚直だったのだ。ここまできてやっと自分の特性が分かり始めてくる。
 歩きながらふと鞄を見た。そう言えば、朝に焼いたクッキーの残りが入っている。この嫌な気持ちを少しでも和らげようと思った。甘いものを摂取すればあるいは治るかもしれないと言う馬鹿みたいな思いこみに頼る。
 口に入れて、噛んでみて。そしてその思い込みすらも幻想だと感じた。
「まっずぅ」
 あれ?
 おいしいって言ってくれていたよな?
 僕が食べたクッキーは食べた途端に苦みを感じた。そして下にびりびり来るこの感じは……明らかに何か間違っている。これでは外国に売っている美味しくないお菓子のようだ。ぼうっとしながら作っていて不安だったが、まさかこんな形で的中するとは思わなかった。
 なんであの時に言ってくれなかったんだろうと思ってみるけれど思いとどまる。
 ――もしかしたら、この味が分からなかったとか……。
 まっさかぁと心に思い聞かせた。これが分からないとか。そんなことは決してありえないはずだ。口に入れた途端に広がる不快感とは正直、耐えられるものではない。捨てるのもあれなのでまずは呑みこんでみるけれど、これは明らかにちょっと飲み物を飲んだだけでは中和されそうにないレベルに不味い。
 多分、僕を悲しませたくなかったんだと思いこむことにする。だってそうに違いない。そんなことは信じたくないから。
 段々と忍び寄ってくる何かに僕は言いしれぬ不安を感じ始めていた。気持ちとかそういう物は一切関与しない。それよりもっと深い何か。本能にも近いのかもしれない何かを感じていて、それがこれ以上思考の扉をあけることをパズル式の鍵が拒んでいた。
 もしも、この先に思考のピースで埋めて行って鍵を完成させたなら。空けた扉の先には何があるのか。
 分からない。こう言う自分勝手に働く思考のやり取りすらも、僕にはほとんど理解できないのだから。
 嫌に蒸し暑く感じる。服に風が入ってくるように仰いでみるけれど、そこからは無風かもしくは生ぬるいような風しか入ってこない。額から粘っこい汗がたらりと伝わってきた。不快だった。
僕は少しだけ早く歩く。玄関をがらりと開けた。
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2

『落下流水』



 場所は変わり、僕が予め聞いておいた花火がきちんと見えるポイントその二である。一は残念ながら夕菜さんの体調が優れなくなるのでやめておいた。本当ならば、あの先から見える花火が一番綺麗なのだと教えてもらっていたのに。
 少し会場から離れただけなのに、なぜだろうとても静かな場所だった。鈴虫の声があたりに木霊するように響いて、夏を感じさせるメロディを奏でた。夜空の上に散りばめられた星たちの絨毯は見ているだけで飽きないものだ。
「綺麗ね」
「そうですね」
 もちろん、夕菜さんの方が綺麗ですよと心の中だけで言っておいた。だって、本当に綺麗なんだから仕方がないだろう。
 僕が持ってきた小さめのシートを敷く。そこに二人並んでさっき買った食べ物をつつきながらぼうっとする。小さめのシートは二人が座ると結構キツキツになってしまう。だから必然的に夕菜さんと接する体の部分は大きくなるのだ。
 だから夕菜さんの女性の香りにくらくらしたり、触れている部分が熱を帯びている気がしてならない。正直、かなりドキドキしていた。夕菜さんはぼうっとしているだろう。何を考えているのか分からない、少しだけ憂いを帯びたような、浅縹色のオーラが見えるようだった。
 そんな姿を見ていると自分だけドキドキしているのが馬鹿らしくなってくるものだ。むしろ、何をそんなに見ているのだろうと僕もその視線の先をおってみた。しかし、そこに見えるのはインディゴブルーの空だけだった。悲しそうな、憂いてそうなその瞳の奥に何が見えるのだろうと空想し、何もわからないと自問自答した。
 もしも悲しみがあるとしたら、その悲しみを共有したいと、そう思う。
 もしも何か辛いことがあるならば、この身が裂けようとそれを代わりに背負いたいと、そう思う。
 それくらい今の僕は彼女に夢中なのだ。綺麗でお姉さんででもそこか少女的な部分も持ち合わせる夕菜さんが。たったと数日一緒にいるだけ。お前に何が分かるのだと人は嗤うだろう。でも、それでも一目ぼれだって好きという気持ちに日数など関係ない。
 好きというキモチ。それが何よりも大事なスパイスなのだから。
 熱を帯びた視線で僕は夕菜さんを見つめ続けた。どうか気付かないでほしい。恥かしさとちょっとした罪悪感。その中に点在する、しかし気付いてほしいと言う矛盾した気持ち。
 そんな時だった。
 一瞬何かが光った。夕菜さんはそれに気づいて寂しそうな表情に微笑を浮かべる。天使と言うよりかは女神のような頬笑み。聖母マリアのような母性を感じさせる頬笑み。不意に目が合った。慌てて逸らそうとしても出来なかった。
 夕菜さんの頬が一瞬赤く染まり、照れたように笑った。そして指をさす。
「見て……」
 ほっそりとした指の導く先をたどる。インディゴブルーの夜空に一杯の花が咲き誇る。
 きらきらと。
 きらきらと、きらきらと。
 火の玉が上にあがっては、上空で煌めきその花を咲かせた。それは一瞬の灯火だった。夏の駆ける蝉のように儚い命。それよりも儚い命。人はどうして情緒あるものに魅かれるのだろう。心の引力はそういうものに魅かれてやまない。それは遥かな昔から変わらないこと。平安時代の人間も咲く誇る桜ではなく、散りゆく桜に美を感じた。
 僕もそうだった。花火と言う物はなんて素晴らしいのだろう。大きな炸裂音がして、花が咲いてまた散って。その繰り返し。それが連なり、花火は人を魅せて行く。
 綺麗で。綺麗過ぎて、好きな女性の隣で見る花火がこんなに大切に思えてしまうのだから驚いてしまう。こんなに素敵な時間があることに今さらながら気付かされた。
 花火の花びらに浮かぶ夕菜さんの顔を見る。愛おしいその横顔に僕は何を思うんだろう。
 この時間が永遠に続けばいいのに。
 僕はふとそう思った。矛盾した気持ちは分かっている。散るからこそ美しい花火の魅力は永遠に続けば普通になりさがってしまうのだから。
 そしてとうとう終わりが来た。終わりが来て、寂しい時間が訪れて。僕はそんな寂しさを夜のしじまに噛みしめていた。もう帰らないといけない時間だろう。夕菜さんをあんまり遅い時間までいさせるわけにもいくまい。
 立ち上がるのが億劫だった。いや、ただ立ち上がることを体が拒否していた。今と言う時を終わらせたくなかったのだろう。玉響に過ぎる時とはそれほど儚く大事だと分かっているから。
 それでも無理やりに足を動かそうと思った。隣を見る。そして驚いた。
 夕菜さんは花火を見たままの体勢だった。それはいい。そして見上げたままのその顔に、落ちる一筋の光を見た。
 流れゆくその一筋は、頬を伝っていく。何度も何度も伝って。ぽたりと水面に波紋を残すように浴衣を染める。
 なぜ泣いているんだろう。まず僕が思ったことだった。なんで泣く必要あるのか。もしかしたら、自分は何かやってしまったんだろうかと思って、思いなおした。そんなことはない。ないはずだと。
 そう確信できると湧き上がる想いは一つしかない。ただ涙を止める方法はないかと言うそんな単純な想い。そう考えたときには体が動いていた。
 隣にある手を掴む。夕菜さんがこっちを見た。そして、
「あ」
 抱き寄せた。こんなに暑くても冷たい夕菜さんの温度が伝わってくる。目を見開いたように、石になったかのように夕菜さんは動かなかった。
 僕はと言えば、衝動的にやってしまったものだから、次の手が見えずに冷や汗を垂らす。次は何をやればいいのだろう。まさに僕が石だった。
「なん、で?」
 耳元でウィスパーボイスのように夕菜さんが囁いた。吐息が耳にかかってこそばゆい。
「泣いていたから。こうする方がいいと思ったんだ」
 そう思った。泣いている夕菜さんを見て、衝動的だけど、抱きしめて、そのぬくもりで彼女の涙を拭う事が出来たなら。それはきっと幸せなことだから。
「そうかぁ。そうなんだ。私、泣いてたんだ」
 今気づいたのか、すると先ほどは気づいていなかったらしい。あれだけ泣いていたのに。静かだったのはそういうわけだ。
「私ね、重ねてたんだ。あの花火に。自分という存在を。あんまりにも不確定で不安定な私を」
「そんな」
 ただ朗々と夕菜さんはつづけた。
「だから私、悲しくなって、多分泣いちゃったんだ。この気持ちがよく分からなくて、抑えられなくなったんだ。情けないね、お姉さんなのに」
 いつもの天使の笑顔をしているような気がしていた。背中越しだけどなんでか僕には分ったんだ。
 夕菜さんはだらんと垂れていた腕を僕の背中に回す。ぎゅっと力が入って、女性のか弱い力だけど、確かに、夕菜さんを感じていた。
「もうちょっとだけ、もうちょっとでいいから、こうしていていいかな」
「もちろん。こういうときは背中でも肩でも貸すのが男ってもんですわ!」
「紳士なんだね」
 うふふと笑って、そして微かに背中が湿っているようなそんな感触がする。多分だけど、夕菜さんは泣いているんだろう。笑いながら泣いているんだろう。何に泣いているのかは今一つ理解できていないけど、今は、この背中を貸すことで少しでも悲しみを癒せるなら。涙の理由を聞くことが僕の今の仕事じゃない無いってことくらいわかる。今はただ、こうしているのが僕のやるべきことだと思うから。
 そうして僕たちは時間は分からないけど、しばらくその場を動かなかった……。


 ……ぐあ。
 思わず布団の中で唸る。眠い。すっごく眠い。どれくらい寝むかと聞かれればただとてつもなく眠いと答えるだろう。
 唸りながら枕元に置いてある時計を見る。時計はまだ朝の五時を指した所だった。なんでこんなにも早く目覚めてしまったのか分からない。けど、少しだけましな脳味噌が疑問を発していた。
 ――どうして自分はここにいるのだろうか。
 ――分からない。
 はい、自問自答終わり。さて寝ようかと思って……。
「ちょっと待て」
 頭の中での自問自答は早期解決を望み、解決しないのならば無かったことにするつもりらしい。そうは問屋が卸さない。寝ぼけているので、意味のわからない自分が恥ずかしい。
 話を戻すと、僕は昨夜を思い出そうとした。辛うじて覚えているのは花火大会までのことだった。あそこでたこ焼きを買い、そして色々回った後に自分はどうしたろうか。そうだ、花火を見た。あのときは空の具合も絶妙で、そして。
「ぬぁぁぁぁぁぁ」
 一瞬大声を出しそうになって急いで口を閉じた。急激に覚醒した脳味噌を怨む。おかげで大声を出しそうになった。
 にして、だ。
 これは重大で、そうとっても重大で。しかるべき措置をとらないといけない事柄なのではないか、そう考える。なぜかと聞かれればそれはあれだ。あれなのだ。
 僕は昨日どこまでやったのだ?
 一応、自分の中でステップと言うやつが存在する。それは、僕が夕菜さんに告白する過程でどれをどう通過しようとしているか、または、それにより成功率を限りなくあげようという思惑の下で存在するステップ。
 そして昨日はそれを大いに飛び越えてしまった気がしてならない。まだ一段跳びくらいは許されるだろう。しかし、それ以上超えていたとしたら。良くて、友達。悪くて踏み外したのちの大怪我と言う可能性も無きにしも非ずと言うやつで。
 思い出せ。思い出すんだ自分。
 僕は頭の中に呼びかけた。昨日の出来事をより細かく思い出すように命令を送る。返信は返ってきた。よく分からないのだそうだ。
「なんっでやねええん」
 思わず自分にツッコミが飛ぶ。ちなみに僕は東京人である。
 一回落ち着いてみようと思った。そうでないと冷静な判断など皆無なのではないかと。確かに一目ぼれなことは否めない。そして帰りは案外早いので焦っていたことも否めない。よし、ここまでの事実確認は終了。
 では次に。
 昨日のことを思い出す。
 うん。ちゃんと、抱きしめたところまでは思い出せていた。そしてその先が思い出せないでいた。ああ、もう駄目だと思った。でも、確かなことは一つある。多分、俺は告白できていないのだろう。だから、こんなにも実感がないのだ。もしもだ。もしも自分があそこで告白に成功していたとしよう。成功していたなら俺は舞い上がって、今日も絶対に早起きだ。いや、早起きはしているのだろうけど、目がギンギンで脳味噌も秀才並みには回転が早いような錯覚に陥る。さらには、体も隅々までハキハキした早起きになるはずだ。
 そして、今日も早く会いに行くぞ! と準備を始める。よし。イメージできた。
失敗した場合も然りである。僕は絶望のうちに目を覚ますだろう。目を開ける。外を見る。なんと暗い。そうか、僕が告白に失敗すると、夜は終わらないのだと思うのだ。そう、夜は終わらない。永遠と失敗した場面が頭をよぎって、そして絶望する。本当はただ単に嫌過ぎて夜に目を覚ましているだけなのだが、そんなのは思考の外側である。さらに僕は無駄だと思いながら布団を被るのだ。
 よし。ここもイメージ出来た。それにしてもネガティブなイメージの方が鮮明に出来る僕が被害妄想癖でもあるんだろうかと戸惑ってしまう。そんなはずはない。僕はあくまで明るく、微妙な不良。もとい、チャラ男なのだから。
 まだ間違いを起こしていないのは分かった。憶測には過ぎないけど、恐らくは昨日、あれが終わった後に、途中までは送って、疲れて帰ってきて、そのまま布団にばたーんとそう言う感じだろう。恰好が昨日のままなのが僕にとって精神の支えになっている。
 それは多分、良いことだ。これからチャンスがあると考えていいのだから。しかしかんがえてみてくれ。それはチャンスがこれからあると言うのと同時に、なんと、まだその苦行が残っているという考え方もできる。もしも振られてみろ。絶対に、僕はその瞬間にショックで記憶を失うくらいなりかねない。……それはさすがに嘘だけど。
 うむ。ではもう少し作戦を練らねばな。
 まずはどうやったらデートを盛り上げられるか、良いムードを作って、告白するか。何日目でキスをするか、一通り考えないといけない。そうやって考えている内にだんだんと霞がかっていることに気づく。時計を見るとまだ起きて三十分くらいしか経っていない。僕はその時間で喜怒哀楽を繰り返していたのだ。
 なんて奇妙なオトコダロー。
 他人事のようにそう思う。まるで自分を俯瞰しているかのような、そんな感覚。ああ、自分はまだ眠いのだと気づく。さぁ、もうちょっと寝ないといけない。戦士には休息は必要だ。愛のソルジャー告白戦士、菱山創人。さぁ次のオペレーションまで寝るがいい。
 僕は目を閉じることにした。おやすみなさーいと心に念じながら。


 多分、そこは何をしてもいいところなんだと思う。
 そういうことで、僕は僕を俯瞰していた。どうやらこの世界では僕が神らしい。こういう思考さえもモノローグのようにふきだしに出ているのだ。
 神様は何をやってもいい、そう言った僕の独断と偏見で時間を戻す。そこはなんとお祭り会場。昨日のあの場面まで遡らせていた。僕の目の前には男女が一組。もちろん、僕と夕菜さんである。二人はいじらしそうな距離でもじもじとしていた。それを見て、赤面する。何を中学生みたいなことを、とか思ってみた。
 夕菜さんは熱っぽく僕のことを見ていることにした。これから事が進みやすいようにフィルターに通した見え方だった。これからこれを“妄想フィルター”とでも呼称することにしようか。
 インディゴブルーの夜空には満遍なく散りばめられた、星、星、星。見渡す限りの星がある。もう何が何座か結べないレベルの星たちは見るものをロマンチックと言うベールで包み込んでしまう魅力がある。
 目の前では昨日のやり取りがされていた。会話はイマイチこの距離からだと聞こえない。これ以上距離は近づけないみたいだ。しかし、僕の感情はダダ漏れだった。サトラレのように周りに伝染しているかのようだった。おいおい、心にスピーカーつけてたっけ?
 しかし、夕菜さんの表情に僕の心の内を知ったようなものは見えない。自分で言うのもなんだが、僕の心の声が万が一聞こえていたとして、その内容は、本人にとっては黒歴史になりかねないほどのもの。絶対に赤面するか、次の瞬間には季節外れの紅葉が顔半分に張り付いているはずだ。それが無いと言う事は聞こえていないのだろう。僕が神様であれは昨日の僕自身だから聞こえるのだろうか。
 ああ、抱きついたところまで行った!
 よし、じゃあ……。
 僕の心が聞こえたと言う事は、その通信手段のようなものは双方向だと信じたい、それに僕は神様だ。時間を戻せるならば、他のトンデモだって起こせるはず。
「おい!」
 僕は声を張り上げる。すると、心の中の声が聞こえた。
『え?』
 どうやら僕には声が届くようだ。にやりとすると、僕は言う。
「私は神だ。さて、君がその女性と無事に添い遂げられるように助言するとしよう」
『マジすか‼ 神様が味方とは。俺は幸せだ』
 なんとも調子のいいやつだ。このチャラ男め……あ、自分だった。
 あんまりに軽い雰囲気で心の中で喋るものだからイラついて思うが、なんとそれは僕自身なのだから嘆かわしい。すこしだけ、生き方と言うやつを見直すチャンスなのかもしれない。気を取り直して次に行こう。
「君は私の言う通りにすれば良い。私の言葉に続きなさい」
『了解ッス』
 そうそう、僕はたくらみを展開させた。まずは、そのまま抱きしめたまま、耳元で呟く。
「あの、一ついいですか……」
 僕が言う通りに昨日の僕は喋った。まずは耳元で甘い言葉を囁く。夕菜さんだって僕のことはまんざらではないはず、という自意識過剰を前提におくとして、さらに畳みかける。
 僕が言う通りに言うと、夕菜さんは涙を流しながら僕をみた。僕に指令を送る。その涙を拭かせて、そして言うのだ。
「僕は、あなたのことが好きだから……」
 好きだから、何でもしてあげたい。その悲しみから救ってあげたい、などと、面と向かってだと顔面から火が噴きでて言えなくなるようなことを神様と言う立場を利用させて言わせた。そう、そうだ。もっと言え!
 言うと、夕菜さんはボッと顔を赤く染めた。めっちゃ可愛かった。いや、くぁあわいかった。僕はどうやら普段お姉さんな人が行き成り、少女のように乙女になる時にときめくらしい。自分の好みの再確認にもなった。
 さらに指令を送る。その次はまた抱きしめさせる。抱きしめてから、その顔を引き寄せさせた。ここからすることは決まっている。
「さぁ、そのままぶちゅーっと!」
『む、無理ですってば‼ 恥かしッスよ~』
「うっさい、意気地なし! さっさとやらんか‼」
『うー』
 自分がやらないのをいいことに――いや、正確には自分がやっているのだけれど、今はあくまで神様。やっているのは昨日の自分。故の余裕だ。そう言う立場をいいことにして、言いたい放題だった。
 冷静になって考えてみると、自分で自分を責めると言うのは、マゾとサド、どちらなんだろうと考えてみる。それこそまさに究極の体系、マドなのではないだろうか。自分で攻めて自分で感じてその循環の繰り返しだ。なんと、誰の助けもいらない。これってすんごい発想だ。やはり俺は神様だった! というどうでもいいことを考えてみた。閑話休題。
 昨日の僕が震えながら顔を近づけた。夕菜さんはと言うと、その意図はとっくに察していて目をつむって口を軽く開けて、ぷるんと瑞々しい唇が無防備に晒されていた。
 ごくりと思わず俯瞰しているだけの僕も息を飲んだ。
 いけ! 行くんだ!
 昨日の僕は心の中で『だめだめだめだめだめ』とか自分に対して駄目だしし続けていたが、もう動きは止まらない。そしてそのまま、唇が合わさっていく。
 軽く触れたかと思えば、沈んでいく唇。
 何秒間したのだろう、昨日の僕は唇を離すと、目を開けた夕菜さんの瞳は熱っぽく潤っていた。もうここまで来たら指令を出すこともあるまい。
 昨日の僕はそれを見て辛抱がたまらなくなったのだろう。『夕菜さぁん』と心の中で叫ぶと一気に抱きしめてさっきよりも濃いめのキスを始めた。あれ、舌入ってないか?
 役目を終えた僕は意識が遠のく。そしてそこで上書きされたセーブは今日の僕に引き継がれて、そこからスタートになるのだ。さぁ、夢の恋人ライフの始まりである……。


「ってなんでやねえええええええええん!」
 がばりと上半身を起こした。
 あれ、起こした?
 その行動で全てが理解出来た。なんとも安易な。安易すぎる。まさかの夢オチとは……。枕元の時計を見る。朝の八時。あれから三時間夢を見ていたのだろう。
 夢が幸せすぎた故の現実は辛い。まさか、本当に引き継がれているわけではないだろうに。僕は起き上がった。カーテンをしゃっと開けると満遍なく降り注ぐ朝日が眩しい。
「ん~~」
 太陽光を浴びながら伸びをした。バキゴキと体中の骨が鳴った。下で母さんがごはんよ、と叫んだのが聞こえる。僕はそれに答えると階段に向かった。しかし、一つだけ疑問が残った。
 ――なぜ、ツッコミが関西風になったのだろう?
 僕は生粋の東京人である。というのは結構どうでもいい話だった。


 ご飯を食べると、今日も着替えて、いつもの場所へ向かう。経った数日でいつもの場所とまでなったあの場所へ。
 歩く道中は夢のことなどが思い出されて、思い上りが過ぎる自分とあんなことを妄想していた気持ち悪い自分に軽く自己嫌悪に陥ったが、夕菜さんの姿を見るな否や、そんなことはどうでもよくなった。
「おはようございます!」
 好きなあの人の背中に声を掛ける。その人はふわりと黒髪をなびかせながらこちらを向いた。
「おはよ」
 天使の笑顔でそう言った。
 思わず頬が緩むのを感じながら隣に行き、そして僕が隣に来ると夕菜さんはその場に座る。
「いいんですか? 制服、汚れちゃいますよ?」
「いいのよ、洗えばいいんだし」
 そうなのだ。今日の夕菜さんの恰好は、もはや見慣れた制服姿。夕菜さんの戦闘服。プリーツスカートはちゃんとアイロンを掛けたようにぴっしりとしていて、夜の粒子が集まったかのような黒髪は健在だった。
 夕菜さんに倣って隣に座る。ちょっとだけ蒸発している水分で蒸していた。今日も相変らず暑い。馬鹿みたいに暑い。でもいつもと違う事が一つだけあった。それは、今日の暑さはいつものようにむしむしとしていないのだ。カラカラとした暑さは気持ちよく汗をかえるし、風が素直に気持ち良いと思えるから好きだ。
 隣をみる。夕菜さんは相変わらずぼうっと空を見上げていた。何が見えるのだろうとその視線の先をなぞってみても、何も無い。ただ青い空が見えるだけ。雲ひとつない空が見えるだけだった。
 ただ僕にはそう見えるだけ、ただそれだけなのかもしれない。もしかしたら夕菜さんには別のものが見えているのかも。
 話しかけるのもあれなので。僕もしばらくぼうっとしてみようと思った。という事でまずはやることもないから目を閉じてみることにする。
 まず聞こえるのはセミの大合唱。続いてざわざわと森が風に揺られて奏でる音が聞こえた。目を開けてみて、下をみた。アリが餌を何匹かで巣に運ぼうと頑張っていた、頑張れ、と心の中で声援を送る。
 暇だと気づかされることがある。
 それは気に留めないような些細な出来事が気になってしまうということだ。それは木々のざわめき然り、それはこのアリを眺めているという行動に然り。体が何か求めているような、そんな感覚。いつもなら、目的があって、それに向けて視界を絞って何かをやろうとするのを視界を広域に、いろんな情報をこの体に集めようとするのだった。ああ、みんな生きているんだなとか思ったりもする。そしてもう一つ気づかされること。
 恋愛って素晴らしい、という事だった。
 いつもならば疎いこと。いつもならば嫌だったことや、もうどうでもいいことまでも祝福したくなる。それは隣に彼女がいるからだ。好きな人がいれば、こんなにも世界が変わるものなのかなと思う。
 ついでに言っておくと、僕にも恋愛観なるものは存在していた。本で読んだとか、そういうものじゃなくて、きちんと考えて確立させた恋愛観がある。
 それは恋愛とは成功するか失敗するかではなく、その過程が大事なんじゃないかということ。何か得るものは絶対にある。無駄な恋愛なんてないのだ、とそういうこと。
 人の想いとは必ずしも双方向ではないはずだ。いや、むしろ一方通行のほうが多いのだろう。だから、初恋は実らないだとかそういうことが言われるのだ。では双方向ではないからといって無駄なのだろうか。実はそんなことはないのだ。
 だって考えてみてほしい。もしも好きな人がいるとする。その人を想うだけで胸が張り裂けそうだ。毎日その人のことを考える。起きた時も朝一番で考えて、その日の活力にもなる。通学や通勤の時だって、友達と話している時だって、ご飯を食べているときもお風呂に入っているときもその人のことを考え続けるのだ。そしてそれは、片想いだった。相手は自分のことだってただの知り合い、もしくは友達、もしかしたら意識に入らないほど薄い存在なのかもしれない。でも誰かのことを考える。その人のために何かしようとする、それは限りなく貴重で尊い経験値だ。普通に暮らしていればピコンピコンと入ってくるものでもない。例え、それが実らないものだとしても、それはその人にとって絶対にプラスになるのだから。
 隣の夕菜さんを見て想う。僕は彼女のことが好きだ。好きでしょうがない。一目ぼれという病にかかっていると言ってもいい。そんな彼女に僕は想いを伝えることができるだろうか。……考えてみると、これが結構、確率は低い気がしてならないんだ。
 そんな僕には計画がある。それは、一本の道だった。もしも僕が夕菜さんに告白をしたとしよう。そしてそれが通ったならば、それは最高に幸せで祝福される出来事なはずで。それがもしも通らなかったとしても、それは、僕が次に好きな人ができたときにもっといい男になるためのステップだ。ほら、どうだろう。成功したら幸せ、失敗しても次はもっといい男になっている。これって最高にすごい事だと思わないか。
 僕は臆病で弱虫だから、そういう逃げ道を作ってしまうけれど、それは逃げ道であると同時に、僕の持っている恋愛観の真理だと思っているのだ。
 ん~、でもしかし。
 やっぱり成功したほうがいいよなぁと思いつつ夕菜さんをみる。夕菜さんは不意にこちらを向いて目を見開いたあとに恥ずかしそうにうつむいた。まじでくぁわいい。
 そこまで考えて思った。本当に暇はいけない。
 だって、こんなチャラ男がこんなにもまじめに哲学めいたことを考えてしまうんだから。そう思うとなんだか笑いがこみ上げてきた。
「何笑ってるのよぉ」
「ああ、すみません。ただ……」
「ただ?」
 夕菜さんは自分のことを見て笑ったのだと勘違いしたらしい。そんな事実はどこにもない、事実無根である。しかし、ここで企みができる。このまま普通に返すのもつまらないと思ったのだ。
「……あんまりにも可愛いなぁと思ってしまったもので」
 にやりとして言うと、夕菜さんの動きが止まった。次にガチガチとロボットのように動いてうつむく。湯気が出そうなほど顔が赤くて愛おしい。
「……………ばか」
 そういうと完全にあさってのほうを見てしまった。ちょっと言い過ぎたかなと思いつつも安心する。実は今の台詞、自分で言っててすごい恥ずかしかった。夕菜さんがみていないからちょうどいいクールダウンができそうだ。
 そんな夕菜さんを見てから思う。自分はこの想いを伝えることができるんだろうか。できるといいな、それは絶対に良いことだ。
 僕はそんなこれからの自分を憂いながら、真っ青な空を仰いだ。
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◇流渡送心◇

『落下流水』


◇流渡送心◇


 夕方、私はいつものように準備を終える。今は部活が終わったばかりだった。夕方と言っても時刻はすでに夜に近い。赤い空は段々と黒ずんで、夜の到来を私に知らせていた。教室には誰もいない。よって私が最後である。それはまぁ、私が部長だからなのだけれど。
 本当ならば、そろそろ部長を交代しないといけないはずなのに、その候補が現れないのだ。誰もやりたがらないと言うべきか。早く誰かに代わって欲しい、私は自分で言うのもあれなのだが、ただ外見でなったようなものなのだ。
 自己評価が高いと、自意識過剰だと思わないでほしい。私はこの高校では一番の成績の持ち主で、スポーツも出来る。料理だって、ピアノだってバイオリンだって弾ける。人みしりはしないし、すらりと整った顔は、誰もがうらやむほどだった。
 私はそんな恵まれた容姿の持ち主で、しかし、その性格はひねくれることはなく。それは何より大事にしかし、時に厳しく育ててくれた両親のおかげなのだろうが……。そんなのだからなぜか部活で部長をやっていた。まぁ、部活と言ってもそこまで大それた内容ではないのだけれど。私は園芸部の部長だった。今日も最後まで残り、花壇の様子を見てから帰る。いつものことだ。
 時計を見た。いよいよ帰らないといけない時間帯だった。帰らないと何よりお父さんとお母さんが私を心配する。私の都合で、両親を心配させたくない。
 急いで靴を履くと外に出る。まだ暑い夏だった。今年は猛暑らしい。平均体温が高い私はこの暑さに辟易しながら走っていた。さっきまで鳴いていたヒグラシももう鳴きやんで今では鈴虫の声が帰り道を彩る。よく聞いていたいけれど、今日いかんせん、時間が遅いので急いだ。
 本当ならばこんなに遅くなるはずではなかったのだ。しかし、いつもとは事情が違ったのだった。

 朝のことだ。学校に来ると、靴箱に手紙が入っている。当時流行っているキャラクターのシールが可愛くて、思わず微笑んでしまった。こんなに可愛らしい手紙だ。恐らくは女の子だろうと開けてみてびっくり。
 中身の文章は明らかに男性の字体で。そしてその文章からは力強く、そして丁寧に書こうという必死さが伝わってくる。真面目に読まなければ。
 生憎私はいつも教室に一番に到着するから誰もいない教室に一人、席に座って手紙を読む。相手は同じクラスの男子で、いまここにいないと言う事は、昨日私が帰った後に入れたのだろうと推理する。
 中身は告白だった。一般に言うラブレターというやつだ。言い回しなんかが時々恥ずかしくてこそばゆい。まっすぐな言葉は私の胸を青色に染め上げる。私は容姿が美しい、故に誰からも遠慮されがちで、今まで告白されたことも一度すらない。私から近づけば、皆遠ざかる。私はあくまで観賞用の花らしい。園芸部の部長が観賞用とは少しだけ泣けてくる。青い春が私に咲く。そう思いたかったのに。
 ここまで勇気をだしてこんなにも素敵な文章を書くのは誰だろう。きっと心が素敵なんだろうな、そう思って最後の名前をなぞり、私はぞくっとした。手が思わず震える。それは、園芸部の同じクラスの友達の彼だったからだ。
 精悍な青年だった。筋肉がバランスよく体について、学校の人気者。初めてその友達が彼氏が出来たとその人を紹介されたときに、見せていたあの笑顔。
 思い出す、その時の情景が。
 全ての幸がその友達を包み込んでくれますように、私はそう願ったものだ。そして今の今まで順調に話は進んでいたはずで。この前もデートをしたと報告された。
 なのにどうしてだろう。
 心地よい日常にひび割れが生じてしまったのを感じた。駄目だ。このままでは。
 私は日常を守りたかった。あの素晴らしき私という居場所。園芸部の温かい空気を。しかし現実がそれを許さない。どうしていのか分からない。そんなジレンマが私を支配して、そして、そのまま時間が過ぎる。
 友達が来る。私はいつもの笑顔で皆と接した。大丈夫だ気づいていない。友達は幸い気が付いていないらしい。私が隠密に事を済ませれば、今までの居場所を守ることが出来る。私は彼の告白にノーと告げる。彼は諦めて友達のことを一生懸命に愛してくれると信じている。
 手紙の返事はなるべく今日欲しいとその手紙には書いてあった。急な話だが、その方が私としても断りやすい。やがて部活の時間となって、そのあとに返事をしようと思っていたのだ。
 今日は花壇に球根を植える作業だった。そして如雨露に水を汲みに行った時のことだ。水で如雨露を満たしていると、背後に気配を感じた。驚いて振り向くと笑顔の友達がいた。一瞬目をそらして向き直る。大丈夫きっと知らない。ただ水を汲みに来ただけなんだ。
 しかし、彼女の手には如雨露が無かった。その笑顔には涙が伝った。
「なんで話してくれないの?」
 唐突だった。今日一日過ごして、一度もそんな気配見せていなかったのに、友達は全てを知っていたのだ。そして、私から話すのを待っていたのだ。
 それを知らずに騙すような行為をした自分はどれだけおろか者なんだろう。恥かしさと悔しさが混在したような感情が体を巡って、そして謝った。
 全てを打ち明けた。手紙のこと。なんで言わなかったのか。そして、付き合えないと言う事も。言うと、友達が笑顔になる。悲しい笑顔だった。
「あなたは綺麗だもんね、言いたくなるのも仕方がないのよ……」
 最後に言われたその言葉が胸に苦しい。残った、意味のわからない、魚の小骨のように心のどこかに突き刺さってとれないままで。痛くて、悲しくて、虚しくて。こんなにも友達に言われるその一言が胸に響くなんて。
 私はひっそりと泣いた。
 場所は変わり、校庭の隅、部活はいつもよりも十分早く終わらせる。後片付けは私がやっておくからと、人避けをして彼と向き合った。全部告げた。告げて、謝って、彼は自分こそすみませんと謝って去っていく。
 あの後二人は大丈夫なのだろうか。思わずそのことが頭を巡った。もしも、私が原因で幸せそうだったあの二人が別れるのは寂しいことだ。それが気になって気になってしょうがない。どうか、二人がこの後も幸せになりますように。ただ願う事しかできない自分が無力に思えた。
 そして同時に後ろ姿を見つめながら、私は思う。
 ――綺麗になんて生まれなければ良かった。
 この容姿は周りに人気だ。だから私はいじめられることもなかった。友達はたくさんいたのに、男性経験からは馬鹿みたいな距離がある。容姿がいいことが逆に駄目らしい。
 私だって好きな人はいた。しかし、それを知っているから言えずにいて、結局言えずじまいが何度もあった。
 ああ、私も普通の容姿に生まれていたなら、普通の青春がおくれたのか。
 一見失礼極まりない思いだろうけど、美人には美人の苦労があることを分かってほしい。
 これから片づけをしなくては……。

 そして今に戻り、私は近道に近所の畦道を利用した。ここは夜になると外灯が一個もないので危ない。しかし、ここを通らないと、かなり遅くなってしまう事請け合いだ。
 ちょっと怖いけど。
 私は走る。走って、走って。走って……。
 あ……れ……?
 世界が暗転した。


 縁日とは何でこんなに騒がしいのだろう。というのもここがお祭り会場だからしょうがないのだろうか。現在花火大会会場にいる。辺りからお好み焼き屋やたこ焼きの良い匂いが立ちこめて、胃がピクリと震えて食料を待っているのが分かってしまった。何か食べたい。大阪焼きにお好み焼き、たこ焼きにベビーカステラ、その他の定番たちがそこらじゅうで売っていた。ああ、食べたい。でもお金があまりないし、人を待っている最中に動けない。
 目の前を通過する子供連れを睨む。おいしそうなもん持ちやがってからに!
 というわけで、僕は待っていた。誰をと聞かれればそれは間違いなく、夕菜さんだろう。しかし、なぜ待っているんだろうか。少し前のことを思い出す。昼間に言われたのだ。やはりお祭りにはきちんと待ち合わせをしていきたいと。だから一回解散、後に集合。そう言われたのでとりあえず頷いておいた。
 内心、こんなに面倒なことをやるのはなぜだろうかと思ったけど、しかし、夕菜さんの言う事ならば、従わない方が不誠実というものだ。言う通りにしてやろうではないか。
 本当は、神社の一件もあるし、出来るだけ、側にいてあげたいけど、それは僕の役目ではないのかもしれない。時には一人になりたいと思うときだってあるんだから。
 さっきは男らしくとか思っていたけどやはり気になってしょうがない。どうしてあの時、夕菜さんに何が起こったのか、その全ての事情を。考えれば考えるほどに頭の中を堂々めぐりする悩み。そんなものに支配されつつある僕の理性。ああ、なんでこんなに気になってしょうがないのだろうか。まったく情けなくってしょうがない。
「おまたせ!」
 うしろから声を掛けられた。いや、人はたくさんいるし、もしかしたら、これは勘違いしているだけなのかもしれないと思うこともあるけれど、なぜだろう。呼ばれているのは自分だと確信することが出来る。
 振り返る。そして、声が出なかった。
 あまりに綺麗だった。綺麗で、綺麗過ぎて言葉が出なくて、喉が痙攣して何かを紡ぎだすのを拒む。僕はそれに必死に抗ってみようとするけれどいかんせん、それを脳は拒否をしているようだった。
 正直に言おう。あまりに来ないものだからちょっとはイライラしていた。これは認めよう。紛れもない事実なのだから。しかしだ。そんな恨みごとどうでもよくなるレベルで夕菜さんは綺麗だった。
 今日は勝負服とか言っていた制服は着ていない。その代わりといってはなんだが、ゆかた姿だった。タンポポの花が散りばめられてプリントされている。いつもお姉さん的なオーラを放つ夕菜さんに少女的なイメージも合わさってさらにすばらしい出来栄えになっていた。いつもは黒くなびいている黒髪も今ではうしろでまとめられていた。それは黒い生地の浴衣にぴったりだった。時々見えるうなじにドキリとずっと僕の胸は高鳴っていた。
 美しさの粒子を集めたらこんな感じなんだろうなという錯覚さえ抱かされる。もしかしたら目の前にいる夕菜さんは偽物なのかもしれない、そういう失礼極まりない妄想さえ浮かべてしまうほどに。
「どう、綺麗?」
 無邪気な笑顔で僕に感想を聞いてくる。正直、やましい妄想だってしそうになってたから罪悪感が浮かんだ。
「う、うん。綺麗ですよ」
 これは本当。本当に綺麗だ。
「そう?」
 歯切れの悪い返答に不信感を浮かべるようだったが、次の瞬間には天使の笑顔だった。はい、と手を差し出される。
「いこっ」
「はい!」
 ああ、なんだか僕は今、夢でも見ているのだろう。こんなに幸せなのは果たして許されるのだろうか。いや、許される。チャラ男だって幸せになりたい。
 最初はどこに行きたい?
 じゃあ、何か食べましょうか!
 ということで人に並んでみる。行く先にはもちろん神々しく輝くたこ焼き屋があった。もちろん、本当に輝いているわけではない。人工的な光が辺りを照らしてはいるがしょういう表現はあくまで僕の補正故の演出だ。
 なぜここに先に並んだのかというとここがこの屋台周辺で一番人が並んでいるからである。ここならば美味しいに違いない。本当ならばもっと冒険してみてもいいのだけれど、いかんせん懐が僕のテンションについてこれそうにないのだった。だからこそ、確実に美味しいものを求めたい。これは貧乏人に共通の意識だと思いたい。貧乏人はそもそもそんなところには行かないと言うつっこみは無しの方向で。
 隣では一緒に夕菜さんが並んでいた。僕が並んでいる間に買ってきたラムネをクピクピ飲んでいる。あんまり美味しそうに飲むものだから、この暑い時分には特に飲みたいと思ってしまうものだ。
 不意に夕菜さんと目があった。目が合って、そしてくすりと口元が緩む。にやにやしながら僕にそれを差し出した。
「なぁに、飲みたいのかしら?」
 はい、と言って差し出す。お祭りに使われる灯りと言うのは少しオレンジっぽいものだ。提灯に通すから当たり前なんだろうけど、それに照らされて微笑む夕菜さんはなんだか艶やかで。プルンと瑞々しい唇と首を傾けた時にチラリと見える首筋がいやに扇情的で。妖美なその笑いにとりつかれるかのように息をのんだ。
 首が震えて手を伸ばしかける。
 頭の中では脳内会議がピークに達していた。あれを飲むと言う事。ラムネなんて飲み口はとっても細い。だから、ここから飲んでねとかそういう感じは通用しないし、なにより、絶対的に魅力的な間接キスと言う行為がたまらなく僕を動かしかける。
 飲みたい!
 男ならば誰だって思うはずだろう。あの夕菜さんの飲みかけが……。
 頭がオーバーヒートしかけた。むしろ、放送禁止用語が次第に思考の波に紛れてきて。だからこそ、その助け舟には縋りついて、感謝してもしたりない。
「あの~お客さん」
 いつの間にか列が進んでいた。前の人が進むたびに僕らは会話のやり取りをしながら徐々に進んでいたものの、どうやら最前列まで来ていたらしい。後ろに並んでいる人の視線が痛い。早く買わなければ。
 話しかけてきたのは、作っている人とは別でお店の前でお客さんに注文を取っている手伝いの人だった。僕と同じくらいの年齢で取り込み中すみませんと人の良い笑顔を向ける。微妙な不良の僕とは大違いである。
 とりあえず、あの誘惑から助けてくれたことに感謝しつつも注文を言おうと前に出た。そして、
「それじゃあ、普通のたこ焼き一つとネギのせマヨ多めたこ焼き一つください」
 と言って作っているおやっさんを見た。あごが外れそうになった。
「じぃちゃぁん!」
「おう、創人じゃねえか」
 イヒヒヒと歯を出して笑うのは僕のおじいちゃんで菱山善朗だった。相変わらず、この歳になっても歯が綺麗なこと。
 じいちゃんがなんか素人目にはすごいと思ってしまうようなテクニックでたこ焼きを焼きあげて行く。あのクルクル回していくのって誰の見てもすごいよなぁとか思ってしまうのだった。
 さすがに縁日にきてじいちゃんがたこ焼き焼いているとは思うまい。こんなことやっているは本当に今知ったばかりだった。父さんとか母さんは知っているんだろうか。いや、多分知らないのは僕だけだ。そしてこんなに人を大勢並ばせるとは我が祖父ながらやりおる、と言ってみた。心の中で。
 というかいいのか、こんなところで。おばあちゃんが死んだばっかりだと言うのに。
 それを言うとあっはっは、と父譲りの……ちがった。父さんがじいちゃんの笑い方に似ているのはじいちゃんがこういう笑い方だからだ。
「あいつはてめぇが死んだくらいで商売やめんなよ! ってどやしにくらぁ。俺はな、そんな怖い目に遭いたくねえからよぉ。今日もここでたこ焼き焼くんだよ」
 やべえ、カッコいい!
 じいちゃんは焼きながら僕の方を見て、そして隣に視線を移した。そこには夕菜さんがいて。僕とじいちゃんのやり取りをじーっと見ていた、とてもつまらなそうに。
「あの、夕菜さん?」
「何かな創人君」
「なんか怒ってます?」
 ぷい、と。
「怒ってませんが何か? ちぇ、後もうちょっとだったのにとか思ってませんが何か?」
 唇を尖がらせて怒る夕菜さん。不謹慎ながら僕のボルテージは最高潮に達しようとしている。駄目です。可愛すぎです。むしろくぁあわいいすぎです。
「ほれ、創人、金出せ」
 じいちゃんが手伝いの人にたこ焼きを渡すとお金を要求してきた。そうだ、まだ代金を支払っていなかったのだ。しかし、だ。ここで考えてみて欲しい。家族なんだからそれくらいいいじゃないかと。
 言ってみた。たこ焼きの代わりに目玉を返されそうになった。
「酷いじゃないか!」
「うっせい! こちとら商売だっての!」
 僕は泣くなくお金を渡す。泣きそうなのはお金を支払う行為にはなく、目玉を狙われたことへの恐怖だった。
「有り難うございます」
 お金を受け取ると営業スマイルのお手伝いが僕にたこ焼きを渡す。じいちゃんが笑ってから親指を立てた。
「まぁ孫サービスで一個多めに入れてやっといたぞ!」
「有り難うじいちゃん! じいちゃんマジ天使!」
「誰が天使か。まだワシは死なんぞ!」
 そう言う意味じゃないのに、と僕は内心で笑いながらそれを受け取るとありがとうと言った。もうそろそろ行かないと流石に後ろの人に悪いと思い、その場を去ろうとした。その背中に向けてじいちゃんが言う。
「あ、待て。待ってくれ」
「ん?」
「その人は……」
 視線は夕菜さんに向かった。夕菜さんは首を傾げて僕を向く。多分、どうして私を見るのかと言いたいのだろう。意図を感じると、僕も首を傾げた。じいちゃんが何を言いたいのかさっぱり分からない。それお前の彼女? と聞きたいような顔では無かった。それとはもっと違った、そう、何か重大で難しい内容を喋りたがっているような、そんな感じ。
 そんな重いプレッシャーのようなものは、この賑やかな会場にはとても似つかわないものだ。だからこそ戸惑う。苦笑いのようなものを浮かべて、
「いや、いいんだ。その子と仲良くやるんだぞ」
 一変した雰囲気でじいちゃんは言った。
「なんだよ、じいちゃん、茶化すなよ」
 だから僕も冗談混じりの笑顔で言えた。解放されたプレッシャーに安心しつつも、疑問が心に植えつけられる。疑惑のような黒い花が心一杯に咲き誇る。
 気にしない。気にしない。気にしない。
 こういうものは一度でも気にすると大抵ストーカーみたいに後についてくるものだ。この楽しいときをそういう訳も分からない事情で台無しにしたくなかった。だから今はこのままでいい。このままでいいから前を歩こう。
 僕は気を取り直すとちゃんと前を見据える。まだ少し怒っている夕菜さんをなだめながら。しかし、なぜ夕菜さんは怒っているのだろう。まさかとは思うが、少しは自惚れてみてもいいのだろうか。
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2

『落下流水』


 次の日、僕は欠伸をしながらテレビをつける。今日は朝から胡散臭い話題で盛り上がっていた。
 どうやら昨日に、四番坂付近でUFOが目撃されたとのこと。黄昏町は不思議な事が起こる場所、と言うがまさかUFOまで守備範囲らしい。このままでは世の中の不思議がこの町に集中してしまう日が訪れるかもしれない。いや、このまにそこまで許容できるスペースがあればいいのだが。
 見ている内にご飯が運ばれて、頂きます。食べ終えると、僕は早速準備をした。
「おおう、今日もどこかに行くのか」
「うん!」
 父さんが玄関で出かける準備をしていると、後ろから声を掛けてきた。正直、まだおばあちゃんの死んだ事実から立ち直れ切れていない父さん目元にはクマが出来ている。そして当然、僕だって、おばあちゃんのことは忘れていない。すっと忘れない。
 でもだからこそ、こうやって日常を過ごすことだって大事なことだと僕は思ってる。そうじゃないと天国のおばあちゃんが安心できないと思うから。
 だから僕だけでも明るく過ごしてうやる! 今はそう思ってる。今まで大好きだったおばあちゃんに恩返しできるとしたらこういう事だけだと思うからだ。
 感傷に浸って少しだけ気恥しくなった。こういうのはキャラじゃないと言う事くらい、理解しているつもりだ。
「気をつけて行って来いよ」
 バシンと背中を叩かれて催促された。分かってるよと苦笑いしながら外に出る。今は父さんのあの顔を見るのが少しだけ辛い。
「行ってきます!」
 あの場所へと走り出した。
 当然行くところは決まっている。あの畦道である。セミが豪快に鳴いている。いつもならば嫌になるようなそんな出合唱も、この素晴らしき鼓動の前には消えてなくなってしまうのだ。
走って走ってやっとの思いでその場に着く。
 今日もまだいないらしい。いや、来るつもりがないのかもしれないが。来なかったらどうしようと僕は思わず考えた。先ほどは会えることを前提に張り切っていたので、もしもそれが崩されれば僕の落ち込みようは半端ないことは目に見えていた。
「だ~れ~だっ」
「うわ!」
 押しつけられるあの部分に僕はまず悲鳴を上げてしまった。本当ならば、耳元にかかる吐息と女の子の手に驚くべきなんだろうけど、なんとも僕の体は正直らしい。正直、すぐにこの拘束解かれるのは惜しい。故に僕は分からないふりをして何度も唸ってみた。このままもう少しこの感触を楽しんでおきたいと思ったからだ。変態か、というツッコミは無しの方向で、と誰に言っているのか虚空に心の中から発信。返事は返ってこない。
「わかんないなぁ~」
 シメシメと思ってみる。どうやら夕菜さんは僕の意図に全く気が付いていないらしい。先ほどよりももっと体を密着させてくれた。
「ん! なら仕方ないよ!」
 そう言うと夕菜さんは離れる。あ、せっかくのマシュマロが、離れて行く。
 マシュマロが離れると。少し距離が空いたところで夕菜さんは笑顔になった。
「永江夕菜です。よろしく~」
「あぁ、知ってますけどね」
「ひどくない?」
 今日も夕菜さんは綺麗だった。いつものようなスタイルで来ているからである。それ以外に言いようがない。
 しかし、
「夕菜さん、今日も制服なんですね~」
「え? これかぁ」
 夕菜さんの天使の笑顔が炸裂する。僕が質問に対して答えを聞くと、なんとも面白い回答が返ってきた。
「だってさ! 制服は女の勝負服だもの」
 と言う事はいつも勝負をしていると言う事だ。まだ会って三日目だけれど、現時点で、そう言う考えに僕は至った。夕菜さんは現代に舞い降りた女子高生ソルジャーなのだろう、多分嘘。
 そういう妄想は置いておいて、今日もしっかりと確認した。今日も夕菜さんは綺麗だと言う事だ。青い空をバックに微笑む彼女を見て僕は思う。たった三日だ。この日を含めて三日なんだからまだ二日とちょいと言う事になる。それだけの期間で、夕菜さんとの距離がすごく近くなった気がしている。あまり……いや、大分女性経験のない僕としては、こんなに美人と楽しく話しているこの現状がまず、夢のようだった。
 夕菜さんが歩く。僕もそれについて行く。今日はどこへ行こうかという取り決めはしていなかった。なんせ、僕らは今日も“偶然”であったのだから。ある程度無理やりな運命というやり取りも、案外好きな僕は流れに身を任せた。
 というか、運命だとか言ってるのは僕だけかもしれないが、夕菜さんもこの気持ちを共有していて欲しいと思うのはわがままだろうか。
 今日も畦道は蒸していた。容赦なく照りつける太陽光が地を焼く。蒸発した植物たちの水分や、泥から放出される蒸気に体全体が蒸し暑いと叫ぶ。その暑さなんかは夕菜さんを見つめることで抑え込む。プラシーボ効果というやつだ。多分、使い方を間違っている。
 さっきから夕菜さんは僕の前を歩き、一人でにししと笑っている。もしかしたら、暑さで精神が参っているのだろうか……いや、それはないか。
 木にとりつくセミたちが讃美歌を歌う。というのはあくまでフィルターを通した歌声だった。何でだろう。僕は夕菜さんと過ごしているこの時間だけでそれだけうかれることが出来るのだ。もしかしたら僕くらい、安上がりな人間はいないのかもしれない。
 いや、恋する人間は誰だってそうなのだ。
 あれ、僕は恋をしているのか?
 そんな自問自答が頭の中で繰り広げられていた。
 しかし案外答えは決まっているものなんだ。こういう自問自答さえも、出来レースに違いない。僕は明らかに恋をしている。一目ぼれという恋をしているんだから。でなければ、夕菜さんを見るだけでこんなにも心臓が高ぶるのも、愛おしいと思うのも、抱きしめたいと思ってしまう衝動も説明が出来ないではないか。
 僕は好きなのだ。
 愛しているのだ。
 こんなにも、こんなにも滾る様な想いは実は初めての経験で。中途半端にチャラい僕だから、余計にそう思うのかもしれない。どこか世界を傍観しているようなそんな感触がいつも僕を占めている八割の感情だった。それにひびが入ったのは、夕菜さんを見てからだ。その気持ちに嘘はないし、真剣だった。
 無邪気に笑う夕菜さんを見て想う。
 少しの期間だけれど、この想いを伝えるべきだろうか、それとも伝えない方がいいのだろうかと。こんなにも想うのはきっと、すぐにでも気持ちを伝えろと体が命令しているからに決まっている。しかし、それを抑え込む自制心がある。理性とは時に考えものだと思った。
 う~んと考え込みながら歩いていると、目の前の影が立ち止まっていた。顔を挙げると、目と鼻の先に夕菜さんの顔があった。
「うわお!」
「わぁお」
 僕の反応が面白かったのだろうか、夕菜さんも真似をして、そしてうふふと笑った。
「なんだぁ、脅かさないでくださいよ」
「脅かしてなんかいないわ。ただ、創人君が私の相手してくれないから……」
 少し意地悪したくなったのと言いながら人さし指を僕の唇に重ねた。
「ちゃんと私の話聞いてくれないと嫌だよ?」
 顔が一瞬で赤くなるのが分かる。こんなにも分かりやすく、自分の意見が如何に正しいのかと思い知らされるとは思っていなかった。
「……はい」
 赤面する顔面を隠そうともしないで、上下に頭を振ると、満足げに夕菜さんは前に向きなおった。また歩き始める。
 歩いて歩いて歩く。
 ひたすらその繰り返す。
 ザリザリザリ……足が小石をふみならした。
 BGMは自然の音。木々が奏でる多重奏やセミがハレルヤを歌って僕のデートを盛り上げてくれている、ような気がした。
 自然と会話はなかった。しかし、妙に心地よいのは何でだろう。歩いている内に思い出す。そういえば、僕は今日、言いたいことがあったのだと。
「あの」
 心地よい静寂を自ら破る。夕菜さんがうしろを向いた。
「これからちょっと来てくれませんか?」
 ここは丁度町と町の境目で、僕の目的にはちょうどいいと思ったのだ。
「え……いいけど」
 答えると、今まで僕の少し前を歩いていた夕菜さんは僕の隣に移動した。
「じゃあ、エスコートでもお願いしようかしら」
 ちょっと声音を作って話すその仕草はどこか少女的で可愛らしい。そんなことでにやけそうな顔面の筋肉にキチンと緊張するように命令を送ったつもりでしゃきっとする。そして今度は僕が先頭になり歩き始める。
 しばらく歩いて行くと、神社がある。そこは町と町とを繋ぐ神社だ。階段を上り、その向かい側の階段を下りれば隣町まで行ける感じになっている。まぁ隣は隣で栄えているわけはなくて、一番はやはり、我らが黄昏町の中でも上黄昏町に違いない。
 タンタンタンとこれからのことを考えると少しだけ歩幅が大きくなってスキップしているようになった。夕菜さんはそんな僕が面白いのか終始笑いそうな顔をしていた。やがて境内に入る。向こう側に隣町へと繋ぐ階段が……
「あの、まさか」
 行き成り夕菜さんが足をとめた。振り返ると、俯いている夕菜さんが立っている。長い髪のせいで表情までは読み取れないが、足を見ると震えていた。
「この先に用事があるの?」
「そうですけど……」
 言うと、夕菜さんはしゃがみこんでしまった。
 急いでその場に駆け寄ると肩を抱く。そのまま寄りかかってきた。何があったのかは言わなかった。何があるのかも聞かなかった。何より、今はこのまま何も言わないでいるのが正解だと思ったのだ。
 力なさげに項垂れる。境内はこの暑さのだと言うのに嫌にひんやりと周りを冷やしていた。それがこの神社を覆っている竹が原因なのかは分からない。しかし、独特の雰囲気がある。この現実世界から切り離されたような、黄泉の国、異界、そう言う物を思わず彷彿とさせた。
 ピクリと夕菜さんが動いた。いつの間にか震えも大分治まっている。そして口を開いた。
「ごめんね」
「いえ」
「だけどごめん」
 必要に謝る夕菜さんに疑問を抱いたが、しょうがない。いえいえとなだめてから、続きを待った。
「これ以上先には進みたくない。ごめんね」
「あ、はい」
 これ以上先には?
 どういう事だろう。何か嫌な思い出でもあるのだろうか。考えれば考えるほど疑問の渦に飲み込まれそうになった。そうなりそうになった感情を抑え込んで笑顔を作った。こういうときは笑顔が一番。何より相手を安心させられるのは笑顔なんだと相場は決まっている。それに、まだスポットはあるし。人は多くなるんだけど。
「じゃあ、ここじゃなくてもいいんですよ」
 疑問符を浮かべて夕菜さんは僕を見た。
 今日は何よりあれがやる日。本当にいいタイミングで来たものだと思う。まるで僕たちのために行われるようなものだろうと思わないか?
「今日は夜、空いてますかね?」
「ええ、大丈夫よ」
 良かった、ここで断られたら僕の当初の作戦が全て破綻するところだった。しかし、そこはクリア。だからこの言葉も言える。
「今日、花火大会があるんですよ」
 だから一緒に行きませんか、そう誘うと先ほどまでの暗い顔が段々と笑顔になっていく。冬が来て、また春が来て、新芽が芽吹く様に、彼女の顔に笑顔が咲いた。僕は思った。この笑顔を見るために、僕はいるんだろうなと。この笑顔を、ぬくもりをずっと感じていたいのだと。
「ええ、よろこんで!」
「よかった」
 僕は立ち上がる。夕菜さんに手を差し伸べた。立ち上がると元来た場所を引き返す。お祭りまではまだ時間がある。それまでに何をしていようかと、そう考えていたのだ。
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◇花鳥佳人◇

『落下流水』


◇花鳥佳人◇


 電車の中は無言だった。とりあえず無言だった。
 誰かが喧嘩したというわけではない。もちろん、車内には人がいる。しかし、その人とは僕と夕菜さんだけだった。僕たちが乗っているのは一番最後尾の車両である。いくら栄えている方の黄昏町に移動すると言っても、その実、田舎であることには変わりのないのだろうから東京に似た電車の中の喧騒と言うやつには無縁のようだった。
 最後尾のさらに最後尾の席に二人して座る。何もしゃべらない。しかし、案外そう言う時間は嫌いではなかった。いつも何かに急ぐように生きていた都会の風景からは一線を惹いたような田舎、そんな物を見ていると自然とこういう時間は贅沢な時間の使い方なんだろうとおもってしまう。
 前を通り過ぎていく田んぼや向日葵達が僕を代わり代わりにみているように思えてしまった。そして隣に座る美女が一人。これだけあればもう何も言う事はあるまい。これだけで幸せとおもえてしまうのは僕のわがままだろうか。それとも傲慢だろうか。
 ガタンガタン。
 車体が揺れて体に一定のリズムを送り続けた。そのリズムは僕の精神をゆりかごの中に落としたようにした。涼しいクーラーそして美女。夕菜さんの他には誰もいない車内。
 段々と目蓋が降りてきた。そう、このまま僕は寝てしまうのだろう。黄昏町駅から上黄昏町は全然離れていないのに、すぐに着いてしまうのに。眠いのだからしょうがない。僕は睡魔に体を明け渡す。
 頬が何かに寄りかかる。ひんやりと冷たいそれは、仄かに甘いにおいを発しながら上下していた。その優しい感触のせいで頭がさらにぽわんとなる。意識が深く沈んでいった。
 ……と思いたかったのだけど。
『え~次はぁ~上黄昏町駅~上黄昏町駅~』
 うるさい音が鼓膜を刺激して僕を覚醒させた。
 むっとして目を開けると、寄りかかっているものが何か分かる。僕は慌ててそこから離れた。
「あれ? 寝なくていいの?」
「結構です。もう着くみたいだし」
「ちぇ、寝顔見れるかもとか思ってたのにぃ」
 僕はどうやら夕菜さんの肩に寄りかかっていたらしい。道理でいい匂いがするはずだ。しかし、起きてしまった時の心臓への負担は計りしれなかった。そして電車が止まる体勢に入る。上黄昏町に到着したのだ。
 やがて電車のドアが開くとむんとした熱気が体にまとわりついた。駅のアナウンスが上黄昏町にたどり着いたことを告げている。僕は外に出て、夕菜さんもおいしょと外に出た。
「あつ……」
「まぁ夏だからね」
 にこりと天使の微笑を向けると、夕菜さんは行ってしまった。あの人は果たして暑くないのだろうか。いや、むしろ、僕が多分この土地にまだ体が慣れていないのかもしれないと思う。夕菜さんは元々この土地の生まれだろうし、だったらこの暑さも慣れっこなのかもしれない。この暑さになれるとか、僕にしてみれば最高難易度のことだけれど。
 まぁとにかく歩きだそう。僕は夕菜さんを追った。
 どうか楽しいことが起きますようにと祈ってみる。偶にはいいのではないだろうか。いつもは悪いことやってるけど、こういう時だけお願いしている自分が面白くて、心の中でつっこんでみる。
 夕菜さんの前に揺らめく上黄昏町の陽炎がこれからの期待を大きくさせていた。


 さすがに上黄昏町と言うところだろうか。駅から町に出る。すると途端に人ゴミが視界を覆った。
「やべえ」
 さすがに東京都までの活気と町並ではない。ここはあくまで田舎である。しかし、その田舎――もとい黄昏町の中で最も栄えている場所がどこかと聞かれれば、それは間違いなく、ここ上黄昏町だと言えよう。
 ここはこの黄昏町付近でも最も人が蠢く場所である。田舎では揃えられないであろう様々な電化製品や、ファッションなどもここが中心的に広がっている。黄昏町は意外と若者離れが少ない街だと言われている。それはなぜかは、この上黄昏町を見れば一目瞭然だった。
「うわ」
 僕が探していていつまでも見つからなかったCDが普通に置いてあるじゃないか……。
 どうしようと夕菜さんを見る。夕菜さんはどうぞ? と促ししてくれた。満面の笑みを浮かべながら意気揚々とCDショップに入り、そしてCDを手に取った。
 僕は好きなものが目に入るとどうにも世界が視界に入らないような、そんなもんらしい。正直、女性と外に出てこんなんは駄目だとわかってはいる。しかし、ここでこれを買わずに次にどこで買えると言うのか。
「いらっしゃいませぇ……え?」
 CDをレジに置くと、今まで僕のことに気が付いていなかったアルバイトであろう青年がぽかんと僕を見つめていた。そんなに見つめてもらっても、僕は男に興味がない。多分、東京っ子のオーラでも出ているのだろうが、よせよ、オーラが減る。と心の中で青年に謝罪しつつ紳士的に質問した。
「何か?」
 自分でも不躾な視線で眺めているのだと気がついたのだろう。青年は謝罪すると、CDを手に取った。
「三千円ですぅ」
「はいよ」
 買ってから外に出ると夕菜さんは手を振る。僕もそれに答えて側に駆け寄った。
 そして近くに来た僕に対して、笑顔で夕菜さんは肩に手を置く。思わず期待するのは夕菜さんの僕への恋慕の気持ち。そう、夕菜さんは気づいてしまったのだ。僕のことを好きだと言う事実に、CDショップで買い物と言うわずかな時間しか経っていないのに、それでも我慢できない、この気持ちは何? この気持ちはこ……
「創人君!」
 耳元で安いスピーカーからこぼれるノイズのような音が響き渡った。ビクッと体を震わせて、来るべき未来から離脱……でなくて妄想からの脱出を図る。
 時々こういう時がある。要は妄想癖で自分に都合の良い未来を見ることが出来るのだ。
「創人君、君、何度も呼んでるのに。どうかした?」
 少しだけ眉間にシワを寄せて夕菜さんが言った。そういう顔も素敵です……じゃなかった。
 あはははは、と妄想のことは悟られない方向で会話を再開。
「いやぁ、未知との遭遇に遭った場合の対処法を思案しておりまして」
 おい、言い訳にしては馬鹿みたいじゃないか。そう心の中で愚痴りながらとりあえずいいわけタイム終了。夕菜さんの無言の笑顔が怖い。絶対に怒っているか可哀想な残念な人と思っているに違いない。
「ん、そう言うのは置いておいてぇ」
 置いて行かれた⁉
「創人君はぼうっとしてたんだよね? 私はそう言う事にしておくから安心してね」
 天使の笑顔で言われればそれ以上言い返せないじゃないかと自称チャラ男は思った。
「それよりもね、創人君、自分の恰好で何か気になるところってないのかな?」
 唐突にそんな事を切り出す。いや、先ほどから何か言いたそうだったし、これのことを言いたかったんだろう。とりあえず、下から上までちゃんと見てみる。正しく礼服である。礼服で、そう喪服で……
「あ、喪服のまんまだ」
「よかった。気づいてくれて」
 これのことを言いたかったらしい。
 そこで僕は思う。いや、待てよ、と。
 先ほどのCDを買う時の店員の態度を参考にしてみたい。あの青年は一瞬、ぽかんと僕のことを見ていた。しかし、あれは僕の脳内フィルターに通してそう見えただけで、よく思い出すと馬鹿を見るような目で見ていたのかもしれないと言う事が無きにも非ず。歩けば歩くほど変な視線を浴びていた理由も少しだけ理解出来てきて。次の瞬間には、
「ノオオオ」
 まぁ死ぬほど恥ずかしいと言った具合である。
「着替えようか?」
 こういう時の優しい言葉と言うのは心にしみると言うよりは、鋭いナイフで心の軟い部分をずぶりと刺されているような感じと似ている気がするのだ。刺されたことはないんだけど。
「はいっす……」
 力なく立ち上がると、僕は夕菜さんについて行った。服屋について服を買う事になるのだが、その間にも視線が痛くて、そう言う視線に晒されていると言う状況が死にそうだった。誰か、麻のロープを持っていないかと何度も訪ねそうになった。嘘だけれど。
 やがて服屋に入ると、夕菜さんが適当に見繕ってくれた。とはいっても、少し、流行からは遅れているかもしれないが、そこそこセンスはいいと思われる。それを夕菜さんに言うと少し怒られた。
「え~、今はこういうのが流行ってるんだよ!」
 と言う事らしい。このセンスは一応夕菜さんにとっては最先端らしかった。僕が東京に住んでいるからそう思うのかもしれないととりあえず納得しておく。見栄えは悪くないから特に文句を言う事もないと思ったのだ。


 そのあとに何をしたのかと聞かれればちょいときついものがある。
 それは何をしたのかと言うと、あえて言うなら映画を見たのだ。とびっきりの純愛映画だ。夕菜さんは隣で、最近はこんなのがあるんだぁとしきりに頷いていた気がする。そう言った感想よりも、見て泣いた方が絵になるなと思ったのは僕の勝手だけど。
 そして僕は感動のラストに文字通り感動して涙をエグエグ出した後に映画館を後にする。そのままどこへ行くでもなく、上黄昏町を満喫した。そしてそろそろ帰ろうと思った時のこと、最後に駅に近いカフェに入る。僕は今日のお勧めを、夕菜さんはキリマンを頼んでいた。ちなみに今日のお勧めはマンデリンだった。
 心地よいBGMは店内に流れている。しかし、僕らは敢て、外のテラスで飲んでいた。理由は良く分からない。夕菜さんは店内は寒いらしい。
 外は微妙に蒸し暑い。訂正、とても暑い。うだるような暑さの中で、と言うわけではないけれど、不快になる程度には暑かった。そろそろ空も赤みが差す。しかし、熱い中でも夕菜さんは優雅にお茶を楽しんでいた。
「ねえ、創人君」
「なんです?」
「創人君は、ここにどれくらいいるの?」
 僕は聞かれて考えてみた。本当なら一週間で帰るはずだったのだけれど、いかんせん、あんなことがあったから帰るわけにもいかず、結局、お盆が終わって少し経ったら帰るという段取りに変更された。
「お盆終わってちょっとですかね~」
 なんだかもうちょっと長く居てもいいかなって思うんですけど、と僕が照れ笑いを浮かべる。それはやはり、もっと夕菜さんと一緒にいたいからという気持ちがあるから言ったのだけど、それは通じることもなく。
「そうなの」
 ポチャン、角砂糖を一つ入れた。
 私も、そうよと儚げに笑った。
 今までがふんわりとしたお姉さんの雰囲気だったからその豹変に多少なりとも驚きを隠しきれない。なんでそんなに儚げに笑うんだろう。そして、そういう儚げなオーラさえ、夕菜さんという魅力を存分に振りまくから参ってしまう。
「あ、の……」
「何?」
「夕菜さんもどこか違う県の出身なんですか? だからさっきは……」
 僕が言うと、夕菜さんは首を傾け、原因を探る。そして思い当たったところでぶんぶんと頭を振った。角砂糖をさらに二つ、コーヒーに入れる。
「ちがうのよ! 違うの。まぁあれじゃない。同じ町と言っても、私はおばあちゃんの家に少しだけお世話になってるから。だから離れるのは少しさびしいなって思っただけだよ?」
「そうなんですかぁ。ならよかった」
 本当はそうは思ってなかった。もしもそうなら構わない。しかし、どうにも納得がいかないのだ。絶対に何かある。僕に隠していると思うけれども、そんなことは言えるはずもなく、愛想笑いを浮かべて受け身になる。多分夕菜さんには言いたくない事情があるのだろうから。
 気がつくと、手元に置いてあったコーヒーは無くなっていた。すっかり空である。話している内に無意識で飲んでいたに違いない。コーヒーの怖いところはそこにあると僕は思っておる。いつの間にか無くなっていると言う事である。
 夕菜さんのはまだ少し残っていた。あんまり話に集中して飲めなかったのかな、と思っていると不意に視線があった。あはは、と笑うとさらに角砂糖追加。
 ここで僕は疑問に当たる。そう言えば、さっきから角砂糖入れすぎじゃないか?
 キリマンが甘ったるい砂糖水になるところを想像して吐き気を催した。そういう素振りは見られまいと我慢してにこりと笑う。夕菜さんも笑い返してくれた。
「そろそろ、行きましょうか」
 夕菜さんは言うと立ち上がる。そして、コップを片づけようとしていた。
「ああ、僕がやりますよ」
 まだ残っているコーヒーを気にしながらも、夕菜さんから食器を受け取り、返却カウンターまで持っていった。ついでに気になったコーヒーの中身を見てみる。ああ、とても砂糖な感じだ。これを平気な顔で飲んでいたのか……。
 世の中には不思議なひともいたものだと頷いて、外に出る。夕菜さんが立っていた。
 駅の方角に歩きながら僕は空を見上げてみた。とっても赤い空だった。そう言えば、初めて会ったのもこんな空の時だったと思う。黄昏時、町の名前と同じ時間帯に僕と夕菜さんは出会った。うむ。それ以上はないのだけれど。これから何かあるといいなと思いつつ、駅に着き、到着した電車に乗った。
 ガタンガタンと揺られる車内で他愛のない話で盛り上がる。自分の好物、趣味、特技、癖、いろんなことを話し合った。この中には相手の弱点にもあるようなことも一杯含まれていた。
「そういえば、夕菜さん、絶対にスイーツとか大好きですよね。甘くて冷たいのとかこの時期にぴったりだし」
「そうねぇ、私って案外そうじゃないのよ」
「そうなんですかぁ」
 夕菜さんは思案顔で言った。その顔もまた綺麗だと思った。何を思ってるんだ僕は。
 絶対に合っていると思っていただけに少しだけ悔しい。僕はその話題につっこんで行こうと思った。
「僕はですね~夏と言えばキムチ鍋とかなんですよね~。熱いから熱いの食べたい! 的な」
「ああ! それ私もよぉ」
「へ?」
 夕菜さんは僕の手をとると、ブンブンと振っていく。そのたびに揺れている夕菜さんのある部分に視線が行ってしまうが、素早く自重した。
「私もね! 夏に食べるキムチ鍋が大好きなの。なんせ、辛党だしね!」
「そうなんですか!」
 あれ? おかしいな。疑問が駆け巡った。じゃあ、あれはなんだったんだろう。なぜコーヒーの中にあんなに砂糖が……まさか、だから残したんだろうか。
 おかしいと思いながらも今は素直に趣味が合うことを喜びたい。そして、僕は笑顔を作っていくのだ。気にしては負け。そんな些細な不自然は日常にはありふれていることなのだから。
 電車が着いて駅の前。僕と夕菜さんは向かい合う。
「じゃあ、ここでお別れだね」
「そうですね」
 今日は偶然に見せかけた必然により出会う事が出来た。しかし、本来それは当たり前に出来ることのはずがない。だから、僕は言いたいと思った。
 ここで逃せば、もしかしたら次には会えないのかもしれない。だからここは先手必勝。次の日にも会えるように。
「あの! 明日も僕はあそこにいます」
「ん? だから?」
 意図がくめない夕菜さんは困惑顔だった。僕は構わず続ける。
「だからもしも暇だったらまた会いましょう!」
 僕は頭を下げると自分の家の方に足を向ける。今日は色々と教わるものがあったというもの。いつかは、いや近いうちに綿密な関係になれますように。僕は帰り途を急いだ。
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2

『落下流水』


 おばあちゃんが送りだされる時が来た。最後に顔を見て、そしてその穏やかな顔に安堵する。僕は昨夜に言いたいことを言ったせいか、心の中は晴れ晴れとしていた。葬式は逃げ出してしまったけれど、ここは逃げ出さない。きちんとおばあちゃんが旅立っていくのを送りだそうと僕は手を合わせる。
 やがて日が棺桶を包み、おばあちゃんを囲っていた肉体と言う括りを抜けだして自由を手に入れた魂は煙と共に空に上がっていくのだろう。空の上には何があるのだろうか。天国があるのだろうか。それとも何もないのだろうか。
 もしかしたら星になってしまうのかもしれない。だって、この世には名前もない星は山の上に行けばいくらでも見えてしまうのだから。
 灰色の煙がモクモクと昇る。空に昇っていく。段々と上に上がった煙は霧散して、空の欠片になって消えていった。僕はそれをぼーっと見上げていた。色々な感謝や色々な謝罪を思い浮かべながら。
 やがて火葬は終わる。この後に家に帰ってちょっとした食事会を身内でやるらしかった。それに出るのもいいのだが、僕はついあの場所のことを思い浮かべてしまう。
「ねぇ、父さん」
「なんだ?」
 車に乗り込もうとした父さんを僕は呼びとめた。軽く手が汗で湿っている。昨日殴られた記憶がよみがえる。
「あのさ、行きたいところがあるんだ。だから、ここから歩いて帰るよ」
「ここからか?」
 幸い、ここは家からそう遠くはない。歩けば、一時間とちょっとあれば帰れる距離にはある。そしてその途中にあのあぜ道があるはずだ。
 父さんはしばらく悩んだ後に、いつものように笑顔を向けた。
「そうか。別にかまわないぞ。行って来い。先に帰ってるからな」
「ありがとう」
 父さんと母さんは車に乗ると、発進した。たった一つ「帰っても寿司は残ってないからな」と言い残して。僕はそれをあははと笑いながら聞いて、そして、
「おしっ」
 意気込むと歩き出した。今日はあの場所にいるのだろうか。


 長々と……と言うわけでもないが、そこそこに長いあぜ道を僕は歩いていた。相変わらずセミは大合唱で、僕の黒い鎧のせいで暑さはピークだった。黒いカイロのような喪服の上を脱ぐと肩に担ぐ。こんなの着ていては歩いてなどいられない。
 緑が多いと一瞬だけ涼しいのかなと思ったりする。けど、それは案外間違いと言うものだった。それは水分を発し、暑さが蒸発させる。つまりは、むしむしとする。もう悪循環ではないか。そして暑くなればなるほど上昇気流となってゲリラ豪雨などと言うものになるのだった。後半のアスファルトなどがたくさんある都会に多い傾向にらしいのだが、しかし、こういう田舎だって例外ではないはずだ。
 やがてあの場所が見えてくる。この前彼女と会ったあの場所だ。
 僕は心なしか早足でその場所に赴き、そして落胆する。そこにはただの草しか生えていなくて、そこには誰もないのだった。正確に言うならば、虫くらいならば存在するだろうが、そんな物を僕は求めてはいない。
 もうここまで来てしまったのだ。諦めてそこに腰を下ろすと空を仰いだ。
 馬鹿みたいに青い空だった。青くて白くて広くて。入道雲が大きすぎてやたらと近くに感じてしまう。僕は寝ころんだ。影のないその場所はとても暑い。しかし、直に生を感じられる、そう言う気がした。
 なぜに地球はここまで青いのか。そしてどんどん崩壊しているのか。僕には珍しく殊勝なことを考えてみる。それは一部の人間が公害な物質を平気で空に垂れ流しいているからだと当たり前の結論にたどり着いた。
「もうやるせねえ」
 そう一言つぶやいてみる。
 目をつむればそこにはあの笑顔があった。一瞬だけ、そう言うのは大げさなのかもあしれない。しかし、酷く綺麗に見えたのだ。綺麗過ぎて、そこにはまるで生が感じられなかった。人外の美しさをと言うのだろうか。昔読んだ本に、そう言う美貌で人を虜にして、その生気を奪う悪魔だか妖怪だかいた気がする。当時は、何そんなものでしんでいるのだろう。情けない、くらいな感情しか湧いてこなかったが、いかんせん、そう言う気持ちもわかってしまう。
 あれほどの美人ならばあるいは魂すら差しだしてしまうのではないだろうか。
 そんなことを思っていると一瞬もやもやとした心境の後に込み上げてくる衝動が僕を襲う。
「ふぁあ」
 大げさに言ってみたがただの欠伸だった。眠気が手足を支配し始めているのに今さら気がついたのだった。意識に靄が掛ったようになっている。まるで、ゆりかごと言うまでの快適さ加減にには程遠いけれど暑いとなぜか眠くなる僕であった。まだ時間はあるだろうし少し寝ておこうと思う。
 なぜここで寝なければ行かないのか分からなかった。聞かれれば眠くて動けないからだと答えるに違いないのだろう。
 遠ざかる意識の中で耳にエコーするセミの声を聞きながら。僕はゆっくりと意識を沈めた。


 時間はどれ程経っているのだろう。僕はしばらくの間眠っていたらしい。日差しが眩しいだろうから目を閉じて、今の状態を確認する。馬鹿みたいに汗が垂れ流されて気持ち悪い。びっしょりと濡れたワイシャツが体にひっついている感覚。
 そろそろ帰ろうかな、不意に思った。もしかしたらさっき目を閉じてからほんの数分しか経ってないかもしれないけど。もうそろそろ体が限界だ。
 むしろ、ここにいれば会えるなんて誰が言ったのだと言うのだろう。誰も言っていない。ただ僕が勝手に言ってるだけだ。ならば一般常識として考えるのならば、ここはただ僕が勝手に思い込んでいるという可能性の方が高いのだろう。僕の直感と言うか予感はこんなにも頼りないものなのだ。
 もう会えないかもしれない彼女を思う。一度だけ名前を聞かせてもらった。それは夕菜という名前だった。僕はその名前すらも美しいと感じてしまって。その名前は何に由来するのだろうか。きっと美しいのだろうねという想いを胸に抱いている。
 そんな時だった。まぶたの裏側に黒が陰る。
 太陽の光を遮られたことが分かった僕はまぶたを開けてみた。そしてそこは桃源郷だった。なぜならば……、
「えっ、白?」
「きゃあ!」
 バッと視界を遮っていたカーテンのようなものが、あれ、はたしてそれはスカートではないか。プリーツスカートが翻り、そして改めて太陽の光を僕に届けようとする。とりあえず思考停止。今の状況を察するに。
 一つの回答が導き出される。それは単純明快、得をしたような幸福を感じざるを得ない。男ならばそうなはず。今現在僕にはラッキースケベの神様が君臨しているに違いない。
「白いパ……むぐっ」
 言い終えるのが先か塞がれるのが先か、柔らかい手が僕の口を塞ぐとその先は口に出来ない。なんだかとってもひんやりとした手が火照った体を少しだけ冷やしてくれた。黒髪が僕の顔にかかって女の人の香りが僕を占拠する。
 頭がぼーっとするほどの鮮烈な女性を感じさせる香り、それはまるで、あの人のようだった。否、僕はいい加減息が苦しくなってギブアップすると相手を見る。相手は間違えることなく、永江夕菜その人だった。
 もちろん、何か言うべきなんだろう。彼女が話してくれたのに、僕は言葉を発しることが出来ないでいる。それは単に言葉が出ないだけなのだ。綺麗過ぎるものを目の当たりにすると、言葉すらも出てこない、そんな人間にとっての原始的な感情が僕の上から降り注いでいたのだから。
 最初こそ、警戒していた彼女は僕の呆けた顔を見ると笑いだす。挙句の果てに僕の頬で好き勝手に遊んでいた。
「なにすんだい」
 僕が無表情に言い返すと、やっと喋ったと彼女は言い、笑顔で挨拶を返す。
「おはよう。あれ、こんにちは、かな? えと、菱山創人君!」
 向日葵のような笑顔を見せる人だった。そして僕の名前を覚えていたことに驚きを見せていた。だって、僕なんていう生き物は通行人Aくらいなポジションだと思うだろう。普通は。
「覚えていたんですね、僕の名前」
「当り前じゃない。昨日ことだよ? それよりもホラ! あいさつされたらなんていうの?」
 促すようにホレホレと彼女は笑った。一度咳払いをして僕は言う。
「こんにちは、えと、永江夕菜さん」
「他人行儀だねぇ、友達には夕菜って呼んでほしいって言ったのに」
「でも、そっちもフルネームだったし、年上っぽいし、昨日会ったばっかだし」
「気にしないでもいいのに」
 彼女は笑う。悪戯でも思いついたような笑顔だった。
「じゃあ、こんにちは、創人君」
 創人君、なんて言葉が響くんだろう。自分の名前が自分の名前じゃないみたいだった。こういう人に言われる創人君は多分別次元の人間なのだと思わず思ってしまう。それほど、自分の名前が麻薬になりかねないほど、彼女が発する“創人君”は甘い響きを孕んでいて。ついこう言いたくなる。
「こんにちは、夕菜さん」
「はい、こんにちは!」
 ああ、もう堂々と呼ぼうじゃないか。僕は思った。
 こんなに暑くて、こんなに辺鄙なところなのに、僕みたいなのに挨拶をしてくれてありとう! 夕菜さん!
 セミが鳴く。草が発するムシムシが体を覆う。ジャンボタニシはいないけど、アリが足元を歩いていた。緑が生い茂り、草の葉を擦り合わせて大合唱する。ただ億劫なだけの景色は次の瞬間にはワンダーランドに変貌していた。


 出会って何をするのかと聞かれれば、実を言うと何もしていない。相も変わらず僕はその場に座り込み、そして夕菜さんも僕の隣に腰かけていた。
「どうしてここに来たの?」
 とりあえず聞いてみることにした。何しろ、こんなところには用が無ければ絶対に来るような所では無いのだから。ここにいると言う事が僕に会いに来てくれたのではないかと言う自惚れを加速させる。
「ん~、創人君は何で来たの?」
「ここに来れば夕菜さんに会えると思って」
 正直に言う事にした。隠してもいいことはない。しかし包み隠さず言ってしまえば案外いい言葉も帰ってくるもので。若干赤面しながらの僕の言葉を受けて夕菜さんは笑う。
「じゃあ、私も同じ。ここに来れば創人君に会えると思ってた」
「それって」
「私、あなたに興味が湧いたのよ」
 天使の笑顔だった。今までの罪が浄化されそうな喜色を見せる夕菜さんに今にも昇天してしまいそうだった。僕に興味があるらしい。あんなに美人が。と言う事は何やら期待してもいいのだろうか。
 いや、ここは引かないで押し進むところだ。
 ここは暑い。そして何もない。隣には見目麗しゅう夕菜さんの姿が。太陽にさんさんと照らされる姿すら女神が後光と放っているように見えなくもない。その眩しさは三倍増しで僕の目を焼きつくそうと奔走しているみたいだった。
「じゃあ……」
 ここで一旦言葉を止める。僕はこの先に何をやりたいのだろうと思って思わず頭を振った。少なくとも一瞬だけ邪な感情がうごめいたからだ。
 うむ。こういう人気のないところにいるのはあまり得策ではない。よくないことをあれやこれやと考えてしまう。
「町の方に行きません?」
「いいよ」
 にこりと微笑を頂いた僕は立ち上がると手をさしのばす。
「紳士なのね」
「いえいえ、当然のことです」
 夕菜さんの柔らかい手を僕の手が包み込む。この暑さだと言うのにとても冷たかった。ひんやりとした感触が心地よく手のひらに残る。
 立ち上がらせると早速僕は駅の方に歩いて行った。この流れで行くのはもちろん、上黄昏町だろう……。

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◇落日動心◇

『落下流水』


◇落日動心◇


 人間と言うものは案外ショックに強く出来ているものなのかもしれない。その証拠と言ってはなんだが、僕は現在泣いていない。少したりともこの頬を濡らす液体は伝っていないのだから。
 僕は愕然とした。自分の服装をまた鏡で見てしまったからだ。父さんと母さんは僕が酷く悲しんでトイレに駆け込んでいるのだろうと思っているに違いない。だから僕があの場を離れることを良しとしたのだ。
 全身黒のフォーマルスーツ。急いで新調してきた……訳ではないらしい。誰のかも聞くタイミングも逃したけれど、糊のパリッとした感じは皆無で、防虫剤の匂いがつんと鼻腔を満たしていた。靴下ももちろん黒。ネクタイに至っても黒。しかしこのネクタイだけは僕が個人用にオシャレで持ってきているもので意地でもこれをつけさせてもらった。おかげで形と言うか輝きが少しばかり浮いている気がしないでもない。
 まぁ長々と説明しているかもしれないが、いわゆるこれは喪服と言うやつで。そして僕は、葬式に来ているのだった。時間軸的にはまったくもって超展開だ。それはまぁしょうがないと言えよう。まさにこの超展開に追いつけていないのは僕であり、父さんであり、母さんなのだから。
 特に両親にとっては、特に父さんに至ってはその悲しみも人一倍強いに違いない。僕があそこに戻れば、また父さんの泣き顔を見るんだろう。母さんも顔を濡らして泣いていた。
 そう、祖母の菱山静が今朝、と言うか、まさに僕たちが実家に帰る数時間前に無くなったと言う事だったらしい。状況を言えば、それは自然死と言うやつで。その死に顔はとても穏やかだったそうだ。この家について、その事実に気付かなかったのは、まずあんまりにも突然だったために忙しく、そして連絡が遅れていたと言う事と、密葬のために、外に葬式では恒例の装飾が無かったからだというのが端的な原因である。
 坊さんが読経し、黒に包まれた数人の身内が悲しみに打ちひしがれる。坊さんの前にはおばあちゃんが入っている棺鎮座して、その上にある写真はとてもいい笑顔で。
 だけど、そんな笑顔とは裏腹な思い空気に耐えられない僕はこうしてトイレに逃げ込んできた。あの厳格な祖父の善朗までもが顔を涙で濡らしていたのだ。あの場で泣いていない少数派の僕、もとい、一人だけ泣いていなかった僕は完璧にアウェーなのだ。そうだろう。
「ふぅ」
 これからどうしたものか。今からあそこに戻り、そして悲しい顔をしながら聞いている自信は僕には無かった。だからと言っていつまでもここにいるのは中々どうして、出来ないことのように思えてならない。
 そういう時はどうしたらいいだろうと考えて、そして思いつく。
「そうだ、外に出よう」
 決まれば行動は早い。僕はトイレを出ると、誰もいない玄関をこっそりと抜け出した。向かう先は決まっていない。なんせ、久しぶりの田舎の土地だ。何かを覚えているはずいもないし、分からない。気の赴くままに歩くことにした。


 ひたすら続く田園風景に少しだけ飽きてきたころ、分岐の道にさしかかった。僕は右を選び、そして歩く。いい加減、足も疲れてきた。と言うかここどこだよとか自分の心の中でさっきから疑問に思えてしょうがない。
 南に高かった空も次第に傾き始めて、黄昏の予感を漂わせる。だからこそキリのいいところで戻るべきなんだろう。しかし、それが出来ないのもまた事実なのだ。
 少し進むといい感じの畦道に出る。畦道と言っても田んぼは枯れて、もう草が生え放題。しかし、座れるようなところがあったので、そこで休憩を取ることにした。単にもう歩くのは面倒だと思ったからなのだけれど。
 ポケットから父さんかのから抜き取っておいたタバコを一本取り出す。僕はこう見えても高校二年生で、そして中々のチャラい不良だったりする。不良と言っても先生に絡む訳でもないし、暴走族をやってるわけでもない。ただ、お酒もタバコも二十歳になってからと言う決まりごとを少しだけ繰り上げて実行している程度に不良なのだ。
 シュッと火をつけてタバコをまずふかす。そして次第に吸い込んでいくと煙が肺を満たしていった。
「うめぇ」
 ふーっと吐いて一呼吸。
 慣れた一連の動作がタバコ初心者でないことを物語っていた。もう最初のころのようにむせたりなんて言うことはあり得ない。
 そして一呼吸置いたところで見上げた空を見て思う。この限りなく田舎の風景を見て思った。
 そりゃねーよ、と。
 誰に向けた言葉かは容易に想像できると思う。僕はおばあちゃんに向けてそう心の中で言ったのだ。
「なぁ」
 おばあちゃん子だった僕。そして数々の思い出達が脳味噌を巡った。こんな感じにグレてはいるがあくまでもおばあちゃんが嫌いになることはなかった。常にその身を案じていた。まだ小さきころに僕に色々を与えてくれたおばあちゃんに。
 今になって流れるものがあった。塩分を含んだ液体が目に膜を張る。そして表面張力に耐えられなくなった液体が頬を伝って落ちて行く。
「なんで先に逝っちまうんだよ」
 今は少しだけ普通じゃないけど、せめて元気なところを見て欲しかった。見たかった。それからせめて逝って欲しかった。限りなくエゴイストな自分に嫌気が差しながらもそう思った。
 その時だった。不意に背後で巻き起こる小さな風の動き。そして咥えていたタバコを取り上げられる。
 急いで振り向くとそこには怖い表情のお姉さんが立っていた。
「ねえ、君絶対に二十歳じゃないよね? 駄目だよ、これは」
「……はぁ」


 ――しかしなんでだろう。その存在感に僕の意識は完全に持っていかれてしまう。
 そしてその出会いが僕の夏を彩り、潤す、奇跡みたいな出会いだと、その時は知らなかったのだ。


「で、タバコを吸っていたと?」
「その通りです」
「ほほう」
 深い色の瞳に見つめられて僕はたじろいだ。この人にはなぜか全ての嘘が通じないようなそんな気がしたからだ。僕はあの人にタバコを取り上げられて、そのままジャリジャリと踏みつぶされて無残な姿となったタバコを見つめる。一応、高めのタバコなのだが。
 そんな事をやった本人を見てみると、僕は思いのほか美人なその人に思わず目を奪われそうになった。
 整った外見。まるで、この世のもとは思えないほどに精緻な作り。まるで、人形がそのまま人間になったのではないかと錯覚するほどの見た目だった。そろそろ空が赤みを差す。その夕焼けに照らされた長い黒髪が微かにオレンジを零しながら揺らめいた。なぜにセーラー服なのかは分からない。でも、それがまた彼女を構成している大事なパーツな気さえしてくる。
 深い黒色に僕は吸い込まれそうになった。何かも見据えてしまいそうな瞳は思わず自分のものにしてしまいたくなる衝動が湧きあがるくらいには魅力がある。僕は現在、タバコの件について怒られているはずなのだが、むしろ、その方が彼女をよく見ることが出来ると安心してしまう。妙な気もちだった。
「ねぇ、聞いてるの?」
「ああ、うん。うん、聞いてるよ」
「じゃあ、何の話?」
「タバコの話」
「聞いてないじゃない」
 クスッと彼女が笑った。あれ、どこで間違えたのだろう。どうやら先ほどよりは本気で怒っていないように見えるから、そこまで大事な話ではないのかもしれない。
 とりあず、頷いていた気がしたから、全然話の筋が見えてこなかった。
「ごめんごめん。で、なんの話?」
 とりあえず下手に出る作戦に出てみようと思う。そして色々聞きだしてやるのだ。行くとこまで行くならスリーサイズとか。
 僕は思う。こんな時にあり得ないほどに似つかわしくない想いなのかもしれない。でも、何でだろう。隣に座り話しているその女性の顔を見れば見るほどに好きになりそうだ。いや、これがいわゆる一目ぼれと言うやつなのかもしれない。
「ん? 見たことないから上黄昏とかそれ以外から来た人なのかなって」
「あああ、うん。僕はね、東京から来たんだ」
 東京と言う言葉を聞いて、彼女は驚いた顔になる。そんなに驚くことなのだろうか。
 という疑問をとりあえず言葉にしてみたところ、彼女いわく、東京の人とかこの町の人以外の人とあんまり会話をしたことがないのだそうだ。それは確かに珍しがるのもうなずける。むしろ、僕が驚いた。
 こんなにも美人がこんな田舎に大事に貯蔵されているとは。話を聞けば、彼氏などもいないらしい。私、可愛くないし、とかほざいていた。馬鹿たれと言いたいのをぐっと飲み込む。
「ふむ」
 彼女は行き成り黙っていたかと思うと立ち上がった。こちらを向いて、天使の笑顔を向ける。
「あのね、こうして出会えたのってすごいことだと思うんだ。だから、少しの間かもしれないけど、よろしくね! 私は永江夕菜って言います十八歳です、高校生やってます。友達には夕菜って呼んで欲しいな」
 手を差し出す。僕はその手を取り、思いの外冷たいのと、しかし、女性らしい柔らかな手触りのドキリとした。
「僕は菱山創人。高校生と、少しだけ不良やってます」
 僕はえへへと自己紹介すると、夕菜はプクッと含んで耐えきれなかった分を噴きだした。
「なぁにそれ。変なの~」
 僕も夕菜も笑いだす。
 そろそろ空は赤かから濃い群青色に染まってきていた。黄昏時が終わる。太陽と月が完全に交代を果たすところだった。
 僕はこれでも葬式を途中で抜け出してきた人間である。今頃あちらではカンカンかまたは同情してくれていることだろう。
 さて、と思ったところで、先ほどの自分を思い出してしまった。こんなにもお茶らけていたのも全て、僕はあの辛い事実から目を背けたかったからなのではないだろうか。辛いことに蓋をするために、こうして楽しそうに、彼女の外見のこととかそういう事に目を向けていたのではないだろうか。
 だからほら、おばあちゃんのことを思い出しただけで、またこうして目は潤ってしまう。
 伝う事をやめられない洪水が起こる。悲しき成分のそれは僕の心まで冷たい海に放り込まれたようだった。思い出が走馬灯のように脳内を巡る。とめどないほどの莫大な量の情報量だった。楽しかったことも、悲しかったことも、満たされたことも。そんな色々が僕を辛くさせるんだ。
 グス。
 女の前で泣くなんて、そんなのは僕のポリシーに反する。これは父さんに教えられたことだった。まぁそれも、今日の葬式で崩れてしまったが。
「泣いてるの?」
 彼女の手が僕の肩に触れた。冷たい体温が上がりすぎた心の温度を少しだけさげてくれているような気がする。そして相手が年上を言う事もあるのだろう。その豊かな包容力に思わず身を預けたくなった。
「うん」
「悲しいの?」
「うん」
「そう……」
 触れている手に僕が手を重ねていると、不意に彼女の手が僕の肩から離れる。そして、彼女は前に回った。
「私ね、あなたよりもお姉さんみたいだから」
 ふわりと包む女性の柔らかさが僕を温かい気持ちにさせる。心の温度はオーバーヒート気味から人肌に。何よりも気持ちに余裕が出てくる。しかし、しぼまった分の悲しみは浄化されないで双眸から流れ出ていた、
 いつの間にか泣いていた。さっきだって、ここまで泣いていなかったのに。女性の包容力はどうやら男を弱くさせるらしい。この胸の中で泣きたい。僕の正直な願望が僕を動かす。ここで泣いていれば、全てが癒される気がして。僕はそのまま泣けるだけ泣いた。
 しばらくして、心が完全な余裕を取り戻したころ。
 僕は今の状況が如何にすごいのかを理解した。あんな美人さんに抱きしめられているのだ。その柔らかさを実感するたびに、甘い匂いが鼻腔を掠めるたびに、脳髄に電撃が迸り、僕は顔を真っ赤にさせる。
「あの、もう、いいから」
「そう?」
 なんて強烈なお姉さんの香りだろう。くらっときてしまった。僕はこれでもお姉さん属性だから困る。まさに理想の女性だった。
「うん、有り難う。おかげで僕も泣けるだけ泣けたし」
 足の方向を帰り道にセットしかけて、思い出す。
「あ、僕はもう帰るよ。葬式途中で抜け出したし、怒られにいかなきゃ」
 あはは、と笑って言うと、しょうがない子だなぁ、と夕菜も笑った。
「それで、送って行こうか? こんな暗くなってきちゃ女性一人は危ないんじゃ……」
「ん? いいよいいよ! 私は一人でも帰れるから!」
「本当に?」
「お姉さんですから!」
 エヘンと無駄に育っている胸を張ってみる。彼女は僕と反対方向へ歩き出した。
「それじゃあ、また偶然会えるといいね!」
「あっ」
 彼女はそう言ったかと思うと走り出してしまった。僕はその背中をただ見ていることしか出来なくて。なんか色々なことが起きてしまった今に対して僕はきちんとした意思を持てないでいた。


 僕はとりあえず動き出すことにする。夏の田んぼは蒸し暑い。汗でも流すことで少しでも事態を整理したいと思ったのだ。
 暗いあぜ道は少しでも油断するとそのまま田んぼにつっこみそうになる時があったが、そこはそこはかとなく注意しつつ僕は歩みを進める。考えるはもちろん先ほどの女性のことで。
 頭はその人のことで一杯であった。しかしそれと同時に、おばあちゃんの葬式の日に抜け出して何をやっているんだかと自分を貶してみる。馬鹿にもほどがある。何を女などに現をぬかしているか。
 あそこに座ってタバコに火をつけた時は暗い湖を霧の中にずっとさまよっているような気がしていたのに。このような表現は季節に似つかわしくないけれど、寒空の下を彷徨っていたような僕の心は、彼女の笑顔にすっかりと救われてしまっていた。
 確かにこんなところで女性に見とれているのは愚の骨頂。しかし、今度会った時はお礼をしよう。そう思いながら僕は歩く。
 空を見上げると、光の要素を持たないせいか、闇夜は自己表現が激しかった。星の飾りでおめかしをしながらキラキラと輝いている。何が何座か分からなくなるような空、以前友達がそんな事を話してくれたことがある。登山をしていて、それは泊りがけで。高山の中腹にてキャンプをする。そしてテントから顔を出して見上げる夜空のなんと美しいことか、と。
 話によると全面が星なのだそうだ。夜とはすなわち紫や黒色が空を染め上げるが、そう言うところでは、むしろ星の輝きが空を染め上げる。星の間から夜の漆黒が顔を見せる、そんな感じなのだそう。
 それほどまでは行かないが、いや、僕はそもそもそんな話は信じていなかったけど、こういう星を見れば、それもあながち嘘では無いのではないだろうかという気持ちになれた。
 悲しみはあの女の人に癒されて、そしてこの空を見て回復していった。
 僕はおばあちゃんが好きだった。
 もっと元気で居て欲しかったけど、昔の人は言っていた。死んだ人は星になるって。だから僕も信じてみたくなったのだ。これほどまでに、星座を結ぶのに苦労するほど星が多いのか。それはきっと死んだ魂が星になるからに違いない、と。
 ジャリジャリっと地面を踏む音と鈴虫の音がシンクロする。夜の静寂も相まっての三重奏だった。
 帰ったらなんて言おう。僕はそう思いながらいつの間にやら着いていた家の玄関に手を掛けた。


 ガララララ。
 なんだか心なしか扉が開く音が重い気がした。重低音を響かせるようなその音はお腹を突き上げるように刺激してくる。いや、実際はいつもとなんら変わらないのだろうが。重苦しいのは僕の心の中なのだろう。
 なんだかんだ理由をつけても、おばあちゃんの葬式なのに、美人に会って話して、それで心がハッピーになってしまっているんだからそれについて罪悪感を少なからず持っている、そう言う事だ。
 もう葬式は終わったみたいだった。葬式と言っても密葬だからそこまで家の中をいじっているわけでもなし、時間はそうかからないようだった。通夜も終わりもてなしも終わる。そんな空気が入った時にはヒシヒシと感じられて。正直葬式なんていうものにはあまり出たことがないことが無いから僕は何をすればいいのかもわからないまま家の中を歩いていた。
 あれこれ考えながら目の前の扉を開けると、父さんと鉢合わせになる。父さんは僕を見るな否や目を大きく開けた。
「おい、創人ぉ」
 やばい、そう感じた時には既に遅い。僕の反射神経はこういう時のためには鍛えられていないから若干役に立たない。
 フオン! と風がやって来たかと思うと、僕の顔面がへこむ。そのまま鈍器で殴られたかのような衝撃に足元がふらつき、軽く持ちあがった。そのまま何をされたのかもいまいち理解できないままに今まで歩いていた廊下に押し戻された。
 顔面の、特に鼻を抑えてみる。痛かった。燃えるような鈍痛が顔じゅうに走り、たらりと何かが伝ったかと思うと、それは鼻血だった。ここまで来てやっと思考が現実に追いつく。どうやら僕は父さんに顔面パンチを入れられていたみたいだった。さすが、パンをこね続けて鍛えた腕力は違うよなぁと第三者的な感想を抱きつつ、恐る恐る前を見る。
 心の中では必死に、
「何するんだよ! この馬鹿野郎! 腕力馬鹿! ゴリラ星から来た宇宙人め!」
 とか低レベルな罵倒を繰り広げてみたが、いかんせん、想像の中ですら父には敵いそうにない。想像の中のぼくは罵倒をした数秒後には地面の砂利を一杯舐めることになっている。
 腰が完全に抜けて立ち上がれない僕に父さんは近寄ってくる。もちろん、実際に音が出ているわけではないが、ズンッズンッと足音が響いているようだった。
「なぜ、殴られたかわかるか?」
 野生むき出しのまま凄むその目に完璧にカエル状態だった僕は何も言えずに恐怖の視線を父さんに向け続ける。数秒の時が過ぎて、父さんは腕を持ち上げた。またくる、そう思った僕は腕で顔面をガードする。しかし、次の攻撃は違った。
 僕のお気に入りのネクタイをわしづかみにされたかと思うと強制的に引き戻される。思わず喉に襲いかかる酸欠の恐怖に僕は必死に前進した。すると空いた腕僕の胸ぐらをつかみ持ち上げられた。
「なぜこういう事になっているかと聞いているんだ! おい!」
「ご、ごめんなさい」
 僕はなんとかそれだけを振り絞る。そしておびえると同時に、父さんの肩越しに見えるおばあちゃんの棺桶を見て思う。
 ああ、僕はなんて罰あたりなんだろう、と。
 あの時はあの女性に会って、罪の意識すら薄れた気がしていた。けどそんなことはなくて。おばあちゃんの葬式から悲しみのあまり逃げ出した事実には変わらない。一番僕がいなくちゃいけないはずのその瞬間に僕はいなかった。
 父さんが起こるのも当たり前だ。葬式の途中から逃げ出す馬鹿な孫がどこにいると言うのだろう。僕くらいしかいないではないか。
「ごめんなさい」
 僕は自称チャラい男だ。高校生の身空でタバコも吸うし、酒も飲む。しかし勉強だけはかかさない。成績も中の上である。喧嘩だってしたことないし、盗んだバイクで走りだしたこともない。というか免許だって持ってないのだけど。
 そんな中途半端なチャラい男でちょっと不良だ。
 その僕が今どうしているだろうか。この頬を流れる液体は何だろうか。鼻血だろうか。しかし鼻血は目から流れ出るものではないから却下だ。それにこんなにしょっぱくもない。人前で泣くのが嫌だった。だからあのあぜ道で泣いていたのに。中途半端なチャラ男にだってプライドはある。こういう時こそ笑うんだ。俺悲しくないしとか言いたいんだ。でも、しょうがないじゃないか。心に整理がつかないときだってある。僕はまさにその時なんだから。
 ごめんなさいと言いながら涙を流す。
 うしろで母さんが泣いていた。僕の情けない姿を見たからだろうか。
 僕の胸ぐらを掴む父さんの顔は悲痛な面持ちで、今にも泣きそうなくらいに切なそうで。
 そんな姿を見て僕はまた泣く。
 ひたすらに耳にリピートされる時計の音が煩わしかった。
 カッチコッチカッチコッチ。カッチコッチカッチコッチ。
 このまま、時間が止まってしまえばいいのに。


 ひやりとする感触が少しだけくすぐったい。お線香のにおいを一杯吸い込んだ棺おけは、少しだけ安心感を僕に持たせる。チャラ男で怖がりな僕は普段ならば怖くて一晩などとんでもないと逃げ出すような空間に自分の身を置いている。
 時間はとうに深夜を過ぎている。丑三つ時に近い時間だ。それだと言うのに僕は一人仏間にいて。おばあちゃんが眠る棺おけの側に僕は座っている。自分のしたことについての贖罪なのかと言われれば大きな声で否定はできない。しかし、ただ僕がおばあちゃんと話していたかったのだ。
 こんな田舎の葬儀屋はそこまで遅くやっていない。だから、時間も時間だと言う事で火葬は明日に持ち越しと言うのが父さんたちがここを立ち去る間際に残した言葉だった。父さんはあの後に胸ぐらから手を話すと小一時間ほどおばあちゃんとの昔話をしてくれた。僕はそれをダラダラ涙を流しながら聞く。
 父さんは最初こそ怒っていた顔を次第に緩ませて、そうして僕の頭を優しくなでるのだ。
「なぁ、俺はな。ばあちゃんが好きだった。尊敬できる人だった。お前はどうだったんだ?」
 優しい父の表情で聞かれて僕は迷わずに言う。
「好きだった。大好きだったよ」
「そうか」
 父さんはにこりと笑ってすぐに顔を背ける。一瞬涙が光った気がしたけど、父さんには父親としてのプライドがある。そのことについては触れようとはしなかった。
 しばらくして、父さんは立ち上がる。母さんが立ちあがるのを手助けしながら僕に言った。
「火葬は時間の関係で明日になった。だから、お前はおばあちゃんに言い残したことがあるなら言っておきなさい」
 おやすみ、と襖は締められる。
 そうして今に至るわけだ。先ほどまでは煩わしくてしょうがなかった時計の針の音が耳に心地よく響く。おばあちゃんに言いたいこと、そんなことはありすぎて言葉に出来ない。
 いざ言おうと思っても上手く言葉の引出しから持ってこれないのだ。だからせめておばあちゃんの側にいて、そしてそのときを迎えようと思ったのだ。
 よかった。おばあちゃんの最後を見ることなく、火葬が終わらなくて。僕は感謝する。僕の起こした間違いが、一生の後悔を残さずに済んだことを。時間のおかげで僕はこうしておばあちゃんとの時間を作れているのだから。
 しばらくして段々と頭の中がクリアになっていく。言いたいことをまとめることが出来てきた。
「そう言えばあのね」
 まぁ一番に話すことは決まっているだろう。それは僕のことだ。
「僕さ、もう高校生なんだ。ここ何年か、父さんのお店が軌道に乗るまではってこれなかったけど、随分と成長しただろ?」
 そして次は懺悔だろうか。心の中で思って自分を嗤う。
「でも、健全ってわけじゃない。タバコもお酒もやる少しワルな高校生なんだ」
 まぁこれに関しては父さんも黙認してくれている。自分もあの頃は悪さをしたもんだと笑っていた。母さんは頭を抱えていたけれど、それでも生ぬるく見守っていた。ただ一つだけ、ある程度の悪さをするのはいい、しかし、人を傷つけるような悪さだけは絶対にしてはならないと言う父さんの言いつけを守っていたから。
 そして話は今日のことになる。
「今日さ、おばあちゃんの葬式抜け出しちゃって、それで女の人に出会ったんだ」
 中抜けなんてずるをしたんだ。少し、女性のことでも話しておこう。僕はそう思って話す。
 話せば話すほどあの女の人が魅力的だったなぁと思ってしまった。不謹慎な自分に笑いつつもカツを入れた。
 あの黒髪が美しかった。あの骨格が美しいと思った。全てが女性らしさを表現しているようで、その匂いにくらくらとしてしまったものだ。
「おばあちゃんが死んじゃって、悲しくて抜け出して一人で泣いているところに来たんだ」
 また会えるかな。
 そんな不謹慎なことをまた思う。
 最後におばあちゃんに言いたいことがあった。
「ねぇ、おばあちゃん、なんだかんだあるけどさ、僕は元気でやってるよ」
 夜が更けていく。
 僕は結局漆黒の支配する空が白み掛るまで、そこを離れることは無かった。
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プロローグ

『落下流水』


 ――惹きこまれる感じ。そういう感情を僕は初めて抱いたのかもしれない。
 その笑顔に。その瞳に。そのふわりと浮かんではなびく長い黒髪に。
 移ろいゆく空を見上げながら視界に入るその造形美に見入ってしまった。この世のものとは思えないほどの美麗さに。





 いつの間にか景色はすっかりと田舎風景だった。田んぼが見えて、廃工場が見えて。トンネルを抜けたら、的なそんなノリ。窓を開けてみる。すると、澄んだ空気が肺に一杯に吸い込まれて思わず目を細める。心地よくて、どこか懐かしい。原始的な意味での安堵をおぼえる風景だと思う。
 車一台分しかないような道を父さんの車はすいすいと進んでいく。携帯をぼうっとながめていると、ギュルルという音を立てて、車は停止した。砂利を踏みしめる音だった。頭が一回カクンと前に倒れたかと思うと、父さんがこちらに振り向いた。
「おうよ、創人! 起きろ!」
「あ? 起きてるよ」
「そうかそうか。見ればわかるなぁ」
 はっはっは、と父さんは豪快に笑ったかと思うとドアに手を掛けた。
 僕こと菱山創人もドアに手を掛ける。そして外に出てまた一杯に空気を吸いこもうと思ったその時だった。なぜか向こう側から叔母さんが走ってきているのが見て取れた。夏にしては真っ黒な恰好で、そのためか汗だくである。あ、それは走っているからか。
「ちょ……ちょっと……」
 走ってきたから息も切れ切れに言葉を区切りながら父さんに必死の形相で話しかける。父さんと母さんにだけ聞こえるような音は僕には当然聞き取れない。だからと言って、わざわざ聞きに行こうとも思わない。
 暇になった少しの時を使って携帯を振ってみる。しかし電波は入ってこない。うむ、不便である。
 話が終わったのだろうか。父さんがこちらを向く。何気なしに僕も父さんを見るけれど、その表情は険しかった。母さんになんてなぜだか泣いている。
 怪訝な顔で見上げる僕を辛そうに見つめた後に父さんは苦しそうな表情で言った。職人肌の豪快な江戸っ子のような父さんのこんな顔は未だかつて見たことがない。僕の心の中で不安が募っては崩れていかない。
「創人、落ちついて聞けよ」
 カチリ。何かがずれていくようなバカみたいな予感。
「ん、何だよ改まって」
「あのな」
 カチリ。確実にその一言を聞いて歯車はずれていく。あらぬ方向にずれて行ったそれはもう元には戻らないんだろう。
そして。
 世界が暗転した。
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エピローグ

『縁堂へようこそ~真子の章~』


『縁堂~居場所~』

 あの事件はなんだったんだろうかぁと真子はぼうっとしながらアイスコーヒーを飲む。摩云宇館の二階のパン屋でアイスコーヒーを購入して一人で飲んでいるのだ。ただいま、二時間目始まって少し経ったあたりである。
 琴奈も菜柚も授業に行っているが、真子だけ授業を取っていなかったので、そういう時のための席取り番である。
「あう」
 つい一カ月前にあったばかりの事件を思い出す。悲しいことも一杯あった。怖いことも一杯あった。もう終始泣きっぱなしだったと思う。今思うと恥かしい限りだが、あの事件は少なからず、真子の生き方に変化をくれたと思っている。
 事後報告ではあるが、神隠し事件は早くも収束しつつあった。このままあとちょっとすれば、この噂が広がることもないだろう。ドッペル、という存在になってしまった被害者は基本的に、この世でまた、人間として生きて行くことはできない。つまり、もう存在を壊されるしかないのだ。
 では、その後の説明はどうなるんだろうという事だった。消えてしまって、それをマスコミなどはどう報道するか、警察に対してはどうするのか。そう言った疑問がよぎったけれど、あの女性――鈴蘭曰く、「気にするな。私に任せておけ」らしいのだ。
 その言葉は本物で今になっても、テレビなどでお茶の間を騒がすわけでもなく、警察も特に動いてないように見える。真子の所に事情聴取くらいはあるのかと覚悟していたが、それも無かった。あの人は一体どれくらいすごい人なのだろうかと不思議に思ったが、それを知る術はもう無かった。
 遺族には、それぞれ、辻褄が合うように伝えられたらしい。ちなみに、真子のノートは後に郵送で送られて来た。現在では真子の部屋に大事にとってある。今のノートは琴奈から貸して貰って一通りコピーしてあるから大丈夫だ。
 あの後はしばらく塞ぎこんだものだった。二日は不登校が続いたけれど、琴奈と菜柚の言葉があって、早々に通い続けることになる。何があったのか、当然聞かれはしたがそれを言うことは躊躇われた。これは口にしてはいけないことと思ったからだ。
 ズビビビ、と氷のある所までたどり着くとおなじみの音が聞こえる。アイスコーヒーとってすぐに飲み終わっちゃうから苦手だ。でも、好きなので飲み続けるのであるが。
「あうう」
 机にアゴをつけて唸っていると不意に後ろに気配を感じる。あの時以来、後ろに人が立たれると怖くなってしまい、その分敏感になっている。
 ビクッとなって振り向くと、そこには以外な人間がいた。
「はれぇ……双樹ちゃんと詩織ちゃんじゃないすか」
 あの事件の後で知った、この二人は高校生だったのだ。だから、下の名前でちゃんづけで呼んでしまう。
「よっ、久しぶりぃ」
「お久しぶりです」
 二人は相変わらず性格が顕著なあいさつを終える。詩織は言った。
「あのさ。ちょっち、外でない?」
「はぁ」


 外は暑かった。梅雨は過ぎて、もう夏がやってくる。一足先になきわめく蝉もいるくらいだ。二階のフロアを出てすぐの所に三人はいた。あまり人には聞かれたくないのだという。
「それで私に何か用すか? 学校あるでしょうに」
 真子は早速訪ねた。この時間に、なぜこの二人がいるのか分からない。詩織はにやりと笑うとサムズアップする。
「もち! 創立記念日よっ」
「……という体のサボりなんだけどね」言うが早いか、すかさず双樹が注釈を加えた。
「なんで言うのよぉ」
「なんで嘘つくの」
 この二人の漫才を聞いていると、本人は至って真面目なのだろうが、笑えて来てしまう。これだけでも、この二人に久しぶりにあえて良かったと思った。しばらく眺めていると、詩織が折れて謝った。
「ごめんね。本当はサボりよ……」
「そうなんだ。で、私に何かあるのかな?」
「ああ、うん。あれから大丈夫かなってさ、鈴蘭が様子見に行けって言うから」
 段々と尻すぼみに喋る詩織はなんだか可愛らしい。むずむずと背中のあたりが触発されて、思わず抱きしめてしまう。
「きゃう。何すんの!」
「ん~、だってぇ、可愛いんだもん」
「や~め~て~よ~」
「やめない~」
 スリスリと頬をすり合わせると、詩織のプニプニの頬っぺたが心地よい。いつまでもスリスリしていたくなる気持ちよさだ。しかし、ある程度やっていると、詩織も怒って、突き放した。
「もう、怒るよ!」
「怒ってるじゃん」
 ニシシと真子が笑うと呆れたのか、詩織はため息をついた。なぜだか詩織の方が大人に見えるから不思議だ。
「そこまで元気なら大丈夫ね。よし、帰るか。兄さんにアイスを作って……」
「待ちなさい。まだあるでしょう」
 詩織は帰ろうとしたが、それを双樹が止まる。先のやり取りでは傍観を決め込んでいた双樹が今度は真子を見た。
「葛城さん、あなたに私たちの事務所の所長から連絡があるんです」
「連絡?」
「ええ、これ、どうぞ」
 双樹は言うと、肩から提げていたトートバッグの中からA4サイズの茶封筒を取りだした。それを真子に渡す。中身を見ていいか聞くと、頷いたので見ることにした。
 中には数枚の資料らしきものが入っていた。それと、個人情報やらを書き込む用紙。読んでみると、どうやらバイト募集の紙らしいが……
「これが何」
「あなたを誘っているんですよ。ウチの所長が。だからそれを読んで、考えてみてくださいってことです。では、私たちはこれからやることがあるので」
 それだけ言うと、二人はその場を去っていく。久しぶりに会ったのに、随分とあっさりしたものだった。詩織は「バイバイ」と手を振ってくれたので振り返す。置いてけぼりにされた真子は
「暑ぃ」
 と、とりあえずぼやいて摩云宇館に入ることにした。席に座って、資料を読んでみる。そこには事業内容が書いてある。主な事業内容とはなんでも屋らしい。依頼を受けて、それをこなす。どこにでもあるなんでも屋だ。時給も悪くない。シフトの組み方も真子にとってはよく見えた。
 ペラリと最後の紙をめくる。そこには個人情報などを書き込む誓約書があり、それと共に一枚の小さいメモ用紙が落ちてきた。
「うわっと」
 地面に落ちる前になんとか拾うと、それはどうやら、所長直筆のコメントカードのようなものだった。読んでみる。そこには、

『やぁ久しぶり。あの後でどうかな? まだ心の傷は癒えていないだろう。でもね、立ちあがっていると私は信じているよ。
 君は不思議なめぐり合わせがあるのかもしれない。双樹も言っていたが、とても気になる存在だ。私は君に興味があるよ。
 そこで相談だ。私の事務所でアルバイトとして働いてみないだろうか。もちろん、この前みたいなこともあるだろう。他にも色々なことをやっている。退屈はしないだろうさ。そして、君を更に進化させる、そういう職場であることも約束する。
 そこから一歩出た、世間の目から離れた視点でこの地球を見てみないかい?
 もしも、君が来てくれるというのなら私たち、事務所一同は君の事を全力で歓迎しよう』

 とここまでが手紙の本文だった。そして、もうちょっと下に視線をスクロールさせると、追伸が見えた。

『まぁね。こう言ってはなんだが、私は君がここに来るような気がするよ。
 せっかちな私を許してくれ。でも、前借りでこういうことを言っても良いと思うんだ。だから一足先に私だけ所長特権で言わせてもらうとしようかな。

 ―――縁堂へ、ようこそ……』

 それはちょっと早合点じゃないのかなぁと思いながら、真子は思わずにやけてしまった。それは、その予感はまぁあながち外れていないのではないかなと思ったからだ。
「真子ぉ、何にやけてるの~」
「うわぁ」
 後ろからいきなり抱きつかれる。相手はもちろん琴奈である。気づけばいつの間にかお昼休みになっていた。随分と時間の進みは早いものだと思った。
「で、真子ちゃんは何でにやけてたのぉ」
「ん? なんでもないよっ」
 真子は場所を開けた。資料を封筒の中にしまいながら真子はこれからの未来に思いをはせる。一歩出た、世間の目から離れた視点で地球を見てみないか、という言葉は真子にとってすごく魅力的に思えたのだ。

 真子は誓約書に“よろこんで!”と書いて、資料を封筒へとしまった……。
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10

『縁堂へようこそ~真子の章~』


***


 乗り込んだ所、戦闘不能な敵が一人、そして、残る敵は三人というところだった。戦闘不能の敵は知っている顔だったので、驚いたが、双樹はそれを一戦闘個体と認識することにする。情が移ってしまうことほど、戦場で怖いことは無いはずだ。
「あんたは回りを見て無さ過ぎ。本当に、一人では行動させられないわ」
「うっさい」
 双樹が皮肉を言ってみると、詩織は笑ってそう言ったので安心する。そこまで深手でもなさそうだ。
 双樹は刀を構えた。恐らく、あの夜の分身の大元はあの初老の男だろう。それ以外はドッペルだ。ここはドッペルの製造工場なのだろうと、一瞬で状況を理解する。あの動けない女は後回しだ。先に、まだ元気に動いているドッペルを排除する。
「さぁ、かかってきなよ」
 一気に地面を蹴りあげて、相手に肉薄した。抜き身の刀を横に薙ぐ。約一名のドッペルの腕を両断してさらにドッペルの中心に迫るように走る。ちょうど挟まれたときに双樹は構える。
 ――荒命流剣術、流の型“三ヶ月斬”
 対峙する敵と背面にいる敵を同時に横一閃する。神滅宝珠の切れ味を持ってるすれば、切られた胴体は、その意味すら知らずにまだ動こうとするだろう。しかし、それは不可能なことなのだ。
 切られたことも分からずに攻撃をしようとしたドッペル達は、拳を振りかざそうとして、それを未遂に終わらせる。ゴトリと上半身が地面に落ちた。
「他愛もないよ、本当に」
 敵の上半身は尚、そのまま向かってこうよとするが、十尺もある刀の間合いに入ってくれば、たちまち、細切れになるだろう。双樹は冷静に白刃を振り下ろすと、相手の急所を切り刻む。
「二人、終わったわ」
 フォンと風を切って、血を飛ばすと、次の相手を視界に入れた。動けなくなったドッペル。あの夜に助けたはずの女だ。間にあっていると思ったが、どうやら手遅れのようだった。
 せめて、自分の手でカタをつけよう、それが、筋をいうものだと近寄ろうとすると、それに一般人が駆け寄っていた。その一般人とは、ここに以前話を聞いた葛城真子という人間だった。
 帰り際に忠告しておいたが、まさか、この件まで引き付けてしまうとは、どうやら、本物らしい。いざとなれば、勝が手を下すだろう。真子とあの女は知り合いのようだし、そちらに手を下す前に、残った男を片づけることにした。
「お前は、私が殺す」
 鈍く光る切っ先を男に向けて双樹は言った。
「やれるのなら、どうぞご自由に」
 恭しくお辞儀をしてそう言った男に双樹は叫んだ。
「いくぞっ」


 双樹が男と対峙して強烈な打ち合いをしている横で、詩織はしばし、その場にとどまり、体力を回復させる。
 戦いを見ていて、近衛双樹という同い年の少女は本当にオーバースペックだと思った。あの人数をあの間で倒してしまう実力。そして、冷静に相手にとどめを刺すことの出来る冷酷さ、全てが詩織を上回っている。
「まぁねぇ、あんたが気に病むことは無いよ」
 いつの間にか横に立っていた鈴蘭が詩織の肩を叩いた。
「え?」
「いいかい、あいつの持っている刀はね、宝珠という鍛冶師の打った特別な刀だ。まず、詩織の持っている双奏鉄鎖よりも遥かに位が高い武器さ。それだけで、差は広がる。まぁ、それを扱えるような実力と、それに伴う代償を払わないといけないんだけどね」
「代償って?」
「それは私の口からは言えないね。でも、見たところ、あの男、私と同種の匂いがする。きっと双樹だけだと勝てないだろう」
 鈴蘭はニヤッとすると、男を指差した。
「行って来い、詩織。お前の助けが必ず必要になる」
 助け、という言葉が詩織の胸に染み渡った。こんな自分でも助けになるのなら、それならば行くしかないじゃないかと。軽く、目の前で見せつけられた圧倒的な力の差に自信を失っていたが、一歩前と踏み出していく。
「うん、行ってくるよ、私」
 地面を蹴って相手を見据える。きっと。自分にもできることはあるはずだ。双樹が強くても、無敵では無いのだから。


 真子は恐怖に震えていたと思う。ずっと、詩織が目の前で助けてくれて、それでずっと闘っているのを見ている時も。怖かった。何が起こっているのか分からない現実が酷く、気持ち悪くて、何度も吐き気が襲った。
 ある程度状況は落ち着いた時に、詩織は杏子の脳天に銃口を突き付けた。最後の一発、よく、映画で見る光景だ。それを目の前で見るとは思わなかった、親友というわけでは無かったけど、心から仲がいいと思っていた大事な友達が、おかしくなってしまった友達が今、目の前で殺されようとしている。
 終焉の音、それが響こうとして、けれどもそれは響かずに終わる。放心状態でそれを見ていた。自分は、この状況に安心しているのだろうか、友達が殺されなかったことに安心していたのだろうか。
 松下杏子は真子の事を人間では無い何かにしようとした。心から恨んでもいい相手だろう。真子からしてみれば、殺されようとしていたのも同然なのだから。でも、しばらくして、横たわっていた杏子が動きを見せる。
 また自分が襲われるのだろうかと恐怖した真子だが、直感で感じた。今、目の前にいる彼女は大事な友達だったころの彼女なのだと。
 心が叫んでいた。今すぐ行きなさい。でないと後悔する。真子はその言葉に従った。怖いはずなのに、涙だって、ずっと溢れているのに、なのになぜだろう。いつの間にか走り出していた。
「松下さんっ」
 近くによって抱きしめる。後ろで双樹と一緒に来た、男性が「おいおい、やめろ!」と言ってきたが、離したくなかった。
「いやだ! 離さない」
 真子がその体を持ち上げると、全身が砕けているためだろう。少しは回復しているみたいだが、大分、身体のあちこちがありえない方向でぶら下がる。杏子の表情が苦痛にゆがんだ。
「あ、ごめんね」
 すぐに意味に気づいて、そっと地面に下ろす。先ほどは痛くないと言っていた。それは痛覚がないということだろう。でも、今はどうだ。こうして、痛がっている。痛覚が戻っている。きっと、この人は敵じゃない。
「ごめんね」
 不意にかすれるような音が聞こえる。驚いてみると、杏子が口がわずかに開き、音を発していた。耳を近づけて良く聴く。
「ごめん、ね。わた、しの……せいで、こんな………こと、に」
「ううん。いいんだよ、松下さんだって、被害者なんだよ?」
「でも、私が、やった、こと、に……違いは、ないもの」
 心からの謝罪に聞こえた。自分だって、被害者なのに。本当はこの現実をもっと恨んでもいいはずだ。なのに、必死に、真子に向かって謝罪している。
「よかった、あなたを、わたしみたいにするまえに、こうなることができて」
「そんな!」
 顔面だってまだ完全に治っていない。でも、笑っているのだと分かった。微笑んでいるのだと分かった。儚げで、今にも消えてしまいそうな笑顔だけれど、きちんと感情をだしているのだ。
「わた、しね。うれしいの。また、痛いって感じれる。わた、しは、まだ、人間なんだ。
 だからね、わが儘かもしれな、けど。このまま。このままでいい。人間の、ままで、死なせて」
 少し、息を継ぎをした。相当息が苦しいに違いない。でも、その言葉を伝える目は真剣で、決意に溢れていて、言葉を、想いを伝えたいという気持ちが真子にも伝染していく。涙が、止まらない。
「また、真子を……襲わない、うちに……お願い」
 残酷なお願いだった。ここまで残酷なお願いがあるんだろうか。私には出来ない。術ももたない。ただの無力な一人の女に過ぎないのに。でも、この目を見て、誰が断れるのだろう。
「ごめんなさい、私が、襲ってしまった人……人生を奪って、しまった……人。ごめんなさい、ごめんなさい、真子ぉ」
「あの!」
 もう見ていられなかった。でも、ここで言わなきゃ、本当にどうにかなってしまう。悲しくて切なくて、残酷な現実を怨む。この気持ちを受け取ってやることしかできないなんて、バカみたいで情けない。そんな真子に出来ることなど一つしかなかったのだ。
 真子は詩織と双樹の戦いを傍観している女性に声をかける。
「お? なんだい」
 今ここで起きていることが、まるでどうでもいいみたいに平常な言葉をかけられることに少しだけ戸惑ったが、真子は言った。
「松下さんを、殺してください」
「本気かい、殺すという事、どういう意味か分かるよね?」
 一見飄々としたその女性の目の奥には鋭さがあった。そして、数々の困難を乗り越えたのであろう、強い光が見える。真子は一瞬たじろいで、尚も逃げ出したくなる足を思い切り叩いて、鼓舞する。
 分かってる。自分じゃ出来なくて、人にお願いするなんて自分はなんて残酷で、卑怯な人間なんだろう。人としてやってはいけないことを頼んでいるに違いないのに。
「はい。でも、私じゃ出来ないんです。あなたなら、あの人たちといるくらいだ、何か特別なことが出来るんでしょう。あなたなら、私じゃやりたくてもできないことが出来る。だからお願いします。松下さんを、人間のまま、死なせてあげたいんですっ」
今までで一番で大きい声を出したと思う。真子は自分の想いを全て目に宿し、言葉に乗せた。悔しく情けなくて卑怯な自分だけど、お願いします、そう言葉に念じた。
 しばしの沈黙が流れる。そして、女性の目が真子の瞳を見詰めた。
「分かった。君の言うとおり、私には特別な力がある。君の気ち、引き受けようじゃないか」
 女性は真子の肩をぽんと叩く。真子が顔を見るとニカッと、大人の落ち着いた笑顔を見せた。そして頭をクシャクシャ撫でられる。
「そんな顔するなよ、でもさ、見てなよ。彼女の最後を。それが君の責任だ」
「はい!」
 真子が返事をすると、よし、と言って女性が杏子の前に立つ。そして、近くにいた男性に告げた。
「おい、勝。二秒だ。二秒力を使う。その間、頼むぞ」
「よっし、任せろ」
 勝と呼ばれた男性が女性の少し離れた位置に立ち、見張りの役に徹していた。女性は真子を見ると、手でオイデオイデをする。
「最後に言いたいみたいだ。一瞬で終わるからね、その前に伝えておきたいんだとさ」
 真子は杏子の元に駆け寄る。耳を口元に近づけた。
「ありがとう。本当に、ありがとう。それでね、ノートはごめん、ね」
 今さらノートの話が出てきて笑ってしまった。
「いいっすよ。許す。あんなのどうとでもなるし」
「ん」
 相変わらず儚げな笑みだったけど、前とは違う、清々しい笑みだった。真子は涙が出そうでしょうがないけれど、我慢する。笑顔で送り届けよう。そう思ったからだ。女性に視線を送ると、うん、と頷く。女性は手を杏子の頭に当てて、ボソボソと何かを呟いた。
 その瞬間だった。
 パァっと眩いばかりの光が杏子を包み込む。足の先から粒子のように消えて行く。もう、いなくなってしまうんだと思いながらも、真子は努めて笑顔になる。
「さようなら」
 真子はそう言って手を振った。悲しいけれど、これが自分に出来る精一杯だと思った。杏子は笑顔のまま、あっという間に、消えていく。
 本当にすぐの事だった。光に包まれたと思ったら、またたく間に消えてしまった、杏子がいたはずの空間に手をついて、真子は、泣いた。
 ごめんなさい。ごめんなさい。杏子が呟いていた言葉を真子自身も呟いている。無力な自分でごめんなさい。情けない時分でごめんなさい。何もできない自分でごめんなさい。
「うあああああ」
 ついに声を出して泣く。そんなに大きな声じゃないけれど、我慢しても声が漏れ出てしまった。
「人間はね、泣いて、強くなって行くもんだ。君も、現在進行形で強くなってる。人の死を超えた人間って言うのは、心が強くなるもんさ」
 女性がずっと、真子の頭を撫で続けてくれた。まるでお母さんみたいだと真子は思った。
「……はい」
 涙を拭いて力強く返事をした。


 戦局はどっちかといえば、悪い方だろう。双樹の攻撃も、偶に合わせてくれる詩織の攻撃も、なぜだか、そこまでダメージがある気がしない。そろそろ体力も危険信号を出していた。
「フフフフ。駄目ですねぇ。全然駄目だ。神滅宝珠を持つものがそこまで弱いとは。いやはや、情けない」
「うるっさいっ」
 もう型などは無視して攻撃している。故に、余計相手からすれば避けやすいのだろう。ひらりとかわされると、回し蹴りが双樹の顔面にクリーンヒットする。
「うはぁ」
 一瞬身体が宙に浮き、情けないことに膝から崩れ落ちる。
「双樹をいじめるなぁ」
 詩織も懸命にサポートに回るが、避けられて、当たったとしてもそこまでダメージがない。詩織も相手の攻撃を受けて、崩れ落ちる。
「詩織っ」
「私は、大丈夫! ここで死ぬわけにはいかないもん」
 二人は立ち上がり、また構えを取る。男は言った。
「そろそろ面倒になってきました。私はただ、自分の望むとおりの世界を作りたいだけなのに、なぜ邪魔をするんです?」
「ふ、あんたの思い通りにはさせたくないからよ。狭間の世界のやつらは揃ってそういわよね、本当に反吐が出るわ!」
 男の言う事を吐き捨てると、双樹は神滅宝珠を構えて、つっこんで行った。縦に払い、そしてすぐに横に払う。そこから突きにつなげるという三段攻撃、いつもならば成功するこの攻撃も、集中力があまりに欠如しすぎて、失敗に終わる。
「ちぃ」
「まったくもう、初めは順調だと思ったんですがね、上手い事潜り込み、自分の美学に則り、ドッペル生成、私の世界を作ろうという計画は。あなたたちが現れるまではね」
 双樹の振りかぶった刀を男は掴んだ。なのに、なぜだか男の手からは出血一つない。もう意味が分からなかった。
「消えろよ、邪魔者おおおお」
 そのまま相手のストレートが双樹の顔面の真ん中を捉える。一瞬で意識が真っ暗になり、思わず、落ちそうになる。が、根性で耐える。
 悔しさが身体を巡る。なぜだ、なぜ当たらない。上手い事当たらない。当たったとしてもくらわないのだと。双樹にはやるべき目標があった。ある男をいつかこの手で殺すまで、それまでは死ねない。なんとしてでも死ねないのだ
 なのに、この様はなんだろう。無様に膝をつき、相手にコケにされる。そんな自分はなんだろ言う疑問が双樹の頭を掠めた。イライラがたまる。こんなは近衛双樹では無いと魂が否定した。
 自分が自分でいるためには、勝ち続けなければなるまい!
 それが私だ!
 双樹は目を見開く。呼吸をスッと整えた。そうだ、相手を、殺したいあいつだと思えば、少しはやれるに違いないと念じながら。そして、抜き身を自分の腕に添えて一気に引く。
「は? あんた何やってるのよ」
 驚いて、詩織が声をあげた。その声は当然、双樹の耳には入らない。神滅宝珠の刀身を双樹の血で潤す。ドクン、ドクンと刀が脈を打っているみたいだった。
「負けるわけにはいかないんだ」
 そして一気に刀を振る。表面についた血液は全て飛び散り、なぜだか、尚も紅く輝く白刃を持ってして、双樹は構えた。
 ――荒命流剣術、裏の型、その四“天誅の剣”
「神を滅ぼす、狂気の刀よ、相手を八つ裂きにしろおおおおおおおおおおおお」
 三ヶ月斬から繋げる切り上げ、そして、相手の心臓に突き刺した後に、それを利用してジャンプする。刀身を一気に瓦割のように一刀両断する。表の型、天の剣の派生、裏の力を利用したことで、ほぼ万物をなめし切りに出来るその刀は相手を容赦なく両断した。
「なん、だと、さっきよりも切れ味が全然違う」
 男は膝をつく。狙いが少しそれて、頭からではなく、肩から縦に両断されているはずだが、それはすぐに再生した。
「それが神滅宝珠の力ですか。素晴らしいいいいい。しかしね、その程度の攻撃力で私は死なないんですよおおお」
 男は両手を広げると、拳を握る。そこに光が宿るかと思うと、いつの間にか、双樹の首を掴んでいた。
「えっ」
 一気に締めあげられる。瞬間移動のように一瞬で差を縮められて、いつのまに首を絞められていた。尋常ではない力に双樹は目を見開き、意識が遠のく。足が痙攣して、ガクガク震えていた。
「あ……あ、げ、が……」
「双樹!? やめてよ!」
 詩織がなんでも撃ち込むがビクともしていないようだった。男はニタァと邪悪に笑うと更に手の強さを強めた。もう、駄目だ、死ぬ、双樹は死期を悟った。
「――そうはさせない。そろそろだ。勝」
「おうよっ」
 傍観していた事務所の上司のうち、勝が一気に飛び込んだ。拳を作ったかと思うと、
「有塚流鳳凰突きィィィ」
 一気に両腕を突き出してピンポイントに力を上向きで撃ち込んだ。
「!?」
 男は何が起こったのか分からないような顔をして、双樹を離す。地面に崩れ落ちた双樹はけれど、立ちあがって咳き込んでいた。
「大丈夫か、双樹」
「はい、ごほっ」
「ご苦労だったな、勝、後は私が引き受けよう」
「了解だ」
 勝はすぐに後ろに下がった。その代わりに鈴蘭が前に出る。膝をつく男を冷徹に見下すと、その顎を蹴りあげた。
「やぁ、久しぶりだねぇ」
「お、お前は……まさか。こんなところで会うなんて」
 男は驚愕と恐怖に震えていた。双樹は驚いた。先ほどまで、あんなに凶暴だった男が、鈴蘭の顔を見た瞬間、あの様である。鈴蘭はサディスティックな笑顔を浮かべていた。
「もうあそこは飽きたんだ。こっちにいた方がよっぽど楽しい。でさ、もう君邪魔なんだよ。どうせ、君の事だ。これが本体なんて言うことは無いんだろうなぁ。だから、そこまで強くない。でも、何割かの力を注入しているね。つまり、この分身を叩けば、君はしばらく行動不能になるくらいのダメージは喰らうはずだ」
 あれで、分身。鈴蘭の言葉が信じられなかった。だとしたら、本物はどれだけ強いのだろうか。双樹は自分の手が震えていることに気がつく。自分が死にそうだったという現実が今になって追いついてきたのだろう。
「ははははは、しかし、この小娘達の力では、私を殺しきることはできない」
「なら、私が手を貸せばいい。なんのためにここに私がいると思ってるんだ。私が手を出さなかったのは、この子たちを成長させるため、ただそれだけだ。死なれちゃ困るんだよ」
「冗談だろ? 俺とお前の仲じゃ……」
「黙れウジ虫、消え失せろ」
 鈴蘭はそこで話を切ると、双樹と詩織を集めた。二人の肩を抱く様にすると、耳元で呟く。
「いいかい、今から私が八秒間、二人に有利な時間を作ってあげる。その間に、全力叩きこむんだ。いいね?」
「わかった」
「うん!」
 鈴蘭が顔をあげると、男が逃げようとしていた。その背中に遠慮なく手を向ける。
「いいか! 八秒だけだぞ。せーのー」
 その言葉と同時に、周りの景色が灰色に染まる。全てがスローモーションに見えるような世界の中で、双樹と詩織は集中力を最高値まで高めていた。そして、
 ――我流真髄荒命流、双奏鉄鎖、終の型、その四“葬送の撃鉄”
 ――我流真髄荒命流、神滅宝珠、終の型、その六“斬首神滅”
「「いけええええええええええ」」
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
 二人の必殺が合わさり、相手の身体を包み込んだ。眩いほどのオレンジ色の光が部屋を満たす。そして、すべてが終わりを迎えたのだった。
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9

『縁堂へようこそ~真子の章~』


***


 うっすらと目を開ける。腫れているのか分からないが、上手い事目を開けることが出来ない。杏子は微かな息をしながら前を見た。
 全身に痛みが走る。痛いと叫びたいが、身体が言う事を聞かない。腕も足もどこも動かせない。動かそうとすれば、もれなく、酷い痛みを感じて意識が遠のく。
 杏子は意識を取り戻していた。真子を意思とは反対に襲ってしまい、完全に松下杏子という人格は、何か得体のしれないものの下に埋もれてしまっていたけれど、今はなぜか戻ってくることが出来たのだ。
 嬉しさに涙が出た。今はあらゆるところが傷ついて、赤い涙しか出ないけど、感情がある。自分だと思える嬉しさが込み上げてくるのだ。
 痛い。嬉しい。痛い。嬉しい。
 その感情の次に後悔が来る。嬉しいと思いながらも、自分がやってきたことを考えると、後悔で押しつぶされてしまうのだった。自分の大切だと思っていた人を傷つけてしまった。友人を傷つけてしまったのだ。
 やがて、この傷はまた癒えてしまうのだろう。この身体とは、どうやら、急所を確実にやらなければ、無くならないらしい。腕が壊れようと足が壊れようと、心臓が抜き取られようとも死ねないからだなのだ。
 もう傷つけたくなかった。
 目の前に大事な友達がいた。うっすらと開けた目の先には壁際で震えている大切な友人がいた。
 もう全部、自分の手によって、自分と同種の化け物をつくってしまったと思っていたのに。まだ、一人、大丈夫だったようだ。よかったぁ、と喜びながら、思った。
 ――そう言えば、まだノート返してないや。
 そのことを意識があるうちに謝罪したいなと杏子は心からそう思った。
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8

『縁堂へようこそ~真子の章~』


‡‡‡


 双奏鉄鎖を構えながら、真木詩織は走っていた。もう人目につく場所でもないし、それで良いだろう。
 双樹に教えてもらった場所を頭の地図で辿りながら、目的の空間へと一気に飛び込む。本当ならば、少しばかり状況を把握してからの方がいいのかもしれないが、生憎、今の詩織の頭の中にはコケにされた相手へのリベンジしかなかったのだ。
 そこは暗い通路だった。通路を疾走し、飛び込んだ先には開けた空間がある。その奥にはあの夜に見た青い球体がある。しかも、三つもある。さらに見渡すと、今にも連れて行かれそうな手足を縛られている、きっと、双樹の言っていた一般人がいて、それを囲むかのように二人いた。恐らく、あれが敵だろうと詩織は構える。
 青い球体に入れられそうになる手前で、詩織は双奏鉄鎖を放った。気を込めた放った二つの弾丸が相手の腕を貫く。
「!?」
 驚いた相手は一般人を落とす。それを地面すれすれで抱きとめると、また後方へ一気に下がった。
「大丈夫?」
 詩織が相手の顔を見て言うと、相手も、多分詩織自身もかなり驚いた表情で互いを見ていた。その一般人とは、あの時、図書館の前のベンチで話を聞いたこの大学の在校生だったからである。
「あなた、もしかして、あの、えと……」
「葛城真子です」
「そうそう、葛城さんよね!」
 そこまで話したわけでもないから、名前を忘れてしまっていて、少しだけ恥をかく。えへへ、と誤魔化し笑いをした。
「あの、あなたは真木詩織さん、でしょ?」
「そうよ、よろしくね」
 言いながら真子を下ろすと、手足を縛っているものを撃って、自由にさせる。このまま、逃がしても、もしかしたらまた捕まってしまうことも考慮して、それならばと、真子を自分の後ろに退避させた。そのまま後ろに下がりつつ、相手から最も離れた壁へと下がる。
「今は、状況とか聞きたいだろうけど、そういう場合じゃないからさ、とにかく、私の後ろの壁にいて。私は、そこを中心にあなたを守るから」
「え、……はい」
 後ろにぴったりいてもらってもイマイチ戦えないことは分かっているから、ある場所を基点に守って行く戦法にした。双奏鉄鎖を構えなおして、その銃口を相手へと向ける。
「おやおや、双奏鉄鎖か」
 初老の男が詩織の持っている武器を目にしてそう呟いた。
「なんであんたが知ってんのよ」
「なんで知ってるのかって? おかしなことを言う」
 その男が嘲るように笑うと、言った。
「それはこちらの世界の武器だ。持ち出されたものなんだよ。知らないはずがあるまい?」
「あんた何言ってんの?」
 詩織にはよく理解できないでいた。すると、いきなり、側面から蹴りが飛んでくる。
「良く分からないけど、あなたはマスターの敵なんでしょ? そうなんでしょ!」
 詩織はその蹴りをギリギリで所で身体を反らして避けると、その反動を利用しつつ、発砲。しかし、その攻撃は相手に当たることは無い。相手が素早すぎる。狙っている暇がなさそうだった。
「ちぃ」
 舌打ちして、体勢を立て直すと、心の中で呟いた。
 ――双奏鉄鎖、集中の型
 両手に持つ双奏鉄鎖を片方に集中させる。すると、シルエットがアサルトライフルのようになった。空いた方の手にナイフを持つ。
「かかってこいよ! この野郎っ」
 詩織は一気に走りだした。地面を蹴って宙に浮かぶと、空中で照準。一気に相手に気を撃ちこんだ。相手はそれを避けながら詩織に近接する。意思のない、しかし、確実に相手を仕留めんとする拳が詩織の顔面を撃ちぬこうとしていた。
 片腕に持つナイフで軌道を反らす。相手は振りかぶった拳から血しぶきが飛ぶのを恐れないかのように、追撃してきた。
「こいつ化けものなの!」
 着地したところを狙われて下からのアッパーを綺麗に喰らう。一瞬、目の前がブラックアウトしそうになるが、根性で、後ろへと地面を蹴った。転がりながら距離を離して、立ち上がる。銃が無意味なのかもしれないことを悟った詩織は双奏鉄鎖を一旦しまった。多分、この反動が余計なロスを作っていると思ったからだ。
 徒手空拳の構えをとる。詩織とて、その心得が無いわけではない。
 薄暗く、目が慣れていなかったが、次第に、闘っている相手が見えるようになってきた。きちんと相手を見ろ、そして、全力で壊しにかかれ、それが詩織のモットーである。
 しかし、かえって、見えることがデメリットになるとは思わなかったのだ。
 相手を良く見た結果、相手が誰なのか、ハッキリと認識できる。それだけならばまだいいのだろう。知らない相手ならば、正直、いくらでも叩きのめせる。相手はドッペルで、人間ではないのだから。でもどうだ。それが知っている相手ならば、そこまで全力で叩きのめせるだろうか。
「あんたは、あの時の」
 その相手は、あの夜、ビルの中で助けたはずの女性だったのだ。もうあれで助かったはずなのに、手遅れだったというのだろうか。動揺が走った時に、この女性が襲ってきてからは傍観を決めていた男が口を開いた。
「そうか、君だったのかね。私が折角、入れ替えている最中のドッペルを途中で出したのは。そのせいで、ここまでするのに、時間がかかったよ」
「ってことは、あんたがあの時の」
「如何にも。これで余計に君は倒さないといけないね。松下君、さっさとやりなさい」
「はい!」
 そこで話は終わった。止まっていた女がまた走り出した。さっきよりも更に加速しているように思える。足が地面との摩擦に耐えきれずにずりむけて、血を滴らせているからだ。
「あなたには死んでほしいってマスターが言ってるのよ、だから、死んで!」
 飛んでくる連撃をなんとかやり過ごしながら、詩織も撃ちこんで行く。
「誰が死ぬかああああああああ」
 こういう時に、もうちょっと、家の道場で練習しておけばと後悔する。しかし、そうもいっていられまい。詩織は戦闘に集中した。
 この相手と詩織の決定的な差はなんだろうと考えてみた。それは恐らく、相手には痛覚がない、これに限るのではないだろうか。詩織が攻撃を受けて、着々とダメージを受けているのに対し、相手はいくら攻撃を当てても、ひるむことは無い。
 まるで映画に出てくるゾンビと戦っているみたいだと詩織は思った。まぁ、ゾンビはこんなにも機敏に動けないし、ゾンビ相手に後れを取るなんてそんな現実は認めたくない。
 腕が折れようとも、その折れた腕で攻撃してくる。折れて尖った骨が凶器のように、詩織の肌を掠めた。顔は血で真っ赤に染まり、もう女性としての形をなしていないとすら思える。
 闘っていて不意に涙がこぼれそうになる。攻撃をかわしあう中で詩織の心は悲しみに苛まれていた。
 ごめんね、ごめんね、ごめんね、謝罪言葉だけが頭を過ぎり、結果それが隙となる。
 ギリギリでかわしていた攻撃が顔面を掠めた、ひるんだ所を追撃されて鳩尾にヒットする。
「かはっ」
 思わず膝をついたところで、横蹴りが詩織の胴体を蹴りあげる。込み上げてくる吐き気に血を吐き出すと、なんとか体勢を立て直す。
 血を手で拭うと辺りを見渡す。大丈夫、男はこの闘いを余興か何かだと思っているらしい。男が動こうとしない限り、真子には被害は及ばないはずだ。
 肩で息をしながら前方の相手を睨みつける。この相手は、手加減や同情で勝てる相手ではないと再認識する。
「ごめんね、でも、私は負けるわけにはいかないんだ。まだ、守らないといけない人がいるんだから」
 最愛の兄の顔が脳裏を掠める。すると、興奮状態の気持ちが段々と静まっているのが分かった。これ以上にないくらいの冷静さを取り戻すと、拳を握りしめる。
「ケリをつけるわ」
 双奏鉄鎖を瞬時に両手に納めると地面を蹴った。よく、双樹が神滅宝珠を媒介にして、自分の能力を底上げしていくが、その感覚が今になって分かったような気がした。
 相手の攻撃がスローモーションで写っている。相手は次にこう動く、そのコンマ数秒先が読める気がした。女の拳を避けて、蹴りをやり過ごす。そのやりとりの中でついに完全に相手の懐に潜り込んだ。
 ――我流真髄荒命流、双奏鉄鎖、重の型、その一“葬連撃”
 脇にぴったりと当てた銃口から発砲。続いて、浮かび上がったところでもう一回撃ちこむと、宙に浮かせる。そのまま地面を蹴って空中に行くと一回転しながら踵落としをしてついでに追撃の銃弾を浴びせる。地面に身体がついたところで更に追撃の銃弾を浴びせ、着地したら、その身体を蹴りあげて、回し蹴りを加える。すぐにまた蹴りあげることで、最初のポジションまでもっていき、最初に戻る。それを相手が動けなくするまでする攻撃だ。
 女は何もすることが出来なかった。双奏鉄鎖によって、身体強化された詩織の速さは常人のそれを遥かに上回る速さだった。ほとんど、ぼうっとしているような間に終わるその連撃に、女は為す術もなく、地面にひれ伏す。
 起き上がろうとしても、身体が壊され過ぎて、起き上がることができない。それを冷酷に見下す詩織がいた。
「これで最後にしてあげるわ」
 そう言いながら詩織は終焉の撃鉄を起こそうとした。
「もうさすがにおいたが過ぎるな」
 しかし、それは為されない。撃とうとしたその時に、気配を更に二つ感じたからだ。すぐにその場を離れると、詩織がいた空間に攻撃が繰り出されていた。その二人とは、青い球体の中にいた二人だった。
「このドッペルは完成しています。壊されては困るんですよ。私も含めて、確実にあなたを殺すことにしましょう。もうちょっとすぐに片がつくと思ったんだがね。そろそろ、面白くない展開だ」
 詩織と向かい合うように男と新たに加わったドッペルの二人が対峙する。さすがに分が悪い。多勢に無勢というやつだ。今闘っていた女くらいの実力をこのドッペルがみんな持っていたとしたならば、恐らく、今の詩織では敵わない。
「万事休すってわけかしら」
 ジリッと一歩下がる。このままだと確実に、負ける。死を覚悟した。
「そうでもないよ!」
 思った時だった。大きな声が地下室に轟く。驚いて、その方向へ視線を合わせると、そこには今の声の主、鈴蘭、そして勝と双樹がいた。双樹は間にあったのだ。
 双樹は抜き身の神滅宝珠を構えながら詩織に言った。
「あんたは回りを見て無さ過ぎ。本当に、一人では行動させられないわ」
 いつもはむかつくその顔だけど、今の不敵に笑う双樹は心から信頼できると、詩織は笑った。
「うっさい」
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7

『縁堂へようこそ~真子の章~』


『断罪~終局へ~』

 何も成果が得られない、わけではないが、かんばしくも無かった。双樹はベンチに座りながら頭を抱える。先ほどは少しだけ違う観点の話が聞けたから参考にはなったがそれだけだ。それが何かに繋がるというわけではなさそうだ。
 隣では詩織が飽きて、携帯を見ながら何かしている。どうやらメールらしい。相手は大体分かるがそれを思い浮かべると殺意が沸くのでやめておいた。ため息をついて辺りを見渡す。
 大学とはこうも人が蔓延る場所なんだろうか。見渡せば、人、人、人。多すぎて思わず人酔いしてしまいそうな空間の中で思考の渦に身を任せた。
 この中にどうか、手掛かりがないものか。誰かそれに関する会話をしていないだろうか。調べていて少しばかり分かってきたことがある。この噂は知っている人と知らない人で実はかなり差が激しい。知っている人は知ってるけど知らない人はとことん知らない。なぜかと聞かれればただ知らないからどうしようもないということなのだろう。
 これは一見、ただの情報にしか過ぎない。知っているも知っていないも偶然でそこに共通性は見いだせないと。しかし、双樹の考えは違った。そこに何かしら隠されている気がしてならないのだ。噂を知っている人と知らない人の共通点はなんだろうと思考の断片を探るが、イマイチ、ぱっとしない。
 普段は誤解されがちなのだが、双樹は基本的にちまちましたことが嫌いである。むしろ、そういう細かい作業は詩織の方が向いているくらいだ。
 イライライライラ。
 何も繋がらない点に嫌気がさして来た。そろそろ、限界だった。先の見えないゴールとは双樹の最も嫌悪するものだからだ。これならば、ここが怪しいのかどうか、一気に片をつけてしまおうではないか、そう思った。
 スッと立ち上がると、歩きだす。後ろからそれに気づいた詩織が急いで追いかけてきた。いつも、子犬のような詩織は性格や好みこそ、対立するが、基本的に可愛いと思っている。ペットを想う飼い主の如く。
「あぁ、どこ行くのよ」
 そんな物は決まっていると双樹は思った。本当は丹念に調査を重ねていく、それが第一の目的だし、手段だ。下手に自分の力の存在を一般人に漏らしてはいけないし、大勢一般人がいる中での開放は鈴蘭から厳重に禁止されていた。もしも知られたらどうなるか分からない。げんこつではすまないかもしれない。
 でもそんなはいくらでも誤魔化しが効くだろうと思った。
「それはね、少しばかり思いきろうと思ったの」
「は?」
 詩織はわけが分からずに疑問符を浮かべるが、そんな物はすぐさま分からせてやる。双樹は急いだ。
 とりあえず、今双樹がやることと。それは人目につかない場所、これが一番大事なのである。人目につかなければそこで双樹は思いきってあることが出来るのだから。歩く。歩く。そして、歩く。
 しばらくすると、もう外には場所がない気がした。そもそも、こんな時間に外に空いている場所があると考える方が難しい。よって、建物の中だと思うそして、空いていそうな場所は……。
 ここ最近、調べてきたデータをもとに、予想する。そして、その場所に急いだ。九号館の階段を三階から入り、奨学金や学部ごとの掲示板がある教室の近くの階段からずっと上に上がる。行った先にそれはあった。
「講堂、ここに来たかったの?」
「そうよ」
 これで早く終わらせられると思うと、心なしか、気分が良くなる。幸い、双樹の思っていた場所には人っ子ひとりいない。だから、存分にやれる。
 詩織は先ほどから双樹の奇怪な行動に頭を傾げていた。まだ分からないようなら、詩織はまだまだ、双樹の事を分かっていない。双樹が見た目ほどお利口な考え方をする人間ではないという事を。
 腕を前に突き出すと同時に詩織に言った。
「詩織は誰か来ないか見張ってて! じゃあ行くわ」
「ちょっと、まさかあん……」
 詩織が何やら言おうとしていた。恐らくは、鈴蘭に怒られるからやめようよ、と言いたいのだろう。多くの場合、きちんと上の言う事を聞く。本当に真木詩織という人間はいいやつだ。従順で、頭も悪くない。しかし、そんな言葉は聞いていないふりをして、双樹は行動した。
 ――次元の鎖よ、戒めを解き放てっ
「神滅宝珠!」
 双樹の手の先に次元の歪みが発生した。やがてそこから空気が裂けるようにして十尺はある野太刀が姿を現す。抜刀してそのまま抜き身を地面に突き刺した。
 目を閉じて体内の気を一気に高める。体の表面から湧き出るような気はそのまま刀を通して地面に染み込んで行った。双樹は精神の中で構内を探索しているのである。刀を持たない双樹は出来ても精々部屋数個分先の気配しか探れない。しかし、神滅宝珠を抜いて気を拡散させれば、この大学全域を探ることなど容易なのである。
 もしも、ここで怪しいものがいれば双樹の探索網に引っかかるはずだ。あの夜に感じた気配、もしくは、常人では出すことの出来ない気配を探って行く。ここでその反応が出ないならば、それはそれ。もうここは探らなくてもいいのかもしれない。
 万が一にも間違いがあっては面倒だ。二度手間だけは避けたい気持ちで丹念に気を飛ばす。そして、
「――見つけた」
 怪しい気配が二つもある。
「え、敵は二人?」
 そして更に探ってみて分かったことがあった。それは、その気配と同時に動く一つの気配があるのだ。そしてそれは、恐らく敵ではないのだろう。もしかしたら、この人物の身が危ないのかもしれない。
「まずいわね」
「ねえねえ! さっきから一人でブツブツやってないでさぁ、もうここまでやっちゃったら少しは私にも教えてくれない!?」
 詩織がいい加減、蚊帳の外で不満を漏らし始めた。双樹は神滅宝珠を地面から抜くと、白刃を鞘に納める。
「ああ、ごめんなさいね。敵がいたわ」
「ここにやっぱりいたってこと?」
「そう、しかも、あの夜に倒した奴と同じ気配、そしてそれには似ているが、違う気配。でもそれは敵だと思う。さらに、それにぴったり寄り添うようについて行っている一般人の気配」
 あの夜に倒し損ねた敵を思い浮かべながら忌々しげに双樹は呟いた。
 今度こそ、今度こそは敵を処理する、そう心に誓いながら刀を握り締める。
「それって、誰か巻き込まれているってこと?」
「そうね、普通に考えればそうだわ。そして、まだ動いているということは、止まったところが奴の潜伏先、もしくは、ドッペルの生成工場と考えるのが妥当でしょうね」
 そして、その一般人はドッペルになってしまうとそう最後に付け足した。もしもドッペルになってしまった場合、それを戻す術はない。つまりは、今動かないと間に合わないかもしれない。
「ねぇ、それって大丈夫なわけ?」
「もちろん、大丈夫じゃないわよ。だから、行くわ」
 だから、詩織は連絡をして、というつもりだった。しかし、それは詩織本人に妨げられる。目が語っていた。詩織は双樹が何を言うか分かっていて、想いを目に込めている。
「ねぇ、双樹は連絡してよ。私に行かせて」
「でも……」
「悔しいのよ! この前、私は負けた。双樹がいなかったら死んでた。悔しいの。私は誰かを守れるくらい強くなきゃいけないのに。簡単に負けるわけにはいかないのに。私は弱くない。それを今度こそ証明したい」
 誰に向けて言っているのかは分かった。双樹にとってはもっとも忌むべきだいてだろうが、詩織にとっては最愛の人間だ。この前の雪辱戦をしたいと言っているのだろう。
 しばし考える。詩織に任せてもいいものか。恐らくだが、詩織では力が足りないということは容易に想像できる。でも、あの目を見てしまったなら、それを口にするのははばかられる。
 降参のポーズを双樹はとった。
「分かったわ。あなたの熱意には負けるわよ。行ってらっしゃい。私もすぐに駆けつける」
「うん。任せて」
「任せた」
 決意を目に宿して詩織は頷いた。魂の熱が見えているみたいだった。
 双樹が場所を教えると、詩織はすぐにその方向へと走って行く。今度はすぐには負けないだろう。そう思える背中を後に、双樹は連絡をするために動くことにした。


†††


 頭が痛い。それがまず最初に感じた感覚だった。フワフワとズキズキとよく分からない感情の中で葛城真子は目を覚ます。カクカクと頭が動く。頭が完璧に下向きになって、目には誰かの背中しか見えない。どうやら誰かに担がれているようだった。
 そう思ったのもつかの間、その衝動は消えて、担いでいる誰かが止まる。真子は地面に下ろされた。
 外は結構蒸し暑いはずなのに、やけに冷たい。冷たい地面、そして、暗い部屋。微かな光しか認めないような暗い部屋の中に真子はいる。
 息が荒いと感じた。なぜだか、頭が濡れているような感じがする。そして頭痛。激しく痛い。割れるように痛かった。何が起こっているのか分からなくて、不安で仕方がないのに、この痛みが真子の思考や動きを制限しているように思う。
 薄く目を開けると上を見上げる。そこには多分、真子を連れてきた張本人が立っていた。
「ああ、目を覚ましたんだね」
 女性の声だった。なぜだか聞いたことのある様な声で、段々と意識が冴えはじめる。痛みを無理やり抑えながら上半身を起こした。体中に鈍痛が走る。どうやら体中にもれなくダメージを与えられているらしい。転んだのか、ぶつけたのか分からないが、立ち上がることはできそうになかった。
「あ……あ」
 言葉が出ない。相手を見て、何かを伝えたいと思うのに、右目から通じてみる景色が赤く染まっていて、それが気持ち悪くて声が出せない。
「痛いだろうにね。目も汚れてしまっている。これで拭いてあげる」
 声の主は真子の前にしゃがみこみ、そして何かで真子の顔を拭く。ちょっとすっきりした気がした。視界も少し広まったような気がした。
 それからしばらく何も声も音も出さない時間が続く。真子はまた寝てしまおうかとも考えたが、それを真子の心が否定した。
 駄目だ、寝るな。考えろ、とずっと心が叫び続ける。でもね、痛いんだよ、苦しいんだよ、眠いんだよ、ともう一個の感情が働きかけた。もう寝てしまいたい、このまま楽になりたいと思った時に、ふと、思い浮かんだ。
 いつもつるんでいる二人の顔が頭に浮かんだのだ。どんな時でも笑っていた。怖いこともあったけど、辛いこともあったけど、あの二人がいたから乗り越えられたのだ。真子はイメージした。自分がいなくなったら悲しむだろうかと。
 そしてその結果とは恐らく悲しんでくれるんだろうなぁという事だった。泣いてくれるんだろうと思ったのだ。だからこそ、真子には炎が灯る。希望というのは常に弱くて情けないほど小さいものだけれど、時に高らかに燃え上がる。あの笑顔を見たい。真子にとってのきっかけはその笑顔だったのだ。
 沈みかけていた意識を一気に覚醒させるときちんとその双眸で目の前を見ることが出来た。まだ少し右目からの景色は赤く見えるけれど、染みるけれど、きちんと前を見ようと思ったのだ。
 まず見えたのが暗いという情報、そして、暗いがうっすらと見える目の前の人間の顔だった。
「え、あなたは……」
「あらら、目を覚ましたんだね、そのまま寝ていればもっと楽になれただろうに」
 真子は目を開けたことを早々に後悔してしまった。目の前に立っている人間とは真子の良く知っている人間だったからだ。それは、見間違うはずもない、松下杏子だったのである。


 妙な時間だった。真子と杏子が二人で話している。それはいいだろう。しかし、今回の場合、状況が状況なのである。杏子は、真子の後頭部を殴打し、意識を確実に失くした後に地下室のような場所に連れてきている。これからどうなるかは分からないが、良い方向へ向かっているわけではないということは真子にだってわかっていた。
 殺人犯とグダグダ喋っているような感覚はなんともあべこべな気がしたのだ。
「ねぇ、私のこと、嫌いになった?」
 少し静寂の後にふとそんな事を聞いてきた。
「そんなのっ」
 真子は当たり前と言おうとしたが口を塞ぐ。杏子は疑問符を浮かべて、その先を待っているが、すぐには言葉に出来なかった。
 今はそういうことを言っていいのかが良く分からなかったからだ。下手なことを言うと相手を刺激してしまうかもしれない。それは、避けるべきことだし、それで死んでしまっては元もこうも無い。そして、最後に会った時にはあんなに死にそうな目をしていたのに、生き生きとしているのにも少なからず驚愕を隠せない気持ちも手伝っていた。
 言葉は慎重に選ばなければいけないだろう。
「……別に、そんなこと、ないけど」
「そう、そうなんだ」
 杏子は何度も頷いた。まるで真子の言葉を噛みしめるみたいに見える。ふわりと笑うその顔が今の状況を麻痺させてしまう。もしかしたら、自分は殺されずに済むのかもしれない、そう真子が淡い希望を抱いた時だった。
「じゃあ、真子が真子じゃなくなったあとでも、私の友達になれるようにお願いしてみるね」
 が、それは違うようだった。やはり、杏子は敵だ。
 そして今の言動におかしいところを一つ見つける。
「あの、お願いってどういうことすか?」
「え、それはね、私をこんなに素晴らしい身体にしてくれた方にねお願いしようと思って。私にこの世界の一部となれっていう言葉をくれた素晴らしいお方……」
 うっとり杏子は天を仰ぎながらそう言った。新興宗教みたいなノリで正直、へどが出る。しかしその先を知らなくては。情報を一つでも得て逃げる準備をしないと。
「素晴らしい身体って、見た目は普通に見えるんだけど」
「そうね、たしかにそう。中身は全然違うわ。最初こそ少し不具合があったけどね。例えば……」
 杏子はおもむろに右手の人差し指を左手で握った。そして、そのまま、
「こう!」
 人差し指を背面に九十度に曲げる。軟骨が押しつぶされるようなメキュという鈍い音が聞こえた。
「ひっ」
「驚いた? 驚いたでしょう? でもね、痛くないんだよ。もうちょっと時間が立てばこういうところは元に戻るしね。この世はね、痛いことばっかりだもん。怖いことばっかりだ。そういう現実から逃げる方法をあのお方が教えてくれたの。これって素晴らしいことよ! とってもとっても素敵なの。だからね、待ってて、すぐに真子も私みたいに、私の仲間みたいにしてあげるから」
「仲間?」
「うん!」
 杏子が手を広げる。そして、後ろにあった仕切りのような壁をスライドさせた。
「なんなんすか、これ」
 気味の悪い光景が広がっていた。青白い大きな球体が三つほど並んでいる。その内の二つには人間が入っていた。淡い光を漏らす球体は大きなシャボン玉に見えないこともない。
「これはね、私と同じ体を作っている最中なの。あの中で一定期間過ごすと、私みたいになれるんだよ。あの一つだけ空いている球にはね、真子が入るんだ」
「あの中に、私が?」
 言い知れぬ恐怖を覚える。あそこにだけは入ってはいけない。そう本能が告げているような気がした。多分、あそこに入ってしまえば、真子は真子でなくなるだろう。そして、良く分からない新興宗教の仲間入りをするわけだ。考えただけで虫唾が走った。
「私は、途中で出されちゃったからこうなるまで時間がかかったけど、真子はきちんと完成した形でやってあげるからね」
 からね、じゃねーよ、と真子は内心焦りつつ、逃げようとする。が、当然逃げさせてくれるわけもなかった。両手両足を縛られていることに今さらながら気がついたのだ。
 どうする! どうする! どうする! 焦る気持ちで考えるが、どうにも上手く思考回路が働かない。もう駄目なのか、そう思っている時だった。
 コツコツコツコツ。
 コツコツコツコツ。
 足音みたいだった。その音に気がついて杏子がその音の方へと顔を向ける。途端にすごい笑顔になった。
「あ、マスター」
「やぁ、松下君」
 一人の初老の男性が姿を現す。もう現実に追いついていけそうにない。真子の自我はどうにもならないくらいに破壊されてしまいそうだ。
「あ、真子、紹介するね。これが私の身体を作ってくれたマスターで名前を茂上幸二さんです!」
 この現実は素晴らしいくらいに歪んでいるんだろうなぁとフラフラする頭で考えた。真子の目の前にいる人を知らないはずがなかった。それは、真子の所属するオカルト研究会の顧問、茂上幸二その人に間違いないのだから。
「葛城君、久方ぶりだね」
「……そうすね」
 悪い夢でも見ているようだ。ここまで、知っている人が意味のわからないことをやっているものなんだろうか。こんな現実は間違っていると声高らかに言いたいが、ここまで、お膳立てされていると、実は真子の考えが間違っているのではないかとすら思えてしまう。本当に、悪夢だ。
 幸二は言った。
「話は少しは聞いたんじゃないかね? 君はこれから変わるんだ」
「変わるとかいらないっす。それに、理解できる話でもなかったし」
「そうかそうか」
 ニヤリと薄気味悪い笑みを浮かべながら幸二は続ける。
「要はね、君には完成されたこの世界の完成された歯車になってもらおうと、そういうことさ」
「もっと意味がわかんねいっす」
「分からずとも良い。なれば分かることだ」
 もうこれ以上は引き延ばせそうになかった。明らかに、幸二は話を切ろうとしている。真子が何を言っても無駄だろう。しかし、まだ脱出の機会もなにもない。
 どうすればいいのか分からない。
「松下君。そろそろ始めてしまおう。今回は少しイレギュラーな要素が多かった。いつもならば意識を失っている間にやってしまうから楽なのだがね。説明も面倒だ。さっさとやってしまいなさい」
「分かりました! さぁいくよ真子」
 とうとう時間切れのようだ。女性一人の腕力とは思えない力強さで真子の腕を掴むと持ち上げる。肩に担がれるような形で、真子はそのまま青白く光る球体にまっしぐらだった。このまま、あそこに入ったとして、どうなるんだろうか、そんなことばかり考えてしまう。
 大事な親友の事は覚えているんだろうか。
 大事な親の名前はきちんと呼べるんだろうか。
 私は私で葛城真子でいられるんだろうか。
 そういう気持ち。そういう感情。これは走馬灯に似ているのかもしれない。人はどうしようもない絶望に立たされた時に、優しい思い出が身体を包むのだ。せめて、消えてしまう前に苦しまないようにと。身体が発する防衛本能の一つなのかもしれない。
 すぐ眼前に青白い球体が迫った。
――もう、このまま、このまま、死んでしまえたらいいのに。おかしくなる前に、もしかしたら誰かを傷つけてしまうかもしれないのだから。だから、その前に死ねればいいのに。
そう思った時だった。
 ふと、身体が浮いたのだ。そして、地面に落ちる前に、誰かに抱きとめられる。
「大丈夫?」
 虚ろに見上げると、そこには小動物系の美少女がいたのだった。
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6

『縁堂へようこそ~真子の章~』


 講義を受けているときのことだ。後ろの席に座っているグループがヒソヒソなどと気を使っているわけでもない大きな声で話をしているのが耳についた。内容は、最近流行っている神隠し事件のことについてだった。
 真子はペン回しをしながらその話を耳にいれつつ、授業には集中していなかった。まだノートを返してもらっていないというのは、実はかなりやる気を減退させる一つの要素だと思うのだ。
「それはあんたがサボりたいってだけでしょが」
 そういうことを呟くと隣の琴奈がペシンと頭を叩いてきた。これでは本音も呟いていられない……自らサボりたいとのだと認めてしまったではないか。
 やることがないわけでもないが、やる気が出ないので、腕を枕にして寝る体勢を作った。そのままウトウトしてみる。お昼ごはんの後の授業とは大体こんなものだろう。まどろみに抱かれながら、真子はこの前の杏子との会話を思い出していた。
 存在って、なんだろうなぁと。
 自分を自分たらしめているものは何だろう。証明はできるのだろうか。今まで何をやってきたのだろうか。
 生きるって、なんだろうか。
 思い返せば恥ずかしい話ではあるが、真子にはそこまで努力というものをした覚えがない。思い返せば思い返すほど、自分は何をやっていたのだろうと思ってしまうのだ。空っぽな人生、それはとても悲しくて、やるせない。
 なんというか地味に、杏子の言葉が胸に突き刺さっているらしい。
 真子はため息をつく。途端に何も考えたくなくなったのでそのまままどろみに身を任せようと思った。ノートは今度会ったときにでも返してもらおう。そう思うと一気に眠気が押し寄せて、しばしの夢にオールを漕いだ。
 起きるといつのまにか、授業は終わっていたみたいだ。真子は眠い目を擦り、周りを見渡す。親友二人は、真子の隣で一緒に眠っていた。時間を見るといつの間にか、いつも帰宅する時間に近づいている。
「私たち、寝すぎよね」
 琴奈がアハハと笑いながら言った。正直のその言葉は洒落にはなってない。なんていう目で見られていたのだろうと思うと、羞恥心がムクムクとわきあがる気がした。
 とりあえず帰り支度をすると、本来やるはずだった学生証を読み込ませるという作業を断念して、ウブンイエウンまで行く。この時間はやはり、人が多い。でも、ここで勝手から駅に行くという手順は儀式のようになっていた。これを外すと落ちつかないのだ。
「私たちはもう決めたから買っちゃうねぇ」
 菜柚たちが食べ物を持って先にレジまで行く。真子はいつものチョイスに決めようと思い、あとは飲み物を決めることにした。
 どのお茶を買おうかと悩んでいたところ、背中に衝撃を受ける。痛さで後ろに目を向けると、可愛らしい女性がお菓子を持って立っていた。
「あ、ごめんなさい。こけそうになっちゃって」
 てへ、と舌を出すようなしぐさが似合うんだろうなぁと謝罪を受けながら真子は思った。栗色で肩辺りで切りそろえられたサラサラの髪、紫色のお洒落なシュシュを軽くアクセントにしたサイドテール。くりっとした目は小動物を彷彿とさせる。声も少し高め。とにかく構ってあげたくなるというのが印象だった。こんな美少女みたいなのがこの大学にいたことに驚く。
「あ、ここにいたの。さっさと次に行くわよ」
 その可愛らしさ故か、なぜだか、その場に棒立ちになってしまった真子を横目にさらにもう一人、綺麗な女性が現れた。真子にぶつかってきた子の連れだろう。可愛い子には同類が集まるのだろうか、いや、見た目的に性格が正反対に思えるのだが、それは気のせいだろう。
 その子も思わず撫でたくなるくらいに立派な黒髪で肩甲骨あたりまでのびるストレートの髪は圧巻だ。きりっとした少し釣り目気味の目がさらに黒髪を引き立たせているような気がした。凛々しいという言葉がお似合いの、そんな印象の女の子。
 その子が真子にぶつかってきた子と少し話をして、その視線が真子に向いた。
「私の連れがご迷惑をおかけしました」
 四十五度の逆に恐縮するようなお辞儀をされた、真子もお辞儀をし返した。
「いえいえ、怪我がなかったような、なによりっす」
「ありがとうございます」
 その子が顔を上げるとふんわりと微笑む。ああ、美少女は笑顔をも素敵なんだなぁと若干ニヤニヤしていると、そのままその子は言葉を続ける。
「ところで……あの、厚かましいお願いとは思いますが、少し聞いてもらいたいことがあるんです」
「は?」
「お願いできますか?」
 ズズズ、という漫画の効果音が聞こえそうな一面だった。美少女の存在感とやらが真子を包んで離さない。正直な話、もっと話したいと思ってしまった。女だって。美少女には弱いものだ。
「はぁ。分かりました」
 あ、と思ったときには真子はもう返事をしてしまっていた。ほとんど反射のようなものだった。


 図書館の前のベンチに座る。周りにはいつものように大勢人がいたが、なんだか、人目を引いている気がした。恐らく、この二人が原因なのだろう。
 面白いほどに、存在感という言葉を強調してしまうような二人は、そんな視線を気にしていないのだろう。毅然とした態度で真子に向き合っている。結局、可愛い子と知り合いになるいい機会かもと思い、真子はついてきてしまっていたのだ。ちなみに、琴奈と菜柚には先に帰ってもらった。自己紹介を軽くすませた後に、先ほどのお願いとやらを聞いている最中なのだ。
「あの……聞いてます?」
 凛々しい方の子――近衛双樹が聞いた。ハッと我に返った真子は気まずそうに指で空をなぞった。
「ごめんなさい、最初からお願いできますでしょうか」
 どっちが先にお願いしてきたのか分からなるような台詞を呟くと、双樹はため息をついた。呆れられているのだろうか、そうだよなぁと真子は苦笑いする。
「いえ、お願いしたのはこちらなので。では、再度お聞きしたいと思います。最近、流行っているそうなんですが、神隠しの噂について知っていることはありますか?」
 聞かれたことを頭の中で再構築させながら理解していく。結果、疑問符が大量に頭に浮かんだ。もしかして、この子は俗に言う“アブない子”なんじゃないかと思い始めたからだ。
 美人というのは時々、そういう傾向にある。綺麗なのに、可愛いのに、なんでそういう残念な方向へいってしまったのだろうというやつだ。方向性を間違えてしまっているというかなんと言うか。とにかく、見知らぬ人に、いきなり神隠しのことについて聞いてくるなんて頭が正常な人じゃないと思ってしまうのも仕方がないと思うのだ。
 真子のそういった思考が表に出たのだろう。双樹は気づいたような顔をして、慌てて言葉を付け加えた。
「あ、あの、私たちは変な宗教とかじゃないですよ。ただ、こういう話に興味があって」
「でも知っている情報が少なくて、聞いている最中なんです!」
 双樹の言葉を隣にいるくりっとした目をした小動物系美少女――真木詩織が引き継いだ。双樹はなんで邪魔をする、というような視線を投げかけるが、それを軽やかにスルーしていた。この二人は仲が悪いのだろうかと一瞬思う。
「はぁ。そうだなぁ」
 真子は自分が知っていることをすべて教えた。といっても、真子自身がそこまで、知っているわけでもないから、大して情報は持っていなかった。真子はこの事件に乗り遅れた一人だからだ。
 話し終えると、双樹はメモ帳を閉じる。「ふむ」と一回頷いた。
「ありがとうございます」
「いえいえ、私の情報とかあんまり役に立たないかもだけど」
「そんなことは。助かりました。では、これで失礼させていただきます」
 双樹が席を立つ。一回お辞儀をすると、くるりと体を翻した。そのときにふわりとなびく黒髪がなんだか幻想的なまでに綺麗に見えてしまう。断じて、真子はその手の属性をもっているわけではない。
「ではでは! ありがとうございました」
 にっこりと詩織も笑って、双樹についていく。こうして後姿を見ると、似合っている気がするのだが。女というのはよく分からないと真子は思った。
 自分も帰ろうかとバッグを持ったそのとき、まださほど距離が離れていない双樹が振り返る。
「ああ、そういえば」
 タタタと真子のところに駆け寄って、双樹は呟いた。
「余計なお世話かもしれませんが、気をつけてくださいね。あなた、色々大変そうな気が漂ってるわ」
 そういうと、今度こそ立ち去ってしまう。真子は言われたことについて意味が分からずに、ただ立ち尽くす。
「やっぱり、アブない子だったのかなぁ」
 そう思うことにした。そうすれば幾分か気が楽になる気がしたのだ。帰るためにバス停へと歩き出す。今日は友人から借りた漫画をバスの中で読もうと決めていた。バス停へと向かいながら手でさりげなくバッグの中を探ってみる。しかし、ない。
 真子は立ち止まる。隅によって、中身を詳しく探ってみることにした。しかし、ない。今日はどこに寄ったかなどを思い出す。一つの答えに行き着いた。それは、美術室だった。オカケンともう一個掛け持ちで真子は美術部に入っている。その漫画を借りたのも美術部の友人からなので、そこにあるに違いないと思った。幸い、鍵も持っていることだし、真子は部室に行くことにした。


 ぱちりと電気をつける。誰もいないみたいだった。今日はこれから雨予報なので、そのせいもあるのかもしれない。いつもならば、この時間は誰かしらがいて、雑談でもしているのだが。この前なんか謎のデュ○リストが乱入してきた。
 さて、と、真子は部室の中を探し始める。なかなかどうして、見つからない。確かにここにあるはずなのだが。漫画を貸してもらってからどうしたのか思い出しながらずっと探してみた。ロッカーなども調べたが、ない。
「どこー」
 そして、いつもならば絶対に置かないし、見向きもしないだろう場所にも手を伸ばした。すると、そこには確かに貸してもらった漫画がおいてあった。
「あった!」
 手にすると、中を確認する。大丈夫だ。あっている。
 忘れ物とは、大体、いつもの行動をしていないときに生じるものだ。たまにいつもとはちがうことをするとこうなる。
 安心して一息つくと、不意に、ドアが開く音がした。フッとみると、そこには杏子が立っている。
「あ、どうしたの? ここ美術部だけど」
「ドアのところから見えたからさ。ちょっと挨拶にね」
「そうなんだ」
 真子は杏子に席を勧めると、コーヒーをいれに行く。ポッドを操作しながら、後で、ノートのことについて聞いてみようと思った。
「……ねぇ」
 いきなりだった。すぐ後ろに気配を感じた。いつも聞く声とは違う、冷たくてやけに低い声だったから、思わず持っていたマグカップを落とす。ガチャンと陶器の割れる音がして更に方をビクッとさせてしまった。
 肩に手を置かれる。ゾクッと寒気した。
「……カミカクシノウワサッテシッテル?」
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5

『縁堂へようこそ~真子の章~』


***


「はぁっ」
 目を開けた。いつの間に寝てしまっていたみたいだった。それにしても酷い夢だったと少女は嘆く。酷い夢である。あんなに、幸せだったときのことがよみがえるのだから。
 何も考えずにすごし、ただ時間という有限の代物を友人と遊ぶことだけに使うという贅沢。いっぱい笑った。いっぱい泣いた。時には退屈にさえ感じるその時間が今はなんとも愛おしい。他には何もいらない。だからせめて、あの時の自分を帰してほしいと思う。
 夢とは残酷なものだ。見たくもない幸せをまざまざと見せ付けてくるのだから。叶えられない未来をいとも簡単に叶えてしまうのだから。でもそれには触れることはできなくて、蜃気楼のようにそこに見えるだけだ。見るたびに現実とのギャップで気分が落ち込んでいく。
 最近、息が苦しい。常に目の前がくらくらしていて、まるで何かが体を勝手に操っているみたいだと少女は感じていた。絶え間なく汗が滴る。暗い地下倉庫で少女はうずくまっていた。
 親には学校に行っているといっておいた。だからそれを信じているだろう。しかし実際は学校に来てはいてもほとんど行動できていない。一日中暗いところで過ごすのだ。それのほうが体がおかしくなっても多少の制御は利くのだから。
 体の変調は増すばかりだった。それについて何かあるとすれば、きっと湿度が高いからだろう。雨の日に少女の精神はもっとも蝕まれている、そんな気がしてならない。
 自分の手を見る。少女のかつての細く精緻な指は今はもう見る影もない。薄く汚れ、血でまみれている、そう見える。鏡で見ると、鏡の向こうの自分は汚れきっていた。なぜそう思うのか、何も覚えていないと思いたいが、何をしているのかははっきりと覚えている。
 意識が段々と遠のくと、少女は人を襲っていた。この容姿に人はだまされるのだろう。警戒心を解いてしまえば、後は言葉でおびき寄せて手をかけるだけだ。散々殴った後に相手は昏倒する。そして少女の意識もそこで途切れる。が、その後にどうなったか知らないだけで、そうなる過程で自分は何をしたのか、そういうことはすべて知っている。
 恐ろしくなる。
 今はまだ意識がある。自我がある。しかし、それも薄れていっているのが理解できるのだ。このままいつまで、自分は自分でいられるんだろうと。そして、仮に意識がなくなったとして、それでも自分は人を襲い続けるのだろうかと。
 手にまとわりつく見えない血が重石の様に少女を苦しめていた。
 死にたい。死にたい。何度も叫んだ。心の底からそう思った。もう嫌だった。知っている人間を襲おうのは。いつ自分にとって大切な人にまで手をかけてしまうのだろうと考えたら悲しくて涙があふれる。
 あの子にだけは手を出したくない。しかし、それもそろそろ限界なのかもしれない。殺してほしいと少女は渇望する。
 手を上げる前に殺してほしい。
 自分がこれ以上傷つかないように殺してほしい。
 もうこの現実から逃げ出したいから殺してほしい。
 すべてが信じられない。殺してほしい。
 今見ているこの世界は現実か? こんなにひどい世界が現実なんだろうか。
 思い、苦しむ。そんなループの中で、少女は生きていた。しかし、こんな世界だから、逆に少女は生きるということを理解したというのも事実である。死期を悟った老人が人生を理解するように。少女もまた、人生を理解し始めている。
 あのときにこうすればよかった。こう選択すればあるいは、と思い悩む時間は当に終わった。今は、とにかく死にたい。今日も壁に文字を描く。
 ―コロシテ。
 爪をねじり、指先の肉を露出させる。グチュグチュと湿った、ほのかに暖かい血液を流しながら、それをインクの代わりにして。こうなってしまっても、また起きたときには治っているのだ。だからこうして毎回指を痛めつける。
 まだ痛いと感じるだけ、少女は自分が人間なのだと思えるような気がした。
 自分の中に人格が、自分という人格が残っているうちに。霧散してしまうような微かな欠片かもしれないけれど、あるいは拡散してしまった残滓かもしれないけれど。まだ、意思があるうちに。人間として殺してほしかった。
 コロシテ、シニタイ。
 まただ、胸の奥がずきりと痛んだ。たぶん、外は雨が降っているのに違いない。少女は膝をついた。心臓がドクドク高鳴り、息切れを起こし始める。この症状が出ると、次第に意識が遠くなり、いつものあれが来るのだ。
 ヤレ。モットヤレ。
「誰なの?」
 ヤレ。モットヤレ。ハヤク、ハヤク!
「あんたは誰なのよおおっ」
 頭に呼びかける声に反論した。慟哭が地下に響いた。まるで大勢の少女が泣いているようにエコーを繰り返した。しかし、当然のように頭に響く声は収まらない。精神が汚染されていく。意思が弱くなる。意識が遠のく。
 コロシテ……コロシテ、モウヤメタイ。
 そう思ったのが、最後。フッと意識が遠のいた。もう、限界なのだと少女は感じた。ごめんなさい。ごめんなさい。得体の知れない何かに意識が染まっていく中で、少女は友人にそう呟く。
 ブツン。意識が完全に染まるとき、それはまるでテレビの電源を消すように簡単だった。もう、少女は止まらない。
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4

『縁堂へようこそ~真子の章~』


『発覚~真知れ、残酷という物語~』

 調査を始めて結構経った。詩織も双樹も事件が起こった場所などを中心に聞き込みへ励む。最初はネットや雑誌などを調べて、やっと聞き込みのポイントを絞るまでに至ったのだ。
 馬草団地の横を歩きながら二人は話していた。
「大学ないね」
「そうね、ここらへんにあるはずなんだけど……」
 ムームルマップを見ながら目的地を調べるが、どうやらその姿は未だに姿を見せないでいる。地下帝国でもないのだから、そろそろその御身を拝見したいところだ。しばらく歩くと前方に小学校の校舎が見える。今は使われていないようだ。ここをまっすぐ行ってしまうと、微妙にムームルマップが示した道からずれてしまう。さて、どうしたものかと思っていたときだった。
「あ、あれ! バスよ、バス」
 詩織が叫んで指を刺した方向には変に狭い道にバスがするりと姿を消したところだった。確かに双樹たちの行きたかった目的の大学の名前が書いてある。これは、あたりかもしれない。
「たしかに。行こうか」
「だね!」
 路地を入っていくと、左手には温泉施設があり、真っ直ぐ路地は伸びている。走っていくと、右手のほうになにやら建物が見えてきた。ビルのような、団地のようなそんな建物がひしめき合っている、そんな不思議な場所。なんだろうと思いつつ、さらに歩を進めてみて、それが何だか理解する。
 そう、こここそが、双樹たちの探していた場所だったのだ。
「わぁお、集合住宅みたい」
「そういうこと言わない」
 集合住宅とは言いえて妙だった。双樹が知っている大学のイメージとは遥かにかけ離れているからだ。もっとも、双樹は「場末の集合団地」と思っていたので、強く詩織に言えるわけでもないのだが。
 とにかく目的の場所に着いたということで、潜入を試みる。一応、大学ということで制服だと怪しまれてしまうかもしれないということを考慮し、今日の二人の格好は私服である。警備員がずっと仁王立ちしているので、少しだけ不安だが、こういうときは怖がると帰って怪しまれてしまうというのはよく言われることで、ドンと構えて二人は歩く。
 ドキドキドキと心臓が高鳴っているのは分かる。これが恋のトキメキならばいいのに、と詩織は妄想しながら門をくぐった。
 少しばかり急勾配な上り坂が続き、ウブンイエウンが見えてきた。現在時間は夕方の四時。だというのに、コンビには人が群がっていた。入り口からもう、人が多いのが分かる。飲み物の所まで列が伸びている。あれだけのレジがあるというのに、信じられない光景だった。
 二人はコンビニに入るのをとりあえず、諦めて摩云宇館という建物の一階にある自販機で飲み物を調達し、外のベンチに座ることにした。建物の中は変な茶髪やらで全身カスタマイズしたような集団がいるのでそこで休憩はできないと判断したのだ。
 今日は空も曇っていない。まだ四時なので、空は青く、気持ちがよかった。しかし、少しずつジメジメと感じ始めているのも事実で、気持ち悪いとも双樹は感じていた。
「そういえばさぁ」
 小気味の良い音を立ててプルトップを引き、詩織は自販機で買ったソーダをゴクゴク飲んでいた。プハァと親父並みに声を上げている。
 いつも思うことで、どういう風な教育を受ければ、あのように、炭酸飲料を一気飲みできるのだろうかと双樹は思う。いつもやってみるけれど、ものの数秒もかからないうちにギブアップしてしまう。詩織が買っているのを見てなぜだか買ってしまったソーダを見た。おいしそうに水滴を流している。
「何?」
 詩織の言葉を聞きながらプルトップを引く。開けるときの音が爽快感をかもし出していて、双樹はこの音が大好きだった。開けたところで、口にセットして飲むことに集中してみる。私にできないことはないと言い聞かせることにした。よって、詩織の話は実のところ、ほとんど聞いていなかったりする。
 オンユアマーク。
 心で唱える。そして……一気に流し込んだ。
「!?」
 あれ、死ぬ?
 なんと言う邪悪な衝撃だろう。喉が沸騰しているみたいにウヨウヨして、息継ぎができなくなって。これは人間の飲むものだろうかと本気で疑ってかかりたくなった。
「あのさ、これからのこと……ってあんたなにやってんよ!」
「なん、うえ、ごっほ、な、い……ごほ、ぶふぉ」
「はぁ。なれないことするから」
 アハハハハハと高笑いの詩織が恨めしい。睨むついでに、足をつねっておいた。
「いったぁ。何すんのよ!」
「さぁ? 私は何もしていないし。で、何、聞きたいことって」
 怒って、すごい剣幕になっている詩織をよそ目に、話を進めておく。恥ずかしい気持ちやら色々あるので、ごまかしていく方向に決めた。
「ったく。分かったわよ……あのさ、聞くって結構難しくない」
「ああ、そのこと」
 双樹は炭酸によって、一瞬、ここに来た本来の目的すら忘れてしまいそうになっていたが、ここまで来て目的を思い出した。そうだ、自分は事件のことで聞き込みに来たのだと。
 確かに、来て分かったことがある。なんと言うか、突撃して何とかなるほどの空気をここは出していないことに。このままいきなり話しかけても「はぁ?」となるだろう。そしてそれからの神隠しのことなど聞いたらさらに「キモ」といわれること請け合いだ。そんなこといわれたら精神的にダメージがでかいと予想された。
「確かに私も考えていたところよ」
 双樹が冷静に現状を述べると、詩織の「冷静に言うなよ!」と即座に突込みがあった。詩織に正論を言われるとなぜだか悔しい。
 しかし、ここにいては何も変わらないこともそれまた正論なわけで。ならば聞くしかないだろうと双樹は思い切って立ち上がる。心に決めた。さぁ今から行くぞと。
 まずは最初に、ウブンイエウンの前で仲良くから揚げスティックを食べている女性三人組に話しかけることにした。


 事務所に戻ると二人はソファに飛び込んだ。ぐてーっと死人のように横になる。
「おいおい、どうした。死にそうじゃねーかよ。ほら、コーヒーだ」
 勝が二人を見ると、気を利かせてくれてコーヒーを持ってきてくれた。大きめの氷が二つ入っているカフェオレだ。疲れた体にはちょうどいい飲み物だろう。
「ありがと、勝っち~」
「ありがとうございます」
 ストローに口をつけて、ゆっくりと体の中に染み込ませていく。疲れた体に勝のいれてくれたコーヒー、なんと贅沢なチョイスだろうと双樹は悦に浸っていた。
「詩織は、勝っち言うな。俺は副所長サマなんだぞ」
「はぁ、でって言う?」
「お前、この野郎っ」
 横ではいつものやりとりが展開されていた。詩織はイマイチ、目上に対する態度がなっていない。勝に「勝っち」と言っては怒られているのをよく目にした。それでも本気では怒っていない。詩織には、どこかそういう愛嬌があって、マスコット的な可愛さを持っていた。それは詩織にとってすごいステータスであるだろうし、双樹もうらやましいと思う一面でもある。
 普段から女の子をできていないな、という自負はあるのだ。もっと可愛く対応できたら、もっと女の子らしくなれたらと何度も思ったものだった。比較的無愛想、理論的思考で疎まれるキャラクターだと思っていた。容姿だって詩織のほうが可愛いと思われるような顔立ちだろう。
 カラン、とコップの中の氷が崩れたところで、少しネガティブになっていた頭を現実にもどして、事件のことを考えることにした。グダグダしていても仕方がない。
「さて、詩織、考えるわよ。今日の収穫をまとめてね」
「やめてよ、勝っちぃ……はいはいはひ、副所長様~……う? 分かったわ~」
 はいはい、終りね! と勝を追い返して詩織も起きた。二人はホワイトボードのとこまで移動すると、写真やらプリントアウトやらをした資料をマグネットでとめていった。
 ネットなどで氾濫している情報、雑誌などには載っていないか、そして今日聞き込みをしてきた結果など書き出して、貼っていく。一通り並べると二人でそれを睨む作業が始まった。
 双樹は共通点がこの中に隠されていないかというのを探してみる。なるほど、量が多いせいか見ているだけで目がくらくらしそうだった。それでも頑張ってみてみるとアウトラインは分かってきているような気がするのだ。
 それは範囲のこと。雑誌などには事件のことはあるものの、神隠しとしての噂などには触れられていないものが多いように見受けられる。たまにゴシップ系では取り上げられているが、その内容は飛躍しすぎていて、信じるには値しない。某大型掲示板には地域色のある話題として取り上げられているものはある。そしてやはり、噂を聞いたなという人たちに共通するのが、噂の発信源というやつだ。
 地図と照合しながら見てみるとよく分かる。主な発信源をまとめると、市内を出ない。そして凧旗不動や窯センターや啓関蔵ヶ丘などを区切りにして円ができている。たまに地方などにも噂が存在するが、これは在校生が広めたものとして仮定すると変ではない。仮にその駅などを中心にした場合、中心となるのが、
「やっぱり……T京大学か」
「ふえ? 何か分かったの?」
 資料を読み比べていた詩織が顔を上げた。双樹は自分が考えていることを告げる。すると、
「ふむ、じゃあ、そこが怪しいのねぇ」
 と身を乗り出して、地図を凝視する。
「なんだ、何か分かったのか」
 勝が来て、勝にも双樹は考えを告げる。勝は腕を組んで考えていた。
「そうか。まぁそれも一つの道だろう。確かに証拠とか根拠って大事だぜ? でもな、それ以上におかしい、っていう疑問が必要なもんでさ。自分に従ってみるのもいいんじゃねーかな」
 にしし、といつもの人懐っこそうな笑い方をされると安心する。自分の考えや疑問に自信が持てないでいたが、少しは信じてもいいんじゃないかと思うようになった。
「そう、ですね。やってみます」
 勝が笑うと自然と笑顔になれる。最近わかったことだ。双樹は気を取り直して地図をみる。証拠としては相当根拠がない。事実無根といわれてしまえばそれでおしまいだ。資料を見たり、その直感で怪しいと思ったらこのエリアができた。これが無駄でないと信じたい。
「よし、やっぱりここを調査してみよう。分かった? 詩織」
「うい。分かったわ。そうしましょう。早く終わらせてすっきりしたいもんね~」
 ――願わくば事件が早期解決しますように。簡単に事実にありつければいいが、それがどうなるかは、神のみぞ知る、ということだろうか。
 双樹は自分が一瞬でもそう思ったことで自嘲の笑みを浮かべる。神様に頼るなど、最大限の皮肉である。今は手元にはない神滅宝珠が不満にうなっているように感じた。
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『縁堂へようこそ~真子の章~』




「ふむ、それで以上なのかい?」
「そうです」
 近衛双樹はいつものように無表情に事務所の所長に依頼の報告をしていた。所長の名は松波千秋という。しかし、特に事務所内、仕事の途中では「所長」または、別名である鈴蘭という名前で呼ばないと怒られる。鈴蘭は双樹にとって、力で対抗できない人物であり、この二人の関係を保っているのはある意味、力の主従関係というところだろう。
 事務所の中は静まりかえっていた。詩織はソファでファッション雑誌とスーパーの広告を交互に睨んでいる。副所長の有塚勝は双樹と鈴蘭の話を耳で聞きながら書類仕事をしているところだった。
「ふむ。分かったよ。そいつは本体ではなかった、というところがやや気がかりだが、依頼の方は片付いたわけだ。あれ以来、あそこでは変なことは起こっていないってさ。工事は順調に進めることができるらしい。ありがとうよ」
「いえ」
 鈴蘭がニカッと笑って手元にあるコーヒーをすすった。そして、噴きそうになる。
「なんだ、これは……あっま。おい勝、お前私の好みとか未だに理解してないわけ?」
 勝が話を振られて顔を上げる。
「え、すまん! ぼうっとしてたみたいだなぁ、俺のと間違えてる」
「だろうな! 勝が甘いのが好きなのはよく知っているさ」
 鈴蘭が怒鳴ると勝は悪い悪いといいながらコーヒーを入れなおしに給湯室に急ぐ。いなくなったのを見て椅子に座るとため息をついた。
「あいつはいつになったら覚えるんだよ、まったく」
 で、と。
「調査の必要はあると思うかい?」
 と双樹に質問を投げかける。
 ずっと気になっていた。あの事件は中途半端すぎたからだ。しこりが残るような気持ちの悪い感触がいつまでも胸の奥に巣くっているのを気に病んでいた。
「はい、このままでは気持ち悪いし、それに、嫌な予感もしますから」
「そうか、確かにね。予感というやつは大事な要素だ」
 動機としては少し不純かもしれないが、もちろん、双樹としてもこれ以上に被害を増やさないためにという信念もあった。あの事件は絶対にこれから何かが起こるという前兆に思えてならなかったからだ。
「あいつらが分身を使うほど戦い方が変わっているのは意外だった。少しはこの世界における効率の良い戦い方っていうのを学んだのかもしれない。
そして、この世界におけるっていう定義の基にだが、本体を倒さない限り事件は終わるというわけにもいかんだろうしなぁ。
 まぁしかし、だ。事件が悪化すれば、警察だって私たちに調査を依頼せざるを得ない状況になる。聞くところによると、確実にあいつらがかかわっているからな」
「挟間の世界、ですか」
「ああ。ていうことはだよ。間違いなく、私たち縁堂の出番ということさ。ここの事務所の管轄かは場所によるが、東京だったらまずここに回ってくる」
「それまでは静観ということなのでしょうか」
「調査をちまちまやるくらいならそれでも良いと思う。しかしね、表立った行動は今は慎んでもらいたい。私にも立場ってもんがある」
「了解しました」
 双樹はお辞儀をすると、鈴蘭の前を後にする。
「あ、ちょっと待ってくれ」
 行こうとする双樹を鈴蘭が呼びとめた。振り向くと、神妙な顔つきで双樹を見ている鈴蘭の顔が目に入る。
「お前の性格は知っているつもりだ。だから、忠告しておく。もしも相手の本元をみつけても、勝手に行動するな。私を呼べ。いいな?」
 察しがいいなと双樹は思った。双樹の性格が少々こういう調査には不向きかもしれないことを鈴蘭はよく分かっている。さすが上司だ。双樹はもう一回お辞儀をすると、雑誌を読んでいる詩織の元へと行き、上から見下すように詩織を見た。
「学校行くわよ。今からなら二時間目には間に合うわ」
 実は今日はこの報告をしに事務所に寄らなければならなかったために、高校を遅刻することは決まっていたことなのだ。今から走れば何とか二時間目には間に合う。しかし、双樹の言葉に詩織は雑誌を落とす。
「は、はぁ? 今日はサボるんじゃないわけ?」
 何を言っているんだろうか、この生物は。
 信じられないものを見るような目で詩織は双樹を見つめるが、それは双樹がやりたいことだった。もう面倒なので、強引に脇をつかむと、そのまま引きずっていくことにした。
「ちょ、やめてよ! サボるつもりで来たのに! 昼のタイムサービス行けそうなのに! 今日はお肉が安いのに!」
「そんなものは知らないわ。あなたは少し勉強して学をつけたほうが良いわよまったく」
 強制的に連れて行くと、入り口でコーヒーを持った勝に会った。
「おう、双樹、これから高校か」
「はい、行ってきます」
「行ってらっしゃい。詩織に手加減してやれよ」
「努力します」
 挨拶を済ませるとドアを開ける。今日も雨が降るらしい、だから空が不吉に黒ずんでいるのだろうか。
 ズルズルと詩織を引きずる。諦めたのか抵抗はない。いつもならもっと反抗するので不思議に思って振り向くと、面白い顔をしていた。
「ふふふ、見ちゃったわ見ちゃったのよ!」
「何が?」
「あんたって絶対に勝さんのこと好きよね~」
「はぁ!?」
 カッと頬が上気するのが分かった。詩織にいいように言われたのが悔しくて、双樹は征服を持つ手をばっと離す。瞬間に重力の力で詩織は地面に頭突きをした。
「いったぁ……なぁにすんよ!」
「うっさい」
 双樹はぷいっとそっぽを向くとズカズカ歩く。双樹の中で、有塚勝という男は確かに特別な存在だ。特殊な業界にいれば、その名を知らぬものはいないだろう、松波千秋の助手であり、事務所の副所長、仕事はできるし、生活面では少し大雑把でワイルドなところはあるが、いつも気遣いを忘れない姿勢には尊敬の念を抱いている。しかし、それを恋慕という気持ちと入れ替えてしまうのはどうだろう。あくまで双樹にとって有塚勝は尊敬すべき上司であり、恋愛の対象ではないのだ。絶対に。絶対にだ。
 閑話休題。
 詩織は起き上がると、ぶーぶー言いながら双樹についていく。高校はもう目の前にあった。


 結果的に言うと二時間目には間に合うことはできた。理由は病院にいっていたということにしておく。そして休み時間が訪れて、双樹が教室でいつものように一人で弁当を食べていた。
 詩織はいつも休み時間になるとクラスメイトの友達と場所を変えてご飯を食べている。クラスの人はほとんど友達みたいなもので、今日は弁当を作っていなかったようだから食堂にでも行っているのだろう、と思っていたときだった。
 双樹の机の上に菓子パンやらが入ったビニール袋がどんと置かれる。ふっと見上げると、友達と教室を出て行ったはずの詩織が立っていた。
「今日は食堂じゃないの?」
 不審に思った双樹は警戒をしつつ言葉をかけた。進んで詩織が双樹にコンタクトを取りたがるときというのはロクなことが起きないというのが双樹のジンクスである。詩織はアハハと笑うと肩をすくめた。
「うん、今日は菓子パンにしたの。友達と一緒じゃないのはさ、ちょっと話があって」
「話?」
「うん」
 にこやかに話していたが、途端に真面目な顔になると教室の出口を指差した。
「あの依頼に関係があるかもしれない話を仕入れたんだよ。ここじゃなんだし、屋上に行かない?」
 あの依頼、という言葉に思わずピクリと反応する。詩織は顔が広いだけあり、情報収集に関しては中々信頼しているところもあるのだ。その詩織が言うのだから、少なくとも、無碍にするわけにはいかないないだろう。
「分かったわ」
 双樹は弁当箱を包みなおすと、鞄を持って教室を後にした。


「で、話って何かしら」
 双樹はまた弁当箱を開けなおすと、食事を再開した。生憎、晴天下で青空食堂とは行かないものだった。今もなお、天気は曇りで、いつ降り出すか分からない表情をしている。
 詩織はコーヒー牛乳のパックにストローを入れて、パリッとパンを取り出すと向き直った。
「ん、あのさ、気になる噂があったんだ」
「うわさ?」
「うん。これは、私の友達の姉とか兄が聞いてる話らしいんだけど……」
 詩織は語りだす。とある、大学である噂が現在流行していると。それはニュースを最近騒がしている連続行方不明事件にも関係していることであり、その内容とは、人が突然消えて、そしてある日いきなり戻ってくるというものだった。当人には誰かに誘拐されたなどの記憶はないことから事件性は認められず、地元では“神隠し”と呼ばれ恐れられているということだった。
「神隠し、ね」
 食事の手を止めると考える。詩織の言葉を信じるとして、奇妙な点があった。それは、その噂を聞いているのは、全部年上だということだ。大学生で特に性別などは関係ない。しかし、聞いてみると、その噂を話してくれたという生徒が在学している学校がすべて同じということだった。
 そのことを話してみると、いまさら気づいたらしい。すごい発見をしたみたいな表情で双樹を見てきた。
「すごいじゃない! さっすが双樹っ」
「なぜ聞いているときに気づかなかったのか、逆に気になるわよ……。ほかに、その近辺の学校に在学している人の関係者には話は聞けた?」
「聞けたよ。でもね、変なの。その大学でしか流行はしてないみたい」
 いわゆる都市伝説か何かの一種なのかもしれない。どこの学校にも一つは怪談話などが存在する。何かの事件をきっかけに広まった風説なのかもしれない。どちらにせよ、興味はある。
 そして、双樹にとってもいまさらなことを思い出す。
「そういえば、よく、私が調査すること知ってたわね。あなたにはあとで言おうと思ってたのに」
「ふざけないでよ! 私だって聞いてたわ。それとも何? 私が雑誌読みながらチラシ見てサボってたとでもいいたいのっ」
「分かってるじゃないの」
「きぃぃぃぃ」
 双樹が外国人張りに肩をすくめると悔しそうに地団駄を踏んだ。双樹は自分で話の流れを外しながら、既に詩織の態度が面倒になっていたので、軌道修正をすることにした。
「まぁそれは置いておくとして」
「置いちゃうのかい!」
 すかさず飛ぶ突っ込みはスルー。
「調査をするとしたら、まずはそこね」
「スルーなの……ちぇ。そうね、そうなるわ」
 捻くれている詩織は面倒くさい。パンを二個開けると同時に頬張っていた。メンチカツが半分くらい無茶な食べ方のせいでずり落ちた。「ああああああ」と悲惨な声を上げているが、至ってクールに双樹は食事を続ける。
 血も涙もないとか詩織はほざいているが、きちんと考えられる頭があるので、特に気にすることもないと思い、無視することにする。
 土地と関係しているのか、それともただの偶然か。もしかしたら案外、早いことこの事件は解決へ向かっているのかもしれなかった。予定としては、この後授業が終わり次第、現場へと向かうことになる。情報収集の手段としてはネット、過去の新聞、新しい新聞、雑誌や雑誌のバッグナンバー、そして聞き込みなどをすることにした。なんとかして、大学内部にも潜入できたらさらにうれしい。
 そろそろ弁当の中身も尽きたころ、双樹の頬が一瞬濡れたような感触があった。触ると、微かに湿っている。詩織にストローでコーヒー牛乳でもかけられたという可能性を一瞬考えつつも、べとべとしていないし無臭であることから除外。上を見た。
「降るわね」
 空は既に臨界点に達しているようだった。暗い雨雲は微かに黒かった色をさらに濃いものとしている。もう水も溜め込むのが限界と見た。直に本降りになる。
 双樹はいち早く弁当を仕舞い、戻る準備をした。双樹が立ち上がるのを見て、急いで詩織が戻る準備をしている。双樹がドアにたどり着き、校舎内に入ったときだった。
 ザーと比較的に大きな音が聞こえ始めた。見ると、たちまち大降りの雨が降っている。詩織が雨に濡れながら嫌ぁとうなっているのが聞こえた。これはいつもどおりに放っておくことにした。
 さて、あとは午後の授業をこなし下校時間になる。調査に行く前に、勝には連絡しておいたほうが良いだろうかと携帯を取り出そうとした。しかし、ポケットに携帯が見当たらない。少し焦って他も探すが、どうやらない。家からは確かに持っていったので、事務所に忘れてきたらしい。まぁそれは後でもいいかと思い、とりあえず、今日は学校が終わったら色々行動を始ようと思った。


‡‡‡


 降っては止んだり、降っては止んだりと本日天気はご機嫌が斜めなようだった。
 なんだか、変な天気だと思う。
 今日こそはきちんと傘を装備していた真子は思った。現在、大学内の九号館にいる。奨学金のことで見ておかないといけないことがあったので、それについて手続きを確認しておくためである。今回は特に書かれていないらしい。
 以前、真子の友達がついうっかり忘れてしまっていたらしく、窓口の職員に「君は自覚が足りない」とどやされていたそうだ。あの眼鏡野郎覚えておけよ、と不吉に笑っていたのを思い出した。
 いつもは菜柚も琴奈も隣にいるはずなのだが、今日はそういう日じゃない。サークルの日なのである。ということは、同じ美術部である、二人も一緒なのではないかという疑問に突き当たるかもしれないが、真子は違うサークルを掛け持ちしているから、それには二人が関与していないというただそれだけの理由だ。
 オカルト研究会、それが真子の所属しているサークルの名前である。活動内容は至って簡単、日々怪奇を追いかけ、追求する! とは名ばかりのオカルト好きが集まって、駄弁っているだけのサークルだった。内容自体に意味は見出せないけれど、それによって、怪談友達ができるのは真子にとって幸せなことだ。
 オカルト研究会、略してオカケンに行けば、きっと真子がノートを貸した人物にも会えるはずだと意気込んでいく。時間になったので、ウブンイエウンにてから揚げスティックと飲み物を買って活動教室へと急いだ。ちなみに愛好会のオカケンは部室などはなく、十号館の一室を借りて活動をしている。
 がらりと、活動人数よりは大げさに思えるほど大きな教室へと足を踏み入れると、そこにはいつものメンバーがいた。しかし、少しだけ様子がおかしい。
 メンバーは気づいて真子に手を振った。
「あ、真子」
「おーう」
 真子が席に着くと、会長が真子の前に来る。
「あのさ、来てもらったばかりで悪いんだけど……」
 嫌な予感がした。こういうときの予感というのは大抵あたる。真子のジンクスだ。
「今日は活動中止ね。私、急いでいかないといけないところがあってさ」
「はぁ」
 会長は四年生でなぜかまだ会長をやっている人物だった。おまけにまだ就職先は決まっていないのだという。おそらくだが、今日も早く家に帰ってエントリーシートでも書かないといけないんだろう。
「また今日もエントリーシートですか」
 呟いてみると、会長はアハハと笑って舌を出す。アハハじゃねーと思いながら、人懐っこい顔をする会長をなぜだか恨めないし怒れない。悲しい性だと思う。
「そうなの。みんなにはいてもらってもいいわよって言ったんだけどね」
「私たちはもう、天気悪いし帰ろうかって話しになったのよ」
 会長の言葉をメンバーが引き継いだ。ならば仕方ないだろうと真子は降参のポーズをとる。
「そうっすね、それなら仕方がない。帰るよ私も」
 席を立つ。そして教室を後にした。オカケンのメンバーたちは、一階までエレベーターで下ると、十号館の入り口で分かれることになった。なんとなしにまだバスの時間には余裕があるし、帰る気分ではなかった真子は構内をぶらつくことにした。
 今にも降りそうな雨空の下を歩く。湿った空気が肌にまとわりついて、そろそろ梅雨が来るのだと理解させた。梅雨がくれば夏が来る。今年の夏はどれほど暑いのだろう。もしかしたら、去年よりも暑いのだろうか。さすがに、九月の後半までもつれ込む暑さだけは勘弁してほしいところだ。
 ぼうっと歩く。十号館を過ぎ、十一号館を過ぎる。六号館を過ぎて、十二号館のあたりまで来る。ATMが二箇所にあり、このあたりは暗くなって、人通りがないとさびしいところだ。なんとなしに嫌なイメージを彷彿とさせる風景は真子に嫌悪感を抱かせた。
 そのまま進み、窯センターあたりが一望できる二号館の横まで来る。生暖かい風が頬を撫でて、その中でただじっと遠くを見る作業。案外飽きないものだった。このまま歩いていくのも良いかもしれない。今日はなんだか、すぐには帰りたくない気分なのだ。歩いて駅まで行くのも少しはいいかも、と思った。
「ねぇ」
 そのときだった。いきなり後ろで声がかかる。考え事にトリップしていた真子はしこたま驚いて、ギリギリと鈍い音でも出そうなスローモーションで後ろを向く。そこには見慣れた人がいた。いつの間にかたっていた。
「あれ、松本さん……」
 松本杏子。真子がノートを貸した人物、オカケンで真子との会話が二番目くらいに多い人だった。
 その姿はなんだか奇妙に思える。軽く外を出歩くには少しばかり薄着過ぎる気がしたのだ。なんと言うか、季節を先取りしすぎというか。杏子の格好とは白を基調としたシンプルなワンピース一枚。しかし、腕にマロン色のカーディガンが掛けられていることから、案外あれでバランスが取れているのかもしれないと思う。
 杏子はニコリと笑うと。二号館横のベンチを指差した。
「あそこに座らない?」


 とても変な時間が流れる。動くこともない、動こうともしない。ビンの底に溜ってしまったかのような、そんな時間の流れ方。何を話すでもなく、時折風が髪を揺らすくらい。それよりも真子は気になったのは、午前中、午後と雨が降っていたために中途半端にベンチが濡れていたことだ。杏子は冷たくないのだろうか。
 そういえばまだ食べていないことを思い出して、杏子がどこを見ているのか分からないのを横目に、からあげスティックをフモフモと無言で食べ始める。
「最近、雨が多いわね」
 杏子がつぶやく。確かにそうね、と真子は同意した。
「もう、梅雨が来ているんっすよ」
「確かにね」
 フフフと杏子は笑って、続けた。
「雨の日は嫌いよ、特に、自分という存在が薄く感じられてしまうから」
「薄く? 難しいこと言うね」
 その真意が分からずに、真子は首をかしげた。存在が薄くなる、という言葉の中に何が隠されているのかイマイチ理解できない。もしかしたら、隠されてなどいないのかもしれないけど。
 真子にとって、雨とは特に嫌うような対象にはなっていなかった。確かに、雨は濡れてしまうから嫌だと思う。晴れたとしてもベンチを濡らして人を困らせる。結構性質の悪いやつだとは思っている。でも、バスの中から見る雨や、窓越しに見る温度差で曇ったガラスの向こう側の世界は幻想的で好きだったりする。特に窓ガラスに額を押し付けて、薄く目を閉じながらその世界を見る。耳にはイヤホンがしてあって、ノア・ジョーンズの曲が流れているのだ。そういう楽しみ方が真子には一番お気に入りだった。
「難しいかな、ただそのとおりに言ったんだけどね」
 儚げに杏子は笑う。
「ちょっと聞いてくれる?」
 杏子はそう続けた。思わず、その笑顔に引き込まれる。それほど、杏子の笑顔は儚くて、抱きしめて、大丈夫だよ、と言いたくなるくらい弱弱しい背中だった。でも、今はそのときではないのだろう。聞いてくれといわれたならば、聞いているのが流儀なのかもしれない。真子は頷き、その先を促す。ありがとうというと、杏子はしゃべり始めた。
「最近ね、生きるってなんだろうって真剣に考えているの」
「生きる?」いきなり、重いワードが出てきて、少しばかり腰が引ける真子である。
「そう、生きる、よ。いきなりこんな話、馬鹿みたいだと思うかもしれない。でも、誰かに聞いてほしくて」
 それでね、と。
「今までは曖昧だった。言っちゃ悪いけど、こんな大学、狙ってたわけでもないし。それにね、私が夢を見つけるまでの、仮の止まり木、それが私が大学という場所に入った理由。
 ぼんやりと先が見えない道を進んでいくのよ。それは霧かもしれないし、陽炎かもしれない。私は未来というものが見えなかった。だから、夢をもって、帰り道のない専門大学や専門に行く人が眩しかったわ。私は何をやっているんだろうってね。
 だから、私は興味のあることに没頭したかったのかもしれない。それが怪談とか噂話って少しあれな気がするけどさ。楽しかった。でも、まだ曖昧だった。
 最近ね、やっと、そのモヤが晴れた気がするのよ。生きるってどういうことなのか。死ぬってどういうことなのか。その代わり、理解したときってもう、手遅れの場合が多いのよ。私のモヤが晴れた先には落とし穴しかなかった」
 真子には意味が分からなかった。どういう意味なんだろう。生きるって? 死ぬって? 何をどう理解したんだろう。話の内容が突飛過ぎて、今にも笑い飛ばしてしまいそうなのに。でも、杏子の表情を見ていると、それができない。苦しそうで、悲しそうで、何にそんなに悲しんでいると思うような、そんな表情。
「私さ、恐いんだ。体が震えるんだ。もう嫌なんだ。どうして私はこんなことになってしまったんだろう。分からないよ。ねぇ、真子……」
 困惑するように真子は杏子を見る。杏子はポロポロと涙を流しながら真子に助けを持て馬手来る。縋る様に、真子の手を握り、懇願してくる。
「自分が分からない。モヤは晴れたはずなのに、自分がわからない。特に、雨の日にそれは強く思うの」
「それが、雨の嫌いな理由?」
 思わずそれを聞いていた。杏子は一回だけ驚いたように目を見開いて、頷いた。
 まったく状況は飲み込めていない。これは小説なんかで言う、超展開というものなのだろう。でも、真子の膝で静かに泣く杏子をそっと撫でる。
「ありがとう、真子は優しいんだね。こんな意味不明な言動、普通の人なら頭がおかしいって放り出すわ」
 杏子は自嘲気味に笑う。そんな杏子を真子は笑えない。目の前に悲しそうにしている人がいる。絶望のどん底で一本の糸を待っているような目をしている人がいる。誰が笑えるだろう。誰が嘲ることができるだろうか。
「やさしくなんかないっす。ただ、悲しそうだから。私も悲しいときは寄り添ってほしいと思うから。だから松下さんに寄り添うの」
「それをやさしいっていうんだよ」
 涙を人差し指で拭いながら、杏子は笑う。そっと、真子から離れた。よろよろと立ち上がると、杏子は言った。
「ありがとう。もうちょっとだけがんばれるかもしれない。ありがとう」
 そして歩き出した。真子はベンチに座ってそれを見送る。なぜだか腰が上がらなかったのだ。杏子は手を振りながら去っていく。最後に口で文字をなぞって、そして、闇夜へと消えていってしまった。
 ――バイバイ。
 真子にはそう見えてならなかった。長い別れのような挨拶だった。もう会えないかもしれないと思った。杏子の姿が完璧に見えなくなると、フッと体の力が抜ける。やっと立ち上がると、頭を抱える。
 まるで夢のような時間だった。白昼夢ではないけれど、起きていながら夢を見ているような感覚だ。ふわふわと精神だけ浮かび上がるような感覚だった。あれはなんだったんだろうと思うけれど、その真相は何一つ分からなかった。
 ポツリ。
 呆然と立ち尽くしていると、頬を何かが濡らす。指で触れるとそれは水滴で。見上げれば、段々と雨粒が落ちてくるのが分かった。また降り始めたのだ。
「あああああああ、もうっ」
 ダンダンと地団駄を踏んで傘を差す。まるで意味の分からないというのはなんとも居心地の悪いものだと思う。もう嫌だった。さっさと帰ることにする。
 先ほどは歩いて帰ろうかとも思ったものの、雨が降り始めたのなら話は別だ。生憎、大学から出るバスはとうに、最終バスを過ぎている。馬草団地まで歩いていくしかないだろう。
 居心地が悪いと思いながら道を歩く。
「そういえば、ノーと返してもらってないじゃん」
 更に嫌なことを思い出してしまった。
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2

『縁堂へようこそ~真子の章~』


***


 雨が冷たいのだと。少女は思った。雨雲のせいでいつもよりも暗いと感じる道路を一人で歩く。学校では授業が終わっている時間ゆえにサークルなどから帰る人しか見当たらなかった。そういう人たちにとって、傘も差さずにぼうっと歩いている少女はさぞ奇妙に映ることだろう。
 何を考えて歩いているのかと聞かれればそれには答えかねるというのが実際の感情だ。少女はいつの間にかこうなってしまった。
 自分でも考えがつかなかった。何やら数日の間家出をしていたらしい。それとも拉致監禁か。つい先日、目を覚まして、そこは病院だった。親や警察が連日のように押し寄せ、何があったか聞いてきた。もちろん、少女は答える術を知らない。それは単に少女がずっと眠っていて、何も知らないからだということだ。
 とても暗いところにいた気がする。ぷかぷかと浮かんでいるような、そんな浮遊感を感じながらいつまでも目を閉じていた気がした。別に眠かったわけでもないのに、目が開けられなくて、でも何も考えることもできなくて、数秒だけ目を閉じて開けるだけ。そんな気持ちで目を開けたら病院だったのだ。
 すぐに退院をすることはできた。体には外傷はなくて、特に問題はないとされたからだ。精神面ではどうかということになり、それは一時的な記憶の混濁ということで片付けられる。少女は以前、自転車で交通事故に遭ったことがあり、強い衝撃を受けたせいかその当時の記憶がすっぽりと抜けてしまっているという経験をしたことがあったのだ。それも手伝ってか、両親は特に疑うこともなく、もしも、何か変化があったときには病院に駆けつけるということにして、家に帰ることになった。それから日が経ち今に至る。
 少女は外傷こそないものの、意味もなく、こうやって夜に徘徊を続けている。もう少ししたら学校にも行けるらしい。だからだろうか、今日は行き先が学校になっていたのは。
 こういうときに、簡単に家を出てしまって、両親が心配するかも知れないという危惧はあったが、最近は連日の徹夜で、基本的には子供に無関心なことを知っているのでそこまで心配することもないだろう。病院を退院した理由が、金銭面であるということも当に少女は理解している。
 やがて、目の前に見知っている人間を見た。相手は驚きに目を見開き、少女に駆け寄る。
「ちょっと、大丈夫なの!?」
 友達だった。しばらくの間、黙って、目の前から消えていたことに少し罪悪感を抱く。
「うん、ごめんね。学校いけてなくてさ」
「別にそんなことは大丈夫。何か理由があったんでしょう? それよりも、傘も差さないでさ、こんなところにいるなんて……」
「あ、傘忘れちゃって。体が冷えるわ。雨って冷たいよね」
「何言ってるのよ、当たり前じゃない。ほら、とりあえず、私の傘の中に入って」
 少女の友達は本当にいい人間みたいだった。友達はしばらく、少女を抱えてあたりを見渡す。そして、すぐ近くにある学校を見つめた。
「部室に行こうか。私のサークル、部室あるから。そこで体を乾かそう」
「悪いよ、すぐに帰れるから」
「心配で見てられないって。ほら、久しぶりに話したいし。あったかいコーヒーも入れられるしね」
 にこりと笑った。あまりの人の良さに、少女は思わず泣きそうになってしまう。ああ、人間って温かい。人のぬくもりとは、何物にも変えがたい、素晴らしいものだと少女は気づいた。
「うん、そうする」
 二人はサークル棟に歩を進めた。
 部室は暖かかった。内装は質素で、ロッカーと、長机、椅子に本棚、そしてポットとカップ類。本当はだめなのだろうが、吸う人がいるのだろう、吸殻入れも机の上においてあった。少女はタオルを貸してもらって、椅子に腰を下ろした。
 目の前に湯気が上がるコーヒーが置かれる。手に取ると、少し熱いくらいだった。でも、雨に濡れた体にはこれぐらいがちょうどいい。一口すすると、内臓に暖かさがしみていくようだった。
「おいし」
 少女は笑う。いつ振りだろう。そんなに長く学校に来ていなかったわけでもないのに、久しく笑っていない気がした。友達も「よかった」とやさしく笑った。
 それからしばらくは、昔の話や友達の近況などで盛り上がる。本当に楽しい時間。本当に安らげる時間。少女にはこういう時間こそ必要だったのだと心から思う。友達は言った。
「ああ、笑ったよ。やっぱりあんたがいるのといないのと全然違う。噂話も聞けないしさ」
「うわさ、ばなし?」
「そうよぉ、あんたといえば、都市伝説やら噂話やらそういうのが専門じゃないの~」
 少女には疑問符が浮かぶ。私は、そういう類の話が好きだったらしいということを覚えていなかった。そして、その単語を聞いて、胸の奥で疼く何かを感じた。これが、好きと言うことなのだろうか。違うのだろうか。
「そうなんだ、そうだなぁ」
 ドクン。ドクンと心臓が高鳴る。段々と体の感覚が侵されていくのを感じた。これがいかなる感情か、感情ですらないのかも少女には理解できない。
 口が勝手に動く。手が身振りを勝手にやって見せた。これは誰の体だろう。これは誰の脳みそなんだろう。当たり前のことが分からなくなって、少女の視界はボヤに包まれたように曖昧に思える。
「神隠しの話って知ってるかな?」
「あ、最近有名なやつね、タイムリーじゃないの」
「ふふ、あれにはね、続きがあるの。そして、現場を知っている。一緒に行ってみない?」
 馬鹿な話だ。何を言っているんだろうと混乱しながらも、その感情を表現することは叶わなかった。まるで、自分じゃないように体が、口が動いて、ヒクヒクと口元が緩みそうになるのを感じる。この体が歓喜している、というのは理解できても、それは少女ではない。
 なぜ気づいてくれないのだろう。友達は目の前で、少女ではない少女の話を無我夢中で聞いている。そして、腰を上げた。少女ではない少女が一緒に行こうと口走っていたからだ。
 外に出た。今度は傘も差している。友達が前を歩き、少女が口で道を説明して良く。しばらく歩いていくと、人気のないくらい場所に出た。さすがに緊張しているのか、友達の怖いね、という言葉を聞いた。そうだね、と少女でない少女が同意する。
「ここ、ここなんだよ」
 やがてたどり着いたそこで少女は言った。
「え、どこどこ?」
「だから、あそこを見て……」
 友達の肩越しにある一点を指差して、もう片方の手に持っていた傘を離した。そして、先ほど部室で隠し持っていた吸殻入れをおもむろに持つ。
もう駄目だと思った。少女は時折こうなる。こうなるともう止まらない。この体が止まるまでは止まらない。止まらない止まれない嫌だ私は誰……。
 トマレ。トマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレ。モウヤメテクレ。
「そうそう、あそこよあそこ」
 ヒクヒクと口元が緩む。少女でない少女がそう先導し、そして、
「……ヒトリメ」
「え?」
 呟いて、友達が振り向こうとする瞬間に、思い切り吸殻入れを振り下ろした。
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1

『縁堂へようこそ~真子の章~』


『噂~非日常こそが日常となりうるものを~』

 こんな噂がある。二十号館の怪。今は使われていない校舎が大学内には存在して、それがどうして使われていないのかというお話だった。そこでは、昔殺人事件があって、それで不慮の死を遂げた女性の霊が夜な夜な徘徊しているという、よくありそうな怪談話だった。
 葛城真子はその話をいつもの伝手で入手し、ある日、夏の夜に美術部の居残りでそれを体験した。もう死にそうなほど怖い思いをして、しかし、やめられずに真子は今日も怖い話を収集し続ける。なぜ集めるのかと聞かれても、理論的な返しはできないだろう。真子にしてみれば、そういうときに感じるゾクゾク感やスリルを楽しむためのだから。
 そんな真子は飯時が少し過ぎたあたりで学校に到着した。今日は三時間目からの授業ゆえである。目的の教室に着くと、いつも座っているあたりに腰を下ろした。教室内には飲食禁止の張り紙がしてあるにもかかわらず、大勢の人が食事をしている。もう授業が始まる時間だけれど、この授業の先生は十分は必ず遅刻してくるので問題はないのだろう。
 ぐてーっと腕を枕にしてぼうっとしていると、すぐ隣に空けておいた二つ分の席に人が座る音がする。気だるそうにそっちを見ると、そこにはいつもの二人がいた。
「うむ、重役出勤ね、真子」
「うらやましいなぁ真子ちゃんはぁ」
 小学校からの親友で、津島琴奈と小川菜柚である。二人はこの曜日、真子とは違い二時間目から授業がある。故にとりあえず、席取りできたらしておくというのが専ら真子の仕事だったりするのである。
「おはよっす」
 真子は眠い目を擦りながら挨拶した。実は昨日、ホラービデオの会を一人でオールナイトしていたのだ。はっきり言って、心霊写真のやつなんかはどこが修整でどこが本物などわかってしまうから怖さは半減する。そういう時はB級ホラーなどを見て至高の時間とするのが真子流なのだ。
「またホラービデオかよ」
「うむ。そうなのですぅ。ねみぃっす」
 ほぼ話を聞き流している状態でいると、今日もやはり十分遅刻して入ってきた先生が教壇にたった。そこでやっと頭が働く気になったらしく、そういえば忘れていた生徒証のIDを読み込ませる作業に向かった。もう遅刻扱いだが気にしない。何回か近くのT央大学にこの時間を使ってサボりランチしていたために何回目かの授業からかそういうのはカウントしなくなった。
 席に戻る。とっくに勉強道具一式を机の上に出して聴く体勢になっている二人を見習って、真子も準備をすることにした。リュックサックの中に手を突っ込んでまとめて手に取ると、その中からノートを探し当てる作業に移った。
 しかしおかしいことにいくら探しても見つかる気配がない。さすがに焦った真子はさらに詳しく中身を探ることにした。
「……ないんだけど」
 ぼそりと現状報告してみた。後ろに座っている女子グループがなぜだか真子を見た。続いて琴菜が反応して聞いてくる。
「ないって何が」
「この講義のノートよ。せっかく上手く描けた落書きがあったのに。まじでありえないわ」
「本当にないの? 挟まってたりとかするんじゃないの?」
「ないのよ。探したからこういう結論に達したわけっす」
 はぁと少し大げさにため息をついた。実際、この前に描けた落書きはとても出来がよかったのだ。だから、今度構内にあるウブンイエウンのスキャナでスキャンしようと思っていたのに。見事に真子の計画が崩れていく。
 落ち込んで、授業を聴く気になれなくなった。それとなく口にするとすかさずいつものことじゃないのと突っ込まれた。少しだけウルッときた。
 すると菜柚が真子の肩をトントンと叩く。菜柚を見るといつものほんわかしたようなゆるい笑顔がそこにあった。
「私ねぇ、そういえば思い出しの。真子ちゃん、この前、同じサークルの人だとかいう人に貸してたじゃない」
「あ、そういえば」
 先々週に同じ授業をとっているサークルの人間に渡した覚えがあった。最近サークルに顔を出していないし、先週はサボってT央大学のランチを食べに行っていたから思い出せなかったのだ。
「……貸したままよ。はぁ、面倒だわ」
 顔を上げてざっと見渡すと、そこに貸した友達はいないと判断する。その日はその講義の板書はあきらめることにした。後で見せてといったら肉まん一個といわれて喧嘩になった。
 時間は過ぎて、やがて帰る時間になる。登校の時間こそ違うが、この曜日は終わる時間帯は同じなのだ。講義を終えるとウブンイエウンの前で待ち合わせをする。ウブンイエウンの前まで列が伸びているのを確認してから、店内に入り、チーズ揚げちゃいました、とから揚げスティックを購入し、その長い列に加わる。バス停に一番近い十五号館が気のせいかやけに遠くに感じた。
 真子がチーズ揚げちゃいましたを食べていると、後ろでお茶をグビグビしていた琴奈が真子の手元をジーっとみていた。
「あんたが食べてるの見てるといつも思うけどさ、そのお菓子って本当にチーズ揚げてるお菓子なの?」
「んなわけないじゃん。チーズ風味のお菓子ってだけだよ~。百円コーナーに売ってるし、おいしいから好きなんだよね~」
 もふもふと真子は幸せな時間を過ごしていた。このお菓子は名前でよく間違われるが、スナック菓子のチーズ味のようなもの。ポテトチップスにチーズ味の粉末がかかっているようなもんだと思ってもらえればいい。名前も名前でお茶目な感じが真子には好感が持てた。
「おいしぃですものねぇ」
 菜柚もこのお菓子は好きだ。同志には分け与える真子だから、菜柚にも「ねー」といいながら奮発して三枚渡した。チーズ揚げちゃいましたを食べ終えて、から揚げスティックを食べているころにようやくバスが見える位置まで列が進む。
 待っているだけで講義を受けているような気分になるくらいに面倒である。
 それから三本ほど後にようやく座れるくらいの位置で列がとまった。これなら次に来るバスでは確実に座れるはずだ。立たないといけない位置じゃなくてよかったよとニコニコしていると、列の後方から日焼けサロンで焼いたようなこげ茶の肌の色をした女が歩きずらそうなヒールを履いて走ってくる。そのまま、凧旗不動行きのバス停を越えて、窯センターや啓関蔵ヶ丘行きのバス停に行くのかと思われたが、なぜだか先頭あたりで止まる。そこには同じく焦げ茶色の肌をした男がいた。
「あーねぇねぇ、お願いなんだけど、私のこと列に入れてくれない?」
 うむ、そこはもう断るところだよな、と思いながらその光景を見ていた。後ろを見れば分かるとおり、今の時間帯は忙しいし、人の数が半端ないのだ。
「えーいいぜー」
 しかし、常識とは常にあらゆる人間に用いられるものならば、トラブルなど起きないのだろう。これも同様で、なんと、そいつは列に入れてしまった。しかも非常識は続く。
「ありがとー、みんなぁ、いいってー」
 さすがに噴きそうになった。ほかの二人も同じらしい。
「はぁ!? 一人じゃないの?」
 そうだ、そこで疑問に思え、後ろに返せと真子は競馬で券を片手に馬を応援する気持ちでその会話を聞いていた。
「うん。いーち、にーい、さーん、しー、ごー、ろく。六人いるー」
「マジかよー。いいぜ、入れよー」
 思わずから揚げスティックを落としそうになってしまった。あれが同じ人間なのかと思うと、背筋が凍る勢いだった。
「なんだよ。ありえねぇ」
 静観主義の琴奈もさすがに顔を引くつかせていた。
「さすがだよね、この学校」
「でも、真子ちゃんも同じ学校だよぅ」
「ぐはあああ、あんなな脳細胞まで腐ってるようなリア充もどきと一緒にしないで頂戴! あいつらみたいに頭は沸いてないわっ」
「おいおい、聞こえてるぞ……」
「はう!?」
 思わず不本意な言葉を言われたために、前を見てみると、さっきのこげ茶集団。名前は知らないので、クリーチャー集団と便宜上名づけることにして、が真子の方を見ている気がした。口を押さえてから菜柚の方に向き直る。数十秒ほど息を止めてから手を離した。今頃押さえても意味がないことに気づいたのだ。
「はう……危なかったっす」
「いやいや、あれはかなりの確立でアウトだろ。まぁしかし、あいつらみたいなのはさっさと最近よく聞く神隠しにでもあっちまえばいいんだよなぁ」
「そうねぇ、もう二度と帰ってこないで欲しいわぁ」
 菜柚と琴奈は地味にひどいことを言いながら頷きあっていた。頭が沸いているとか大声で言っておきながら、この二人は人間として危ないわとか思っていた真子には一つの疑問符が浮かび上がる。
「ねえねえ、神隠しってなによ」
「あん? 神隠しって言えばあれだよ。昔からからな……」
「違う。私が聞きたいのは、よく聞く、の方っ」
「ああ、あれか。あれはな」
 琴奈が説明を始めようとしたそのときだった。真子たちが乗るはずのバスが到着した。先ほどの集団のせいで座れなくなり、ついでに人が混みこみなので、琴奈から続きを聞くことは、バスの中では到底無理そうな話だった。
 間もなく凧旗不動にバスが到着し、バスを降りる。すると、頬に冷たいものが落ちてきた。もう時期梅雨が来る。その前祝でも雨雲がしたいのだろう。最初は小粒の雨が見る見る大きくなり、土砂降りになっていた。
 真子はバスターミナルから空を見上げて、呆然となる。鞄に手を突っ込んで、確かに傘が無いことを確認した。
「早く帰りますか」
 呟くようにぼやくと、後の二人も頷いた。

 場所は変わって駅改札口。
「まじかよ」
 と、琴奈が開口一番そう告げた。三人の前には臨時の看板が置かれている。内容を読むところによると、真子たちが帰る方面で電車が完全に止まってしまっているという。今のところ復旧の目処は立っていないとのこと。ここで待っていても寒いだけだし、どこかに入ることになった。
 とりあえず、駅の中を散策してみるが、ロープライスで暇をつぶせる学生にやさしいお店は案外少ない。本屋があったが、ここで時間をつぶせるほど、真子たちは熟練者ではなかった。
 というわけで、お馴染みの場所に行くことにする。駅を出て雨になるべく濡れないように走ること三分ほどのところにそこはあった。信用金庫の向かい側、ジャンクフードのお店、アマドバルドである。
 店内は雨宿りの人で結構にぎわっているが、席は三人座れる場所を確保して注文をしにいく。真子はアマドバーガーと水を頼んだ。席に座って二人が来るのを待つ。しばらくして三人がそろうと、しばし談笑の時間になった。
 一通り話してふと窓から外を見るが、依然として止む気配はない。これは本格的に面倒なことになったと真子は思った。
「ねぇ、さっきの続き聴かせてよ」
 真子はアマドバーガーを頬張りながら言うと、琴奈はバスに乗る前に話の途中だったことを思い出し、そうだねと呟く。
「よし、これはさ、友達の友達から最近聞いた話らしいんだけどね……」
 琴奈の話はこういうものだった。
 最近のことだ。この近辺で連続的に起こる行方不明事件が起こっているらしい。最初の事件が起こったのが、一ヶ月ほど前だ。手口は分かっておらず、犯人の顔すら分かっていない。何も手がかりが見つかっていないのだそうだ。突然消えて、そして不可思議なことに、ある一定の期間をおくと、その人は戻ってくるのだという。戻ってきた相手に聞いてみると、何のことだかさっぱり分からないというのがその面々の言葉なのだそうだ。その人曰く、「普通に過ごしているだけ。今日も起きて、また普通に生活をして、その繰り返し」つまり、事件のときの記憶はなく、本人からして見れば普通に寝て起きたときにはその日であり、行方不明になった実感すらないのだ。逆に質問されて、自分が行方不明になっていたことに気づくらしい。
「え、それって、本人は起きて日常を過ごすけれど、実際はその寝ていた期間が行方不明になっていた、ということ?」
「そのとおり。おかしな話だろう、行方不明になる前に寝て、その期間もずっと寝ていたなんて信じられない話しだしさ。もしかしたら誰かに攫われて監禁とかもされてたのかもしれないのに、それにも気づいていないとか、ありえないと私は思うのよ」
 琴奈はうんうんと頷いた。
「この話の共通性としてはぁ、忽然と消えて、一定期間を置いて必ず戻ってくるってところなのぉ」
 菜柚がそれに補足を加えて、ポテトをかじった。
「そう! で、この話のあまりに掴めない内容からついた名前が“神隠し”ってわけよ」
「ふぅん」
 妙な話だと真子は思った。というか、怪談・都市伝説マニアの真子としては、このうわさを知らなかったことに後悔していた。自分としたことが、かなり出遅れている。
 何とか混ざりたい。私も知ってたよ、とか何食わぬ顔で学校のみんな、オカケンの人にも話したいが、情報の新鮮度が低いにもほどがあった。真子がそういうことを考えているときだった。
 菜柚の携帯が鳴り、それはどうやら電話のようで、通話が終わると真子たちを見てにこりとした。
「ねえねえ、これからお母さん迎えに来るんだけどぉ、一緒に帰るよねぇ」
 傘がない真子にとっては朗報中の朗報である。情報の新鮮度とかの思考は彼方に消えて、帰ることのできる安堵感が体を満たす。すぐに来れる距離にいるというので、もうアマドバルドを出ることにした。
 外に出る。未だに降り続く雨は湿った空気を体にまとわりつかせるから嫌いだ。空の見上げても雲しか見えないのは少しさびしいことだと思いつつ、真子はその場を後にすることにした。
 無差別に雨は降り続く。今日のうちはどうやら晴れないようだった。
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プロローグ

『縁堂へようこそ~真子の章~』


『発生~宵の秘め事~』

 それは満月が綺麗な夜だった。夜も更けたころに二つの影が宙を舞う。常人には理解しがた高さを悠然と飛び、そのスラリとしたシルエットは美麗さを帯びていた。着地したのは、とある廃ビルの屋上である。着くと、慎重に歩を進める。
 シルエットの一人、近衛双樹はポケットから設計図を取り出した。指でトントンといくつかのポイントを指差していく。
「怪しいのはここら辺かしら。詩織は、こことここを探して」
 双樹はその中でも二個三個ほどポイントを絞ると、もう一人のシルエット――真木詩織にそう命じた。詩織は、ヘアピンで髪を止めると、面倒そうに「はぁい」と返事をした。
「くれぐれも、ヘマしないでね」
 そんな態度が気に入らない双樹は少し語気を強めて詩織に言う。詩織はムカッとしながら、べーっと舌を出すと、ビルの闇へと消えていった。うんざりしながらそれを見送ると、双樹も歩き出す。今回の仕事も速く終わればいいがと思いながら。
 今回倒さないといけないターゲット数は一。幸いなことに少ないから早く終わらせたい。明日までに提出の宿題を終わらせないといけないからだ。
 それにしてもと思う。なぜ最近、詩織と組むことが多いのだろう。それは所長の意向ゆえに逆らうことはできないが、詩織とは馬が合わないことはわかっているからできればそういう事態は避けたいと思っている。相手もそれは同様のようで、仕事を引き受けたときも、組み合わせが言い渡されてあからさまにいやな顔をしていた。どうして双樹のことが気に入らないのかというのはまぁ、理由はわからないでもない。あの男が原因だということはわかっている。
 早速ビルの中へと足を踏み入れた。踏み込むと、ほこりが舞い上がる。ビルが使われなくなってずいぶん経つからそれも仕方がないことだろう。ここは使われなくなってからずいぶんと経つのに、なぜだか、取り壊されない。もちろんそれには理由があり、専らそれは取り壊そうとすると起こる怪異が原因である。
 正体不明の何かが機器を壊したり、なぞの事故が起こるなど、よく怪談にありげな事故が起こって結果的に誰も手をつけなくなった。しかし、また再建計画が立ち上がり、事務所に依頼が来たというわけだ。
 蛍光灯は電気が通ってないことからもちろん、使えない。だから手元にある頼りない懐中電灯を使うほかない。スイッチをオンにすると、前の狭い視野が照らされた。ホコリがかなり反射して見えづらいが先に進んでいく。階段を下りてフロアに出ると、廊下は月明かりに照らされていて少し見えやすくなった。このために満月の今日を選んだのだ。
 闇雲に探しても埒が明かないので、とりあえず設計図を見ながら、チェックしたところを探していく。ターゲットの好んでいそうなところは今までの経験則から少しは特定ができるのだ。
 詩織に言った以外でのポイントは三つほど。進んでいくと、その二つは空振りであった。
 最後の一つはフロアを二つほど下ったところにある。如何にもな扉が前に現れて、猛烈に感じる瘴気のようなものが不快に思えた。その一角だけが次元を切り離されたように歪に見えて、双樹はその前に立ち止まる。
 無線をオンにすると呼びかけた。
「こちら双樹。詩織聞こえるか。オーバー」
 数秒も経たないうちにガビッと一瞬ノイズのような音が聞こえると、応答がある。
『こちら詩織。もう! 携帯でいいじゃない。私、これ嫌いなのよ! オーバー』
「うるさいわね、携帯なんて通じなくなるでしょうに。だからこれにしたのよ。それにせっかくある通信手段なのに、わざわざ携帯にする意味がわからないわね。オーバー」
 冷たい視線を無線に送りつつ、双樹は応答を待つ。一分くらいの間を空けてそれはきた。
『繋がらないって、もしかして、見つけたの。オーバー』
「ええ、そのもしかしてよ。私はこれから突撃するわ。詩織も私のところに至急追いついてきて頂戴。オーバー」
『わかったわ』
 そういうと、ブツリと会話が切れる。無線を元の位置に戻すと、その扉をにらみつけた。ここが終われば、仕事はもう終わりなはずだ。早く家に帰って課題をやりたい。
 大体、所長はいつも、突然すぎるのだ。しかも、突然すぎる召集の約半分以上が夜中。次の日にも学校があるというのに、悪意があるとしか思えない召集ばかりだ。
「早く終わらせて、帰るわよ」
 双樹は目を閉じて気持ちを集中させる。気持ちの線を一本の鋭い物にして、腰から小太刀を取り出した。そして目を開けたかと思うと、一気に地面を蹴り上げた。その力を使って、扉に突進をする。
 軽く、地面が揺れるほどの音を上げて、扉が前倒しにされると、双樹は飛び込んで小太刀を構えて周囲に注意した。かつては部署の一つとして利用されていたのだろう。だだっ広いそこはデスクがないために伽藍としていた。そしてその一角にそれはあった。
 ――見つけた。
 人間が一人、青い球体のようなものの中に入れられているのが目にはいる。用心深くそこに近づくと、確信を持った。これはドッペルを生成中なのだ。
 双樹が関わるというだけで依頼のジャンルなど限られている。そして、ここにドッペルを生成中の証拠があるとするならば、双樹の求める相手もここにいるというわけで。
 ドクンと胸が高鳴る。早く、早く出て来いとそう願った。まるで愛しき恋人にでもあうような気持ちであたりを探す。この青い球体を作った張本人がどこかにいるはずだからだ。
 ガタッ。
 何かを踏む音。そして人の気配――。
「そこかぁっ」
 双樹は視界に入る前に、小太刀を右に薙いだ。小太刀が風を切って、そのまま相手に当たるはずが、相手がそれを避けて空振りに終わる。舌打ちをして、また体勢を立て直すと、その時点できちんと相手が把握できた。
「あれ、詩織?」
「あれ、じゃないわよ! あんた私を殺す気!?」
 おかしい。双樹は思わず首を傾げる。たしかにあれは知っている詩織の気配じゃなかった。だからこそ、ためらいなく小太刀を振ることができたのだ。しかし、今目の前にいるのは明らかにいつもの詩織だ。真木詩織だ。
「ごめんなさい、私、どうかしてたわ」
「どうかしてた、じゃ、ないっわよっ」
 詩織は怒り狂ってナイフを振り回す。しかし、すぐに、動きを止めて目を細めた。
「ここ、いるわ」
「やっぱり、詩織も感じるのね」
「当たり前よ。実戦経験は結構積んでるつもり」
「そう……」
 また集中を練り直す。詩織を切りかけたところで一気に霧散してしまった。双樹は我ながらそれくらいで途切れてしまう集中の糸に呆れながら小太刀を構えた。
 どこにいるのだろう。あたりを目だけでなく、聴覚で嗅覚で探っていく。気配も張り巡らせるが、双樹のそれは所長ほど修練されていないために穴だらけだった。
 どこにいる……。
 双樹がさらに集中を強めようとしたそのときだった。
「双樹っ」
 詩織が叫ぶ。その瞬間に双樹は前に走り出していた。すぐ後方で地響きがして数歩先で立ち止まって、後ろを見た。そこには先ほどあったものがなかった。
 先ほどあった地面がなかったのだ。
 戦慄が走る。双樹は目を見開かせて、次の瞬間に唇をかむ。
 そこにはもう誰もいない。完全にあしらわれているのだ。屈辱に拳を握り、そして、叫んだ。
「絶対に、許さないっ」
 右手を突き出す。心の中で言葉をつぶやいた。
 ――次元の鎖よ。戒めを解き放て。
「出て来いっ、神滅宝珠」
 するりと何もない空間に突然、十尺はあろうかという、野太刀が姿を現した。漆塗りが下地で、鞘には禍々しい程の模様が金細工で施されている。しかし、その美麗さとは反対に至る所に傷ができている。鍔は無いわけではないが欠けていて、柄は漆黒で、飾り気がない。
 双樹はそれを手にすると、背中に背負い込むように柄を持ち、一気に抜き放った。乱れ刃が鈍く光を放っている。
 抜き放つと目を閉じた。この刀を抜くことで、双樹の第六感は本来の約三乗ほどになる。目を閉じて、意識をクリアにして、そして瞬時にその場を特定した。その間、約十秒ほどだった。
「詩織、私の言うとおりに動きなさいっ」
「ええ!? わかったわよぉ」
 すぐさま、詩織に指令を送る。部屋の隅、そこにやつはいる!
「私から見て、右の方向、部屋の隅、上側、動きを止めてっ」
「了解」
 双樹が叫ぶと、詩織は両腕を振り上げた。それと同時に叫ぶ。
「双奏鉄鎖!」
 両手が一瞬の光を放ち、そして、二挺の拳銃のようなものが収まった。しかし、その見た目とは一般で言う拳銃とはまったく異なり、シルエットがそれっぽい。ただそれだけだ。
 蹴りだして、詩織は照準をさだめる。
「荒命流衝術、影縫いっ」
 構えた銃口から放たれた二つの黒い閃光は真っ直ぐに双樹の言った方向へと飛んでいく。そして、捕らえた。
「何っ」
 捕らえられた何者かが呻いた。ボイスチェンジャーに当てたような声だった。
「捕まえたわ」詩織はにやりと笑うと、そのまま駆け出す。
「ちょっと、あなたの技じゃ……」
 双樹が言い終える前に、詩織は走り去り、そのまま追撃に移った。
 ふわりとジャンプして、相手に肉薄する。徒手空拳から技につなげていった。
――荒命流衝術、激の型“双爆”
 構えた二つの銃口から、ほぼゼロ距離で、詩織の力を込めた弾丸を撃ち込んだ。反動をバック宙で殺すとそのまま派生させ追撃する。
 ――荒命流衝術、派生“奏爆”
 相手の間接があるだろう場所に的確に撃ち込む攻撃。その滑らかな動きはまるで音楽を奏でるが如く。
「っち」
 相手が確実に、ダメージで体勢を崩した。そこに詩織はフィニッシュをつなげる。
 ――我流真髄荒命流、双奏鉄鎖、終の型、簡易式“双奏粉塵”
 二挺構えた銃をライフルを構えるように一直線に構えると、まるで、合体したかのようになり、長身の銃のシルエットへと変貌する。そこに目一杯込めた詩織の力を注ぎこみ、そして、発射。
 黒い爆発が標的の中心で発生する。相手だけを的確に飲み込むような攻撃は、当てられた相手に対して確実に深手を負わせるはずだった。
 なのに。
「ぐは、ちきしょうめがあああ!!」
 ターゲットが一回ひるんだだけで、すぐに立ち上がる。そのシルエットから暗闇に初めて確認する相手の目のような所は怒りにギラギラ光っているように見えた。
「うっそ」
 詩織は目を丸くして、立ち呆ける。行動や思考が一瞬すべて、止まってしまった。そして、それが命取りになるのだ。相手が腕を振り上げる。無造作に振り上げられた腕が、詩織を横なぎにした。
 ぎしぎしと骨が嫌な音を上げて、耐久力の限界を超えそうになるところを身体を無理やりそらしてかわすことに成功した。身体を転がして、やがて回転が止まったところで立ち上がろうとして、失敗した。
「あっれ、立てないんですけど」
 詩織は膝をつく。そして既に眼前へと移動していた敵を見上げることになった。次の行動に移ろうと移動していたのだ。こんなときなのに、なぜだか、相手の姿がわからない。シルエットだけ、いや、実体としての容姿を相手は持ち合わせていないのかもしれない。影だけが見えているような、かろうじて人間の姿だということだけわかるのだが、それまでだった。
 やがて、相手の攻撃は、すぐに詩織に届くことだろう。そして、やられてしまうのだ。
「くっそぉ」
 意識が途切れそうになったその瞬間、目の前を別の人影がよぎった。
「あなたの火力では一回の連撃では無理、と言おうとしたのに……自滅かしら」
 そこで、詩織の意識は暗転する。
 それを見届けたところで双樹は相手を睨みつける。
「悪いけど、こいつみたいに私は甘くないわよ?」
 そういうと、手に持った神滅宝珠が双樹の気持ちに呼応するように、鈍く揺らめいた。
 今まで詩織の戦い方を見ていてヤキモキしていた。自分ならばこうできる。自分ならば、あそこでこう切り込んでいたと。つまり、この状況を楽しみたいと思っていたのだ。遅々とした戦いしかできない詩織にイライラしていたのだ。普段から自覚はしていた。近衛双樹という人間は戦いの中に己の楽しみを見出していると。戦いの中でのみ、本当の意味で自分は輝けるのだと。
 だから、今現在立たされている死に近いこの場所も、ただの娯楽の一部としか考えていないのだ。自分が死にそう、その現実はフィルターがかかったようにひどく曖昧で実感は麻痺していた。
 少しばかり、いきなり双樹が眼前に現れたことで驚いていた相手だが、すぐに腕を振り上げる。そして振り下げた。重量のありそうな攻撃は、本来ならば、眼前の双樹を一薙ぎして肋骨を粉砕しながら吹き飛ばしていただろう。しかし、その攻撃は、双樹を僕撃することは叶わなかった。ひらりと華麗に受け流し、一気に加速。次の瞬間には、敵のすぐ目の前へと迫っていた。相手の攻撃とはあの重量による破壊力はあるのだろうが、そのぶん、機動力・繊細性が欠けている。故に先を読むことは少なくとも双樹にとってはたやすい。
 十尺もあるような刀をまるで、ないものとするように軽やかに動く。空中で身を翻して、そっと刀を構えた。
 ――荒命流剣術、“虚無僧”
 刀を構えてスッと横に一振り。その瞬間に戻すという居合いの特性を利用する。ちょうど最初の位置に戻したところで、地面に足を着いた。そして、同時に、相手も地面にひれ伏すことになる。
「な、なに」
 相手は驚きに目を見開く。いや、これは影だけのような存在の相手には不適切な表現かもしれないが、相手が驚愕しているのはわかった。
 双樹は無表情で剣先を相手に向けた。相手が一歩後ろに下がる。それを一歩追い詰めた。
「これで最後にしましょうか。早く帰りたいの」
 スッと構えに入る。構えに入ったまま、小太刀を片手で相手に投げた。
 ――荒命流剣術“影縛り”
 相手の動きがこれで止まった。この技は元々荒命流の技で、これがアレンジされた形が亜流の影縫いなのだ。
 双樹は続いて仕上げの段階に入る。一撃の威力がどうしても小さくなる双奏鉄鎖と違い、双樹の神滅宝珠は一撃必殺の剣である。それゆえの長さであり、そのための流派だ。
「我が神滅の錆と化せ」
 ――我流真髄荒命流、神滅宝珠、終の型、その一“神ノアギト”
 双樹の力を宿した刃を振り上げて、思い切り力を乗せて振り下げる。光に包まれた刀剣が無慈悲に相手を粉砕する。かつて神に歯向かうために研究された技のひとつである。
 放った技は見事に、相手に直撃し、そしてそのまま押しつぶされた。双樹が刀をどけると、そこにはもう何もない。砕けた地面があるだけだった。
 しばらくはそのまま放心する。敵が来れば今の状態ならば察知することは容易だろう。だから、もうしばし、剣を振り上げた余韻に浸りたい。今回の戦いは戦闘とすら呼べないものだろう。一方的に相手を捻じ伏せる、双樹の得意とするスタイル。命のやり取りも嫌いではないが、今は状況が状況な故仕方がないことだろう。早く家に帰りたいのだ。
 手を離し、神滅宝珠は地面に落下する途中で空気中に姿を消した。一息つくと、後ろで小さく声がした。振り返ると詩織が起き上がるところだった。
「んあぁ、あう」
 詩織は上体を起こすと頭を振った。目をこすって立ち上がる。
「おはおー」
「じゃないわよ!」
 一応、起き上がりの挨拶をしている詩織に鉄槌を下した。まっすぐ振り下げられた拳骨が、上手いこと詩織の頭の中心に命中する。思い切りの良い音が聞こえたかと思うと、「くぅ」と涙を流しながらしゃがみこんだ。そして、キッと双樹を睨んだ。
「なぁにすんのよ! 怪力女っ」
「ふん、あんな相手に遅れをとるあなたが悪いわ」言いながら、双樹は先ほどの青い球体まで歩く。小太刀でスッと切れ目を入れた。すると、まるでシャボン玉が割れるように青い球体は割れてなくなる。そこには中に閉じ込められていた女性がいるだけだった。それを担ぐと小太刀を納める。
「ったく。あんたは下品よね」
 双樹は出口へと歩き出すと、後ろからついてくる詩織が文句を言い始めた。
「そう、よかったね」
「ふんだ。兄さんとは大違いよっ」
 詩織がべーっと舌を出して、そういったときに、首に鋭いものが当てられていた。割れていたガラスの破片を双樹が詩織の喉元に当てていたのだ。軽く押し込められていて、そのまま少し力を入れれば、たちまち、詩織の動脈を傷つけていることだろう。先ほどのすまし顔の双樹からは想像もつかないほどに睨みつけながら詩織にすごんだ。
「あいつの話題を私の前で一欠片でもしないでくれる。殺すわよ」
 いつもならビビッてペコペコ謝るところだが、詩織は自分の兄のときだけは引き下がらない。
「やってみなさいよ。私、あんたに謝るつもりもないし、媚びだって売らないわよ」
 ほんの数秒、数分のにらみ合いが続く。しかし、短い時間に思えるそれは、体感だと何分も何時間にも感じられるほどの緊張感を帯びていた。
 やがて、双樹が手を引いた。指を開くと、薄く血液が付着したガラス片が地面に落ちる。双樹の手から血が滴っていた。それを軽く舐めると、また振り向いて歩き出す。
 詩織は腰が抜けそうになるのを我慢して、また後をついていった。いつも、この二人の中でこの会話があるたびにこのやり取りは再現される。双樹は詩織の兄――真木沙羅維を嫌っているし、怨んでいる。本当ならば殺したいほどらしいが、その理由を詩織は知らなかった。殺さないのは、所長が双樹にストップをかけているからだとか。
 いくら双樹が強くても、恐怖の対象でも詩織にとって沙羅維は尊敬できるし、一番守りたい対象だ。だから引き下がるわけには行かない。もしも、双樹が沙羅維に牙を剥くとしたらそのときは刺し違えてでも双樹と戦う覚悟はできている。
 無言のまま、階段を下っていく。しばらくして、さっきのやり取り以来口を閉ざしていた双樹が口を開いた。
「それにしても、所長にはどう説明をしようか」
「ん、どういうことよ」
 双樹の話の意味が飲み込めずに詩織は聞いた。うんざりしたような表情を作って、双樹が説明をする。
「あなたは気絶してたからわからなかったかもしれないけど、あいつ、切ったときに手ごたえがなかった。あいつ、本体じゃないわよ」
「ええええ、これまた面倒な」
「まぁでも、あれが今回の依頼では本命だったかもしれないし、最初から分身だけだったのかもしれないからなんとも言えないけれど」
「そうかぁ」
 やがて、外に出た。建物の中にいるときよりも強烈な月光をその身に感じた。これからまた来た道を行かなければ行けない。きっと家に着くころには朝が近いだろう。課題は終わりそうにない。課題と一緒に報告書も作成しないといけないから骨が折れそうだ。
 移動しながら思う。今回の依頼はこれでひとまず終了となろう。しかしだ。双樹は不安に思えてならない。この依頼、完遂はしていないはずだ。まだまだこの先に道が続いているのだろう。
「……いつ終わるのやら」
「なんか言ったぁ!?」
「なんでもないわ」
 双樹は走る。夜風を体に受けながら。この空の黒さが妙にこの先に続く不安につながっている気がしてならないと感じながら。
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8

『山田アフター~a secretスピンオフ~』




 なんでこんなにギリギリまであるのだろうか。俺はクリスマス後にもまだある学校というものを恨めしく思う。
 インフルエンザやなんかで今年は休校が続き、その分の授業が今日まで来ているとのことだった。しかし、今日がやっと最後の授業である。
 いやはや、だが今日学校に来るのは俺的にはかなり勇気、もとい色々なパワーが必要だったのだ。何せ昨日の今日だぞ。昨日あんなにショッキングな映像を見て、誰が落ち込まないというのだ。
 まるで俺がピエロじゃないか~。
 誰かわからないが虚空に向かって叫んでみる。心の中の虚空である。
 結局よかったんだろうか。二人の恋はある意味無事に結ばれたという事になる。それはつまり当初の目的が達成されたという事だった。しかし、同時に思うのは物には順序なるものが存在するのだ。すなわち、いきなり道を飛び越えたりするのは結構反則の域なのである。
 昨日のはまさにその順序に逆らったような展開だった。あれはまさに裏技である。超展開と言うやつである。
 打ち切りの漫画でもあるまいし、少しは順序を踏んでほしかった。
「あーうー」
 なんか今日は謎の生物にでもなっていようと思って廊下を歩いていると、変なものを見る悲しい視線をかき分けて透が俺の横に来た。
「おっはよ!」
「あーうーうー」
 一応おはようという意味である。
「なんだよそれ」
 透はあはは、と笑ってしばらく固まった後に、真剣な表情で言った。
「もしかしてなんかあったの?」
 なんかあったの? そのふとした優しさが嬉しい。俺の心に貯め込んだ色々な愚痴や文句が溢れだしそうになった。しかし、言うわけにはいかない。トップシークレットな話題が今回のことでは多すぎる。
 しかし。文句は聞いてもらいたい。故に。
「とーるうううう!」
 俺は透に泣きついた。


 階段にて。俺はエグエグ泣きながら失恋したのだと告げた。完璧な失恋であったと大事なことなので何回か言っておいた。
 もちろん、同性愛的な部分はオブラートに包み込んで分からないように話した。透は隣で何度もうなずくと大変だったんだな、と言ってくれた。
 鞄に手を突っ込むとそれを俺に渡す。
「これ、今日飲もうと思ってたんだけど、やるよ。後で買えばいいし、失恋酒でもやろうぜ」
「酒ではないけどな」
 カコン、と缶をぶつけ合わせる。それは俺のいつも買っている缶コーヒーであった。
「これ、いつも俺が飲んでるやつだよなぁ」
「ああ、うん。いつもお前が飲んでるから、おいしいのかなって、後で幸野と飲もうと思ってさ」
 透は笑顔で言った。とってもその笑顔がまぶしい。俺がヴァンパイアならばこの笑顔の眩しさで灰になってしまうんじゃないかと思うくらいに。
 あーあー。
 俺には一つだけ救いがあるのかもしれない。だって、俺には親友がいる。故に、彼女なんてなんだ! 友達と楽しく遊んでいればそれで十分じゃないか! といい訳できるのだから。
 生まれて初めてだと思う。
 あんなに真剣に好きだと思ったことは。根暗で学校ではいつも仮面をつけている俺が、それくらい必死に想いを傾けることが出来たということ。それはとても進歩なんではないか。
 次はいつ恋愛できるのだろうか。
 今度は同性愛の入ってない人に惚れたいものであるが……。
 島津さん、本当に貴方のことは好きでした。しかし、もう完全に無理なんですね。あなたは遠いところへ行ってしまうのですね。
 そう夢想すること数十秒。横で何かに悟っている俺に対して不審な視線をぶつけている透がいるが気にしない。
 キーンコーンカーンコーン。
 授業のベルが鳴る。透が立ちあがると俺の頭に手を置いた。
「ほれ、行くぞ」
「おう!」
 俺も立ち上がって、それに続く。
 まだ本礼では無いので、そこまで急ぐことはなかった。周りが教室に入ろうと動いている中を俺も透も教室に向かって歩いていた。
「なぁ、山田」
「ん?」
 俺も透も前を向きながら会話した。
「まぁ落ち込むなや。今すぐっていうのは厳しいかもしれないが、もっと他に良い人が現れるって」
「そうかなぁ」
 根暗な俺をいつかは誰かが受け止めてくれるのだろうか。
「お前は、実際、そこまで悪いやつじゃない。友達の俺が言うんだ、間違いないぜ」
「透ぅ」
 ああ、お前はなんて良いやつなんだ。俺が女なら惚れているぜ……。いやあるいは……。
「透、お前、可愛いな」
「ええっ」
 俺はふと零れ出た言葉にぎょっとする。やばい、島津さんに毒されたか。透はかなり引いている感じに段々と距離をとった。
「ん~、気持ちは嬉しいが、俺にはそんな趣味はないんですわ~」
 バコッ。
 冷や汗を流していると、後ろから謎の鉄拳を受けて前のめりになる俺。頭を押さえてそっちを見れば目が据わって良い感じに恐い幸野が仁王立ちしていた。
「そうよ。私の彼に手を出そうなんていい度胸じゃない」
 もう一回鉄拳を食らって今度こそ、廊下と頭がこんにちはしているのを後ろ目に、幸野は透を引っ張って、教室に行ってしまった。
 冗談なのに。
 いや、冗談だよなぁ?
 ん~、特殊な性癖を持つ人と長いこと時間を過ごすのもあるいは考えものかもしれない。
 いやいや、俺が同性愛に目覚めるなんてゾッとするようなシナリオはやめてくれ。俺はいつでも女子を好きでいたい健全な男子だ。BLには興味が無いのである。
 そう思いたい。
 そんなことを考えながら立ちあがると、目の前に足が見える。また幸野かと身構えたが、それは島津さんであった。
 あれから何となく気まずくて、俺は島津さんには会いに行っていない。というか昨日の今日なのだが、とにかく、会いに行こうとは思ってもいなかったのだ。
「おはよ」
「おはよう」
 島津さんが手を差し出し、手を借りて俺は起き上がる。立ちあがると向き直ってしばらくの時間が流れた。
 あと二分もすればチャイムが鳴るだろう。そんな時だった。
「ありがとう。私が私でいられるのは山田君のおかげ。だから有り難う。そして、これからも私の最高の親友でいてくれませんか?」
 おいおい。
 なんて酷いことを言うのだろう。諦めようと思っても、まだ心の片隅以上の領域で俺は島津さんのことを好きなのだ。それを親友って……とても酷いことだとは思わないか。
 でも、それでも。
 そんなに魅力的な、俺の大好きな笑顔で言われちゃあね、断るわけにもいかないのが実情だ。
「はぁ」
 しょうがないねぇ、と。
「これからも、よろしく。島津さん」
 そう言って片手を差し出す。島津さんも片手を差し出して、握手をした。
 そして島津さんは自分の教室に帰っていく。そう、そのドアを開けて、そのまま入って……。入ったと思ったら顔だけ出してきた。
「そうそう。私たちはもう親友なんだから。今度から麗佳って呼んでね!」
 言い残すと、ガラリとドアは閉まった。立ちつくす俺。頭の中で反芻するは島津さんの名前だった。
 れいか、レイカ、麗佳。
 うん。麗佳。
 これが正しい選択なのかは分からない。でも、俺はこれでも良いんじゃないかと思った。今まで思っていたゴチャゴチャした考えすらも、あの笑顔を見れば一回で吹っ飛ぶのだから。
 もう一回復習しておこうと思う。
 俺の青春を形作るのはなんだ?
 そうそれは。
 ――麗佳を笑顔にすることだろ。

 青春の定義なんていうのは常に変わるものだろう。もしも俺にまた好きな人が出来たなら、俺はその人に全力で愛を注いでいくだろうと思うから。
 でも、それが無い今は麗佳を笑顔にすることに全力をそそいでも良いと思ったのだ。
 俺は軽くなった気持ちと共に廊下を歩く。

 俺の青春はまだ始まったばかりだった。
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7

『山田アフター~a secretスピンオフ~』





 デートも終盤と言う事で。俺は公園に来ていた。ポジションは草の陰。見つからないように、でも、ギリギリ声が聞こえてもおかしくないんじゃないかな~というような距離だ。嘘である。実は少し遠いところから双眼鏡を使ってみている。俺は最近どうも近眼なのだ。少し遠いくらいで双眼鏡を使う事はないのかもしれないが、それはそれ。これの方が味があって良いだろうという意味もある。
 もはや漆黒色の空には限りなく分厚い雲が覆っていた。
 ああいう雲をみると時折不思議に思う事はないだろうか。例えば、夜に晴れている、という言葉は一見違和感を感じる。夜なのに晴れているの? それは俺が晴れているとは、太陽が燦々と雲が無い空で輝いているという事を定義づけているからに他ならない。そして今日は曇っていた。
 いつもの漆黒色よりもさらに黒く。重苦しい空気をはらんで、そこに鎮座している存在である。
 雨大丈夫かな。
 いよいよ心配になってくるのだ。今はいい感じに雨は降っていないけど、このままではそうもいかないだろう。降水確率は高かった。それだけで警戒には値するのだ。ただでさえ、先日の雨で地面は凍っている。水がたまっているところはとても滑りやすく危ない。俺でさえ、合計二回か三回は今日だけで転んでいる。そのせいでお尻がヒリヒリといたむ。ついでに骨が痛いという幻覚さえ覚えるのだった。
 俺がそういうことを思っている内に、「きゃっ」という甲高い声が聞こえた。そちらをみると、島津さんが滑って転びそうになっているところで優佳先輩が助け起こしたらしい。その姿はさながら王子と御姫様のようだった。もちろん、補正が九割入っているところは気にしないことにした。
 二人は適当なベンチを見つけるとそこに腰をかけた。ついでに言うとここは噴水とかからも離れていることからあんまり人が来ないスポットである。周りには外灯が少ししかないようなことも影響して、二人きりになるにはもってこいのはずなのだ。
 ん、大丈夫そうだな。
 双眼鏡を覗き込んで思わず俺は微笑んだ。そこには幸せそうな二人がいた。心から楽しいと思っているようなそんな表情だった。
 今聞こえているのは虫の声だ。空がうごめく鳴き声だ。木々がざわめく音だ。二人の会話が内容は分からないとしても空気の振動で何か話している程度には聞こえていた。それと俺の呼吸音。
 自分の呼吸と言うやつはなぜだか大きく聞こえてしまうもので。音量としてはあちらには聞こえるはずもないほどのものなのに、妙に気になって、聞こえないような努力をしてしまう。
 頑張れよ。ここまで来たんだ。だから、頑張れ。
 もうそろそろ見ていていい場所でもないかもしれない。そう思った。ここからは二人の神聖な時間なのかもしれない。必ずしも島津さんが告白を成功させるという確証はなかった。なぜならば、その恋愛とはある意味特殊なものだからだ。でも、それでもこれは二人にとっての強いては島津さんにとっての大切な時間だろうから。だから俺みたいな無粋な奴がいていいわけが無かった。
 邪魔者はここいらで退散である。
「本当に俺は何やってんだか……」
 そう呟いて、その場を立ち去ろうとした時だった。
 ふと視界に入る三人の影。見てくれはいわゆる不良と言うやつで。見た目からして悪いことしてます~って語っているような感じがした。
 いやいや人を見かけで判断しちゃだめだろう。
 得てして顔が怖かったりする人は悪い人に見られがちだが、実は電車では真っ先にご老人に席を譲ったり、雨の中、捨て猫を助けたりしているものなのである。テレビの見過ぎである。
 進行方向からしておそらくはこのままいけば島津さんと優佳先輩の所まで行くのだろう。そしてそれはあまり好ましい状況とは言えない。しかし、あの人たちがそんなに悪い人じゃなかったら、何か言うわけにはいかないし……。
 やがて遠目に二人の姿を確認したのか、下卑た裏声を一人が上げた。もうちょっと近づいて会話を確認する。
「なぁなぁ~あんな所に上玉発見!」
「だな~俺たちにクリスマスプレゼントかもよ?」
「バッかじゃね? んなわけねーじゃん。どんだけ子供っぽいんだよ」
 いや~とっても不吉な感じがするね。やはりああいう連中は総じて悪いものなのか。俺の凝り固まった不良像がより鮮明に書きかえられた。ああいうやつらに良いやつなんていないのだ。
 とりあえずまだ出ない。まだ早い。
 三人の会話は続いた。
「そうだな~。ここは遊びをしようか」
「遊び?」
「そうそう。じゃんけんして、負けた奴が二人であの女達をナンパしにいくって奴」
「断られるに決まってんじゃん! ありえねー」
「まぁ話を聞けよ。ここらへんは人通りが少ないし、ある程度強引でもいいって思うわけよ」
「つまり……?」
「そう、そのつまりってわけだ」
 ギリっと俺は拳を握る。力が入りすぎて爪がめり込んだ。
「やっちゃいますか!」
 最後に三人のうちの誰かが言って、じゃんけんをしようとした時だった。
 俺は何も考えずに茂みから出るとそいつらに近づく。
「あぁ?」
 一人が俺をにらんだ。
「何だアンタ。用でもあるんか?」
 用だと。あるさ。一つだけあるさ。
 もう怒りで頭がいっぱいになっていた。馬鹿になるんじゃないかと言うほど血圧が上がり続けているのが分かる。
 誰があの空間を邪魔してよいものか。
 誰も邪魔してはいけなんだ。
 島津さんの大事な時間を、お前らなんかが邪魔していいはずが無い。
「ああ、あるよ。お前らはこの先には行かせない」
 一人が笑う。
「お前頭大丈夫かよ? ここは公共の施設だぜ。お前がどうこう言う資格はないだろうってな!」
 三人とも笑った。
 いいからその下品な笑いをやめろよ、二人が気づいて、島津さんが嫌な気持ちになったらどうするんだよ。大事な所なんだよ。ここが正念場なんだよ。俺が守りたい空間なんだよ。時間なんだよ。邪魔するなよ。ふざけるなよ。俺は、俺は。
「うっせぇ、聞こえてたんだよ。あの女をどうするかっていうのをさ」
 その一言で男の笑いが止まった。やはり聞かれては嫌な部類の話だったか。
俺は足のばねを確認する。とりあえず、こいつを引きはがさないと。
「あーあー。聞かれてたよ。どうするお前たち?」
「まぁ~ね~」
「そりゃ~ね~」
「「「黙らせる」」」
 妙なところでハモってるんじゃねーよ。やばい足が震えている。
 やはり俺は根暗男だ。根元の根元まで根暗なのだ。こんな状況に慣れていない。通信カラテすらやっていない。授業でやった柔道だって乱取りの時に投げられっぱなしだった。技ありも有効もとったことが無い。逆に逃げて注意くらって判定負けしていたくらいだ。
 三人が一気に加速をつけた。俺もスタンディングスタートの形で加速をつける。とりあえず足では負ける気がしない。
「やらせるわけにはいかないんだ」
 俺は一人だけに的を絞って全力でショルダーアタックをかけた。


 俺のショルダータックルを食らった男は結構派手に吹っ飛んだ。肩を当てる時に絶妙な所に当たったらしく、相手が軽く感じたくらいだ。
 吹っ飛んだところを追いかけて、起き上がったところでさらにショルダータックル。吹っ飛んだところで全力逃走。
 とにかくここから引きはがさないと。
 そういう思いに駆られながら俺は走る。
 走れ! 走れ! 死ぬ気で走れよ!
 心臓が悲鳴を上げる。何のウォーミングアップも無しにあんなに走れば当然のことで。足が大丈夫でも心臓に悪い。先ほどなんて慣れないことをしたものだから肩がズキズキを痛みを発していた。もしかしたら打ち身みたいになっているのかもしれなかった。
 案の定、後ろからは目を真っ赤に充血させて怒り狂っている男が追いかけてくる。さっきショルダータックルを喰らわせた奴だ。その後ろに追従するかのように二人が走っていた。どちらも軽くキレているかのようだ。
「待てやこらぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 そんなに叫ぶなよ。まだそこまで離れてないんだから。
 まだだ。まだ離れなければいけない。
 そしてある程度走ったところで。恐らくはもうここまでくればあっちは大丈夫だろうと確信する。しかし、問題が一つだけ残っていた。その問題とはこのさきどうやってやろうかというものだった。
 あの時は二人の空間が侵されると思って頭に血が上りすぎていた。そのせいで向う見ずな行動を取り、現在死地に立たされていると言っても過言ではない。いや、自ら立ったのだが。
 この先交番までいくにしても相当な時間を要するはず。こういう時に限って、近くにはないものだ。ではどうするか。ここで奴らを撃退するか? いや、俺にはそんな力が無いことは自分が一番分かっているではないか。俺は非力だ。俺は根暗だ。俺には奴らを撃退する主人公スキルなど持ち合わせていない。
 こういう時にマンガで見たみたいに、真なる自分とかに覚醒出来たらな~とか中二病っぽいことを考えていた時のことだ。
 目の前に現れたのは巨大な水たまりもどき。もとい、先日の雨で出来た水たまりが凍って出来たツルツルな地面だった。
「ちょっ」
 考えた時はもう遅い。俺は踏み入れた足から氷の層につっこむと、盛大に滑る。股間が裂けるのではないかという激痛に襲われて、そのままずっこけた。
 後ろで三人もずっこけたらしいが、いかんせん。距離が近すぎる。俺はとうとう三人につかまった。


 暗い公園には人を殴る音が響いていた。ついでにうめき声もだ。ちなみにそのうめき声とは俺が発したものなのだけれど。
「ぐっ」
 もう、頭を殴られ過ぎておかしくなりそうだった。足もけられていたいし、口の中は出血で鉄の味しかしない。
「うあああああああ」
 殴りかかってくる一人の腕に俺はかみついた。思いっきりかみついた。蹴っても駄目だ。殴っても勝ち目はない。ならば何が一番効果的か。相手にダメージを与えられるかを考えての行動だ。
「いってえなこの野郎!」
 もう一方の腕が側頭部に命中して俺は顔から地面に着地する。冷たい地面が傷に染みた。もうかれこれ、三十分はこんなじゃ状況が続いているのではないかと思う。殴られてはかみついて、蹴られてはかみついて、いい加減相手も息が切れているようだった。
 痛かった。とにかく痛かった。
 向う見ずに飛び出したのを今さら後悔し始める。しかし、結果的に二人の空間を守れたのなら、それはそれで僥倖なのではないかと思えた。
 そして何より、不幸中の幸いと言うやつか、この三人は刃物は持ち合わせていないらしいという事が先ほどからやられ続けて確信した。不良ならばだれでも持っていると思っているものだから、それはとても安心できることの一つだった。
 でも、暴力でも人は殺せる。刃物などなくても、それでも殴られ続ければ人は死ぬのだった。
 内臓が痛い。ねじれるように痛かった。さっきから体の柔らかいところばかりを狙われている気がしてならない。
 俺も一矢報いたいと言う気持ちは当然のことあるけど、それでも無理なものは無理だ。体力とかそういうものを考えると、相手の方が場馴れしているだろうし、何より数が相手の方が多いではないか。
 この貧弱な筋力を考えれば、十分に多勢に無勢と言ってもおかしくない状況ではあるだろう。
 ぼーっとする頭で考える。
 いまここでちゃんとあいつらを追い出さないと、また島津さんのところに行ってしまうのではないかという恐怖。
 それだけ嫌だった。
 その嫌という気持ちだけが俺を動かしているに他ならない。
「ふぅふぅふぅ」
 荒い息で相手を威嚇する。体で負けても心では負けてやるもんか。
 相手は何度も殴られ続けても睨んでくる俺に嫌気がさしたのか、それとも気持ち悪いとでも思ったのだろうか「これで最後にしね~?」とか言っていた。十分に油断している証拠だった。
 一矢報いるにはここしかないのかもしれない。
 俺は痛みと恐怖で震える足を踏ん張らせる。一気に跳躍できるように、狙うは相手の顔面。俺は死ぬ気であそこに飛び込むのだ。
 じりじりと時間は過ぎて、相手は“最後”の一発を構える。随分と大ぶりなパンチだった。これだったらあるいはいけるかもしれない。
 そして、
「おらあ!」
 その拳が振りおろされた瞬間に俺はグッと足に力を入れて跳躍する。バネを最大限に生かし、反動に身を任せて頭から相手の顔面につっこんだ。いわゆる頭突きと言うやつである。
 決死の一発は成功に終わった。
 見事相手の鼻っ面に俺の頭突きを喰らわせる。否、ちょっと下だったかもしれない。思いっきり顎に命中してしまった。
 しまった、外れたか、そう思った時だった。
 なぜだか知らないが、俺にパンチをしようと思っていた男が白目をむいて倒れこむ。気絶でもしたらしかった。
「まじかよ~」
「お前馬鹿じゃね~の」
 残りの二人は頭を抱え込む。そして俺に一瞥をくれるとそこから立ち去って行ってしまった。
「もうこいつやられたからい~や。助かったな、坊や」
 段々と遠くなっていく三人の影。
 あれは普通、よくもやってくれたなと仲間が反撃するところではないだろうか。それなのに、あいつらはすんなり諦めると行ってしまった。
 それにより浮かぶ一つの事実。それは“助かった”という事だった。
 助かった?
 たすかった?
 タスカッタ?
「うはは、うあははははははは」
 乾いた笑いと共に腰が抜けてしまう。その場に倒れこみ、壊れたような笑いが止まらなかった。
 よかった。助かった。守れた。
 情けない終わり方だけど、それでもこの俺にしてはかなりやったと思う。根暗な俺がやり遂げたのだ。ご褒美くれてもいいんじゃないかと思うくらいな行動であったという事は認識しているつもりだった。
 ――島津さん、あなたは今どうですか?
 しばらくは立てないだろうから俺は天に祈ってみる。すると漆黒色の空がグレーの斑点に染まっていた。
 はらはらと落ちてくる。ふんわりと落ちてきた。その結晶は冷たくて、とってもとっても冬っぽい。
 雪の結晶が傷に染みてとっても痛かった。
「雪だ……」
 なんだ、雨じゃなかったのか。俺は天気予報を少しだけ怨む。
 雪は服に付くとシミになりやすいのだ。



 しばらくすると、体が再起動を始める。ある程度休んだ体は再び動こうと足を動かした。
「いっつぅ」
 やはり蹴られた跡が痛い。でもこれは勝手に勲章と言う事で納得することにした。勲章なのだから誇ればいい。だから俺は立ち上がると痛みを我慢して歩き始める。
 もう一時間半はあそこで寝ていたはずだった。だから、もう今さらあそこにはいないかもしれない。だって、雪も降ってきているし、もし二人で移動したとしてもベンチなんかなじゃなくて屋根のあるところに移動するのが道理というもの。
 だけど、少しだけ気になった。
 本当ならこのまま家に帰るのもいいかもしれない。風呂に入りたいし、傷の手当てもちゃんとしたいからだ。
 でも気になる。最後にあそこを一度だけ見たら帰ろう。そう思って俺は歩を進めた。
 頭や服に雪が張りつく。俺は思い出したかのように鞄を漁り始めた。今日はもとから降水確率が高いという事で、折り畳み傘を持参済みなのである。
「これでよし」
 さっきのいざこざで壊れてはいないだろうかと思っていたが、結構丈夫なもので、傘はピンピンしていた。降り続く雪をきちんと受け止めてくれている。
 暗い夜道を歩く。しばらくすると外灯の光がふわりと見えてきた。あそこでさっきまで二人が語らっていたのだ。
 もう帰っただろう。
 俺はそんな軽い気持ちでそこに目を凝らす。しかし、驚きで目を見開いた。
 雪の降る中、何もささないでベンチに島津さんが座っている。こんなに寒いのに何をやっているんだろうと思う。
 走り出さずにはいられなかった。この時だけは足の痛みも忘れてその場に駆け寄る。
「島津さん!」
「え?」
 ゆっくりと俯いていた島津さんが顔をあげる。その顔は酷く濡れていた。島津さんは泣いていたのだ。
 俺の存在を認めると、急いで涙の跡を拭く。いつもどおりに笑って見せた。でも、その笑顔が痛々しくて、俺の心がきゅうっと締まる。
「隣、いい?」
「うん」
 俺が隣に座る。二人はしばらくの間無言だった。そして、
「すごい、傷だらけだね」
 不意に島津さんが言った。もちろん、これの状況を克明に話すわけなどない。今日の出来事は全て秘密裏に動いていたのだから。それに言わないという事で情けない結果に終わったあのことも、少しは俺のプライドが保つというものだった。安っぽいプライドではあるのだが。
「う~ん、町でちょっと喧嘩をね~。カツアゲされそうになって、やり返してやったんだ」
「勝ったんだ?」
「ああ、もちろん!」
 嘘だけど、と心の中で謝罪する。言っている自分が情けなさ過ぎてどんどん心に響いている。
 また無言。
 雪が島津さんに降り注がないように俺は心持ち島津さんよりに傘を構える。俺の肩は雪で濡れるけれど、そんなものは男として当然なのだ。
 時間がゆっくりと流れていた。
 時間の感覚さえつかめないほどに。
 島津さんはひたすら無言だし、その理由にも思い当たるところはあるからそんな時に俺はかけてあげられる言葉が見つからない。
 息を吐く。
 雪の降る夜は特に寒い。そして空気が尖ったように冷たかった。口から出る息は雪の降らない日以上に白く具体的な形を見せる。これで小学生の時に遊んだっけか、そういう事を思っている時だった。
 ぎゅ。
 俺の服の裾を握りしめる微かな力を感じた。それはか弱い力だった。俺の大好きな人の力だった。
 島津さんは俯きながら言った。
「ごめんね、私、失敗したみたい」
 やはりそのことか。
「うんにゃ、いいよ。別に島津さんが悪いとかないだろう」
「ううん。駄目なの。私は謝らないと、次に会うときは笑顔で報告、したいって……いったじゃんかぁ」
「そうだね」
 俺はひたすらに聞いた。聞いて相槌を打って、その心の重みが少しでも軽くなりますようにと祈りながら。俺の裾を掴む悲しいまでの力が少しでも緩むように信じて。
「振られちゃった。ふられちゃったのぉ」
 嗚咽が聞こえる。泣いているのだろう。さっき自分で拭っていたのに。それなのにまた彼女は泣いてしまっているのだ。
 その涙を拭ってあげたいと思う。
 それでも俺には出来ないのかもしれない。
 誰にでも役目というものがあるだろう。それは誰しもが割り振られているもので、俺の場合は今回は島津さんの話をただ聞いてあげることなのかもしれない。その涙を拭うと言う事は俺の役目に入っていないのかもしれなかった。
 なんて無力なんだろうな。
 好きな子を笑顔にさせてやることも出来ない。その心の隙間を埋めることだって出来ないのだ。
 今おどけてみればいいのだろうか。ギャグでも言えばいいのだろうか。違う。どれも違う。俺は島津さんのぽっかり空いてしまったその穴を埋めてあげる術をしらない。
「ご、めんねぇ。私、やま、だ、くんに色々、助けてもらった、のに……なのにぃ」
「もういいよ」
 もういいんだよ。言わなくていいんだよ。黙って受け止めるから。俺には透がいる。いざという時に泣きたいときは肩を貸してくれる友達がいる。俺は島津さんにとってのそういう存在になりたいのかな。そう思った。
「泣けばいい。俺は友達だから。泣きたいときには黙って肩をかしてやる。それが友達ってもんなんだ」
 出来るだけ自然に見えるように。相手に心を悟られないように俺は笑顔を作る。
「うああああ、うああん、ぐず、うっ、……めんねぇ、ごめんねぇ」
 俺は今必死に我慢している。
 友達とか言うけど。でも俺はまだ好きなんだ。好きなんだ。好きすぎて、心が暴れだしそうだった。駄目なんだ。ここで暴れては駄目なんだ。心につきいるようなことは駄目なんだ。
 抱きしめたい、そう思う。
 愛おしい彼女を抱きしめて、その心の隙間すら埋めてあげられるように愛してあげたかった。
 なんでもいい。彼女が笑顔をになるための行動だったら何でもできるような気がした。好きだなら。愛ゆえに。俺は彼女を幸せにしたいから。
 最近思う事がある。
 男女にも友情はあり得るのかという事だ。それは恐らくあるのだろう。ただ、その境界線があまりにも曖昧なのだ。Likeとloveの中間地点。それが親友の定義なんだろうと思う。
 一歩踏み入れればそれは相手を愛しているということ。だから一般的に男女の間には友情は生まれないと言われているのかもしれない。
 今日は親友でも、明日にはその一歩を踏みこんで、好意の意味が変わってしまうかもしれないから。
 好きです。好きです。狂おしいほどに好きです。今すぐあなたをめちゃくちゃに愛したいと思う。でも、それは出来ないと分かっている。
 それは俺のことは友達と言うカテゴライズから抜け出せないから。俺は友達言う迷宮をずっとさまよい続けるのだ。出口のない友達と言う縛りの迷路を。
 それはある意味とても好ましいことなのかもしれない。
 ずっと片想いでいられるということだから。もしも告白して失敗したら友達と言うカテゴリーからさえも漏れてしまうと思うから。だからそれをしないためにも友達という言葉は随分と都合のいい言葉なんだろう。
 ただそれ以上を行きたい、失敗してもいいんだと思わない限りは。
 俺の場合は後者なのだ。もうそれ以上にも行きたい、常にそう思っているのだ。別に友達としていられなくなってもいい、最悪そう思う。でも、今俺がいなくなったら、この小さくて非力な肩を誰が支えてやれるというのだ。
 学校では学園のアイドルを演じている彼女がほんのちょっとの本音を出せるのが俺の前だとしたならば、そこから俺がいなくなることは、島津さんの本音の居場所を失くすことにもなる。
 だから。
 俺は島津さんには常に笑顔であってほしいと願うから。俺は諦めなければいけないんだ。
 たった一言「俺じゃ駄目なのか」って一言を言いたい。でも言えない。彼女を想えばこそ。
 男だろ。
 俺は男だろ。
 ならばこういうときはドシッと構えてやればいい。俺の横で好きなだけ泣けばいい、そういうカッコいい一言でも言えるようでないと駄目なんだ。
 最愛の人に、最高の友達として。
「いいさ。俺は友達なんだから」
 そう言って、俺は島津さんの頭を撫でようとして……いきなり聞こえた大声で心臓が飛び出そうになった。


「島津さん!」
 俺は伸ばしかけた腕を停止させたまま、そちらの方に振りかえる。そこには優佳先輩が立っていた。こちらも傘もささないままだった。
 一瞬だけ俺の方を向いて、だけどすぐに視界から外すと島津さんに駆け寄る。俺の肩から島津さんを引きはがし、無理やり立たせると思いっきり抱きしめた。
 えええええええええええ。
 俺は突然のことに呆然となる。外れそうな顎を元に戻すと、混乱する頭を元に戻そうとした。結果駄目だった。
 どうにも思考回路が元に戻りそうにない。そんな俺を置いてけぼりにして、目の前では話が続いていた。
「ごめんね、さっきは驚いちゃったんだ。逃げてごめん。だけどね、私気がついたの、私もきっと島津さんのことが好きなんだ。遅いかもしれない。でも、この言葉だけは言いたくて……」
「……先輩」
「島津さん……」
 あれ、ちょっとおおおおおおお。
 どういう事だこれはああああ。
 狂喜乱舞ならぬ狂気乱舞である。俺の頭の中は色々な感情が踊り狂っていた。もう訳がわからずにフリーズして止まる。どういう事だ。どういう事なんだ。俺が目撃しているこれは果たして現実か?
 もうこれが夢か現かそれすらも分からずに俺は頬をひきつらせた。
 あの……こういう大どんでん返しってありですか?
 試しに俺の心の中に聞いてみた。膨大じゃないかもしれない俺の記憶の倉庫から該当するものを引っ張り出す。
 検索結果。――アリじゃない?
 雪が降っている。ふわりふわりふわりと降っている。悲しいくらいに真っ白で、漆黒色の空に映えていた。
 なんだかな~。
 俺は八割がた思考機能を停止させたまま、音もなく立ちあがる。二人とも傘を持っていなかったろうからそれを置いて歩き始めた。後ろで何か言っている気がした。山田と言うよく分かんない単語を発しているようだった。
 やまだ?
 誰だそれは。
「ルールールールールールールールールルルルルー」
 なんだか失恋ソングが思い浮かんで思わず口ずさんでいた。
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『山田アフター~a secretスピンオフ~』




 本番である。今日は天皇の誕生日に続いてクリスマスイヴなのである。
「はぁ~、まじでさっぶいわぁ」
 息を吐くと限りなく白かった。まるで吐いた息が白い塊になって、そのまま固まってしまいそうな勢いだ。俺はコートを深く着込んだ。マフラーに顔をうずめる。頭はニット帽に守られているし、着込んだ服の数もかなりなのだが、見た目がもっふりなくせにやはり表に出ているところは寒くて仕方が無い。手袋が無いので軍手で来たのが失敗だったか。
 俺はこんなに寒くて仕方が無いのにオープンカフェにて過ごしていた。読みもしない新聞を広げて穴をあけてそこから先を見る。
 向こう側には美人二人が優雅にコーヒータイムを楽しんでいた。その表情は朗らかで幸せそうだった。
 その二人とはもちろん島津さんと優佳先輩のことである。
 俺はずずずとコーヒーをすすった。大きいサイズのエスプレッソを頼んだつもりが、エスプレッソとは総じて小さいもので、あまり納得いけるような量が入っていない。そして常に気をあちらの二人に向けているためか外気の急激な冷え込みにエスプレッソの温かさはあっという間に奪われていた。
 なぜこんなところに俺がいるのか。それは至極当然の疑問と言えよう。だがしかし、俺は島津さんのサポート役を買って出ているからして。これは必要ないわゆる“尾行”良い言い方で“守護”“警備”なのである。
 でもこれだけでは少し証言としては弱いだろうか。サポート、橋渡し役をしているのは事実であるが、今日のことに関しては完全に俺の独断であるという事を補足しなければいけないだろう。
 本来ならば島津さん公認で後ろからついていく、それが俺の最大限のサポートだと思っていたのだが、それは島津さんに一蹴されたのだ。その時のエピソードは時間を少々さかのぼり、昨日のことだった。
 俺は島津さんを帰り道に呼びとめて、そして決行すると言っていた作戦にちゃんと計画はあるのかと聞いた。すると島津さんの口からは「え? そんなものはあれよ、勢い!」と豪語されたので急いで考えを改めさせたのだった。
 蛇足かとは思ったが、俺は自分なりに島津さんと優佳先輩に合うであろうデートスポットをピックアップして、それを教えたのだが、最後まで島津さんは俺の計画通りにするつもりはないと拒否したのだ。その時に言われた言葉が今でも俺の胸の内に突き刺さっていた。
 ――私にやらせて! 山田君に頼らなくても、出来るって証明したいから。
 その一言で俺は身を引いたのであった。いくらなんでも、あんなに決意めいた目で見られては引かざるを得ないんだ。
 結局、せめて後ろからばれないようについて行くから、という意見も一蹴されたというわけであった。
 閑話休題。
 見たところ、結果的にはとりあえず、島津さんは俺が提案したルートを使っているらしい、という事はここまで来る経緯を見ればわかることだった。あんなに文句を言っていたのにである。
 まぁその方が俺はやりやすい、もとい、尾行がより潤滑に進むから嬉しいのだが。
 一度断られていることを内緒でやっているのだからばれないようにしないといけないのが最大のネックである。しかし、大丈夫だろう。今の島津さんには俺のことを感知するほど余裕があるはずが無い。
 俺がエスプレッソを飲み終える頃に二人は席を立った。故に俺も立ち上がった。そして行こうとして……、
「おまたせしました、お客様~」
 コトンと目の前に出されているのはベーコンエッグサンドである。さすがは喫茶店。香ばしい匂いが空腹を刺激して俺の視線は釘づけになる。先ほど朝ごはんを食べていないことに気づき、なぜだか頼んでしまった一品だった。というか注文していたことをすっかり忘れていた。
 くそ。トマトの赤とベーコンの程良く焼けた感じのピンク。そしてサンドにシャキシャキレタスが彩りを添えて、スクランブルエッグの黄色が映えていた。
 くそ~~~、なり止めこのお腹め。
 後ろでは二人が準備を終えて早々に歩き始めていた。やばい。ここで行かなければ見失うかもしれないじゃないか。食べたい。でもここで食べていたら。
「あの、お持ち帰りって出来ますかね?」
「はい! 少々お待ちくださいね」
 急いでいるからだろうか。満面の営業スマイルの店員がとっても恨めしく思えてしまった。
 いやしかし。楽しみだなベーコンエッグサンド。


 心持ちスキップしたいような気分で俺は尾行を続けていた。なぜスキップなのに尾行なのか。一見ちぐはぐに見える気持ちの理由は手元に抱えている紙袋が原因である。今でもベーコンエッグサンドのいい香りが俺の鼻腔を掠めて……。一緒に頼んだブレンドとともに早く食べたい。
 あれ、目的を忘れかけてるぞ。
 バチンと一回渇を入れるとまた尾行を再開した。
 前方五十メートル先くらいに二人はいた。今は手を繋いでとても楽しそうに見える。時折ちらりと見える島津さんの横顔も優佳先輩の横顔もそれは幸せに満ちているような感じがした。
 よかったな。
 俺は思わず感傷に浸ってしまう。まだ早いとは分かっているけれど、この過程までこれたことが俺にとっては嬉しいことなのだ。
 一回振られてしまったけれど、でも言い方は悪いかもしれないが、その子は本命じゃないようなものだったんだ。ずっと心にあり続けたのはあくまであの優佳先輩だった。そして俺という石橋を渡って今は先輩の隣にいるのだから。
 俺はその隣にはいけない。一番の望みは島津さんの隣にいることだけど、それは俺では無い。だから、俺は頑張りたいのだ。
 人はそれを自己満足というのだろう。でも俺はそれでもいい。
 ただ島津さんの笑顔を見れたなら。それで良いに決まっているのだから。好きな子のためにすることのすべてが、その子にとっての最良と俺は信じたい。傲慢な考えだけど、少しあり得ない自己中心と思われるかもしれないけど、そう思う事で俺はここまでこれたのだ。
 遠目に見る限りでは、性別こそ同じだけど、クリスマスを彩るお似合いのカップルに俺の目には見えるのだ。
 失敗もしてきたし、何度も止まろうとした足を動かして。そこには透や先輩は島津さんの助けもあったけど、ここまで来られたのなら後は成功するのを祈るばかりだ。
 人の気持ちに感情の総量が決まっていたのなら。今の俺は島津さんを好きな気持ちと同等かそれ以上の割合で今回のデートを成功してほしいと願っているのだ。
 二人は次の場所に向かっていた。


 ある程度色々なスポットをまわって現在は映画館にいる。今日見る映画はもちろん恋愛映画だ。タイトルは『Love falls in a quiet dream』というやつで、舞台は日本、上京してきたばかりの主人公がストリートミュージシャンのヒロインに会って恋をする話だ。
 気持ち悪いとか思うかもしれないが、一応趣味として読書もしている俺は恋愛家のジャンルが結構好みなのだ。
 中でも禁断の恋とか届きそうで届かないもどかしい距離を題材にしたものが好ましい。そしてその中でも一押しが『Love falls in a quiet dream.』というわけである。
 ちなみにチケットは渡しておいた。故に後は自由席なので、さっさと入ってさっさと見るだけなのである。しかし、島津さん。あれだけ力は借りないとか言っていたくせに、どれだけ俺の予定通りに動いているのだろうか。
 予定通りだと、この尾行が実はばれているのではないかと不安になる時だがある。
入場前にポップコーンと飲み物を買って二人は入場口まで来ていた。そして、島津さんが鞄を漁り、チケットを取り出そうとしていたのだが、次の瞬間大きな声が映画館に響き渡る。
「無い!」
 ビクリと肩を震わせてしまった。中々の声量である。なんというやつだろうか。誰だそんな声を出した奴は、ここは映画館だぞ……とそれは島津さんだった。
 様子を見る限りじゃ優佳先輩を置いてけぼりにして一人で完全にパニックになっていた。どういう事だろうと俺は目を凝らす。というかこの状況で「無い」の一言が出ると言う事はある程度状況を把握できるのだが。
 ふ~む。あれはチケットを失くしたか落としたな。
「はぁ」
 思わずため息が零れ出てしまった。いくらなんでも緊張しすぎだぜ島津さん。
 まぁしかし、このような状況でも実は想定内だったりするのが俺のすごいところである。
 自分で言うなと言いたい気持ちはわかるが、俺は実際に用意周到なのだ。何が付いてくるなだ。俺は最初からついていく気だったし、その時の準備と言うやつも出来ているのだから。
 俺はニットを被りこんだ。マスクを着用。伊達メガネで外見をカヴァー。コートは深く着込んで、首のあたりにはマフラーを巻いておく。そして注釈。俺は変態とかの部類ではありません。
 鞄からチケットの入った封筒を取りだした。これはもしかして失くしたり忘れたりすることもあるのかもと一応買っておいた予備用チケットだった。やはり買っておいてよかったと安堵する。
 さて、これを後はどう渡すかだが、それについても策はあるのだ。
 鞄からさらに取り出したのだ無駄に大きいスプレー缶である。表にはヘリウムの文字。そう、俺は今からヘリウムガスを使って声を変えて相手に近寄ろうという作戦だ。今時ヘリウムを売っているところが少なくて焦ったが、どうにか購入で来た一品だった。もし何か疑われても風邪をひいていることにすればいい。
 シューっと俺の喉にガスが侵入してくる。一瞬ゴホッとむせこんだが、なんとか大丈夫だった。
 さっそく発声の練習だ。
「あーいーうーえーおー」
 良し。いい具合に甲高い声になっているぞ。
 後ろで子供とその母親の「ねぇお母さん、あれ何ぃ?」「こら、見ちゃいけません!」というやり取りが気になるが、発声の練習は終わった。ここからはアドリブを効かせないといけないな。
 チケットを握りしめると、俺は一気に飛び出した。そして島津さんと激突する。持っていた鞄の中身をぶちまけて俺はお尻から地面に着地する。それなりの速度で行ったからお尻がやけに痛かった。
「いったぁ」
「すみません!」
 俺は甲高い声で言った。それなりに慣れていない声に自分で驚いて引いてしまう。いや、別に甲高い訳じゃなくてスプレーのせいだった。おし、本来はこんな変な声ではないのだ。
 すぐに自分の荷物を鞄にしまいこむと、さりげなく落としておいた封筒を拾い上げて、何気なくそれを島津さんに渡す。
「あ、これ落としましたよ?」
「え? でも私」
 困惑する島津さん。俺でもいきなり落とした覚えのないものを「落としましたよ」と営業スマイル張りの笑顔で言われたら引いて、もしくは逃げるだろうが、ここは逃がせないのだ。
 俺はその封筒を強引に島津さんに握らせた。いきなり手を握られてビクッと反応した島津さんだったが、そんな物は関係ない。さっさと握らせると、スプレー声で俺は言った。
「いえいえ、お気になさらずに。ではでは失礼!」
 だだだ!
 すばやく俺は走っていく。そして柱の陰に隠れた。今のは少し、いや大分不審がられただろうか。自分でも最後のセリフはないだろうと思っていたところだった。ただただ引いている相手に笑顔であんなセリフを吐きやがる奴がどこに存在しているというのだ。俺の知るところでは一人も……いや、俺くらいしかいないはずである。
 でもそれを補えるぐらいのものは渡したつもりだ。俺が島津さんに渡した時と同じ封筒にチケットを入れて、なお且つ中身は目下捜索中のものだ。もしかしたら自分のものかも、ただ、見つけられなかっただけなのだ。それを勘違いしてくれることを心から願う。
 その場で変装グッズを脱ぐとベンチに腰を下ろした。やはり慣れないことはするものではない。そう言えば俺はいつでも学芸会の時は後ろにいる木の役か大道具になっていた気がした。そんな奴がいきなりアドリブなんてハードルが上がり過ぎている。恐らくは月とすっぽんみたいな上がり具合だろう。間違えた引用が気にしない方向で行くことにする。
 やたら高い特別料金のお茶を自販機で購入して喉に流し込んだ。冷たい緑茶が食道、胃、腸と順番に冷やしていくのが分かる。しかし、なんでこう映画館の飲み物とは高いのだろう。もしかしたら、特別仕様にでもなっているのだろうか、という考えはすぐに捨てる。特別仕様になっているのは値段設定ぐらいなものだ。
 そんな時だった。またもや映画館には似つかわしくない大声が響く。
「やった! チケットあった!」
 それはよかった。
 俺はにんまりと一人で笑うとさらに緑茶を煽った。ん。このメーカーの緑茶はいいな。
 チケットが無事に行き届いたことを確認すると、俺は潰れないように置いておいたベーコンエッグサンドが入った紙袋を抱え込んで劇場に入った。

 ……劇場にて。
「うう。うっ。うああん……ぐすっ」
 俺は号泣していた。情けないと嘲笑すればいい。こんな展開誰が予想していたか。いや、原作を読んでいるから展開は分かっているのだが、大体の原作ありの映画というやつは総じて外れが多いと決まっている。しかし、だ。これは久しぶりに辺りが来たらしい。俳優女優も俺の思っていたイメージ像に近いし、演出もいい。これだけ原作を忠実に再現できるものは珍しくて素晴らしい。
 特にストリートミュージシャンが夢を叶えてプロになったが、親が病気になり、海外に移植手術を受けることになった、そしてバンドを解散しなければいけない、その解散ライブの時の映像が涙をあふれさせた。
 終わっちゃう。
 この次のフレームを歌う時に。
 このサビを歌い終えたなら。
 終わっちゃう。
 私の夢が終わっちゃうんだ。
 もっと歌っていたい。
 もっと楽しんでいたい。
 終わらないで私の夢。
 神様。いるのならば聞いてください。この時間が永遠にであることを……。
 そして演奏は終わるのだった。
 崩れ落ちるヒロイン……。
 その場面が俺は一番好きだったのだ。片手にはベーコンエッグサンドを持って、片手にはコーヒーを持ちながら食べて泣いて、泣いて飲んで、時々鼻をかんで映画に見入っていた。隣の隣のおっさんが変な目で見てきたが、そんなものは知ったことか。
 そして結局、島津さんと優佳先輩の様子を見ることなく、映画は終了した。
 泣けた! あれは最高の映画に違いないぜ!
 あれ……何やってんだ俺は。
 なぜだか俺の心の中の感動成分が十分に補給されていた。


 いよいよデートも最終フェースにさしかかる。
 映画館を出た二人は次には夕食後に公園に行くはずである。何せ今までの流れが全て俺の計画したプラン通りだからだ。何度も言うようだが、島津さんはあれだけ俺のデートプランは使わないとか言っておいて、丸々計画通りなんだから少しだけ頭に来ないこともない。しかし、そのおかげで今日は俺が楽を出来たから良しとしよう。
 ちなみになぜ夕食の後に公園なのかと言えば、夕食はもちろん、映画の内容を確認するための場として設定してある。少しオシャレ目でしかし、形式ばっていない流行に乗っているお店をチョイスして予約までしておいた。そしてそれで盛り上がった後に熱が冷めないうちに公園にて語らってもらう。その時に告白タイムなのだ。
 今日のデートプランに置いて一番ポイントなのはぶっちゃけこの二点だけだ。他のものはいらないのかと聞かれればそれはもちろんノーである。今までの過程はあくまでもモチベーションを上げるためのもの。そして、より親密に二人の空間を作るための通過点である。故に無駄な場面などどこにもない。そして島津さんが忠実にそのプラン通りに事を進めているので、とってもグーな状態なのだ。
 島津さん達はやはり俺の予約しておいたお店に入る。店には島津で予約しておいたために何の問題もないはずだ。料金的にもリーズナブルなものを選んだために食事もしやすいはずである。
 そして俺はと言えば。
 現在そのお店の出入り口がちゃんと確認出来てなお且つすぐに行動に移せるように向かいのお店の一階、テラス席にて夕食を取っている。今年のクリスマスの夕食はファーストフードである。しかし、悲しむことなかれ。奮発してクリスマス限定のチキン多めの高いやつを頼んでおいた。懐は限りなく寒いが、気持ちはなんとなく悦に浸っている、という事にしたい。
 チキンを食べながら向かい側に目を凝らす。微かに見える二人の姿はまさに幸せ全開だった。しかし、それは双方向に向いているわけではないことが残念でならない。なぜならば、島津さんは恋人と語らっているような時間を過ごしていると思っていても、優佳先輩は可愛い後輩と一日遊んでいるとしか思っていないだろうから。それが唯一心残りで、思うたびにズキンと心が痛んだ。
 やはり早すぎるだろう。
 そう思えてならない。
 たった一ヶ月にも満たない二人の関係は、上っ面は良いかもしれないが、それはとても脆くも崩れやすい存在なのだから。
 もしもだ。
 こんなことは考えたくもないけれど、島津さんが失敗した時に。俺はなんて声をかければいいだろう。いや、声をかけることなど出来るんだろうか。触ればすぐに粉々になってしまうような繊細な心をどう俺は受け止めることが出来るだろうか。
 男として?
 友達として?
 振られること、それが俺にとってのチャンスと思っていいのだろうか。激しく疑問である。出来ればそんな付け入るような行動は慎みたいのだが、もしも、それが現実に起こった時に。俺はきっと抑えることが出来ない。それは、それほど俺が島津さんを好きだと言う事だから。
 コーラの炭酸が喉に染みた。シュワワワワと。出来ては消えていく泡のように。俺の心の壁は壊れやすい。泡沫のような壁はきっとそんな島津さんを見て崩壊するだろう。それをどうこらえるのか。もしくはそのまま身を任せるのか。
 う~ん。
 こんなことは考えていても仕方が無いだろう。
 俺は頭を振る。そんな時により一層寒くなってきた。これはそろそろ降るのかな。
 今日の天気予報を思い出してみる。それは確か、夕方から夜にかけて降水確率は七十%を超えていたと思う。そしてそろそろ夜になる。
「さみぃ」
 二人は楽しい時間を過ごして、俺はクリスマスに一人でこんな寒いテラス席で夕飯を食べている。なんだかとっても情けない気がしてならない。
 あーあー。
 彼女がいたらなぁ~。
 何か変わるのかな~。
 でもそれはきっと。島津さんじゃないんだろう。
 もし出来たとしても、隣に彼女はいないのだ。
「はぁ」
 一回ため息をつくと、俺は食い終わったごみを片づけて、尾行に備えた。
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5

『山田アフター~a secretスピンオフ~』


 冬というものは一日寒いものであるが、それでも、それは日が出ている間には少しばかり軽減されるものだ。しかしそれは日が暮れれば厳しい寒さへと変貌する。
 俺と先輩は北風がびゅうびゅうと人間なんかに構わずにじゃれ合っている住宅地を歩いていた。お互い、そこまで家の距離が離れているわけではない。俺の家から先輩の家に行こうとするならば、それは大体十分くらいで行ける距離なのだ。
 マフラーに必要以上に顔をうずめた。そのせいで視界は半減し、危うく、犬のフンを踏みそうになって慌てて避ける。寒さのせいで関節がパーになってしまって、馬鹿みたいに動きが鈍かった。
 二人は無言のまま歩みを進める。別に気まずいとかそういうのじゃない。この沈黙はおそらくは寒さのせい。ただ寒いから口数が減っているだけだと思いたい。
 優佳先輩を横目に見てみる。先輩は白い息を弄びながら寒さに凍えていた。生憎家まではまだ少しばかりかかる。そんな時だった。目の前にコンビニが一軒見えてきた。俺が通る通学路のちょうど中間地点くらいに立っているコンビニだ。比較的住宅地なこの場所に大手チェーンのコンビニが建っていることはこの近くの住人からしてみればとてもありがたいことだ。故に毎日大盛況なのである。
「あの、寄って行きません?」
 俺が言うと、先輩は振り向いて、あははと笑った。
「だね、私も考えていたところなの」
 ヴィーン、と自動ドアが開く。その瞬間に店内に入れた腕から順に、膜の中に入るかのような幻覚に襲われた。暖気が腕から順に体を覆っていく感じである。そして俺と先輩は暖気のベールで回復を行うと、次にレジに向かった。先輩には店内に設置されてるカウンターの席を取ってきてもらっている。
 何を頼もうかなって考えてみて、やっぱり冬にはこれだろうと肉まんを二つとあんまんを二つ注文した。ドリンクはもちろん、某会社の炭火焼コーヒーに決まっている。優佳先輩にはコーンポタージュだと支離滅裂ッぽいから無難にお茶にした。
「ありがとございました~」
 店員の元気なあいさつに背中を押されつつ、カウンターに赴く。先輩はこの暖かさで体が弛緩してしまったんだろう、頬杖をついてウトウトと夢の世界にオールを漕ぎだそうと躍起になっていた最中だった。
 しかし、こんなところで寝てもらっては困るので、とりあえずおこしにかかる。先輩は寝ぼけ眼で「あう」と俺を見た。
 こういう時にふと見せる“女の子らしさ”っていうのに、やはり俺はドキドキしてしまうのだ。悔しいが、島津さんを好きになった今でも、それは思ってしまう。普段が大人な感じのお姉さんキャラな優佳先輩だから、余計にそのギャップにキテしまうのか。一瞬流行る熱病みたいなそんな感覚だ。
「これどうぞ」
 少しだけ動揺した自分が憎らしい。俺は心の中で咳払いをしてから席に座る。先輩は肉まんとあんまんと飲み物を受け取ると、ほんわかした表情で「ありがとう」と言った。
 ふた種類の裏についている紙を見て、にふふん、と先輩はニヤける。
「山田君、わかってるね~」
 冬にはやっぱりこれよね、と紙をはがしてハフハフと食べ始めた。俺はそんな先輩を横目に頭の中でイメトレをしてみる。これから話そうと思っているからだ。実際、こんな話をコンビニで話すとかどんだけデリカシーに欠けるんだよ、と思うかもしれない。しかし、考えてみれば、これ以上の好機は無いと思ってしまった。
 暖かくて、食べ物食べて緊張感のない今だからこそ、それが実行可能なのではないかと。
 もちろん、周囲には人をいないことを確認した後に、小声で言うつもりだが、とりあえず、ここで言えなかったらもう言えない、そんあ使命感にも似た感覚が俺を包み込んだのだ。
 でも言う前には緊張してしまうもので。今にも心臓やらが口から飛び出して大道芸をしてしまう勢いの緊張感に苛まれる。人と書いて何回も飲み込んだ。効果はないけど、書くと言う作業に集中できるからだ。
 それでも集中は解けないので、手元の肉まんをひと思いに被りついた。そして、中身はまだ熱々だった。
「あっつぃ」
 俺はハフハフと空気を取り入れて冷まそうとするも、コンビニの中は暖かいので、そんなに冷めた気がしない。コーヒーを飲むことも考えたが、いかんせん、あれは温かい飲み物だから逆効果だった。
「大丈夫?」
 食べる作業を中断して先輩が先輩そうに覗きこんでくる。俺はそれを手で制して言った。
「大丈夫っす。考え事してて」
「考え事?」
 先輩は首を傾げて、やがて手をポンと合わせた。胸を張ってにこりと微笑む。
「それならお姉さんが相談に乗ってあげるわ。なんでも話して御覧なさいな!」
 好機だ。そう思う。これ以上の好機はあるまい。口中のやけどはもちろん、想定外ではあったが、これで地盤はできたというもの。俺はいよいよ本番に突入した。
「そうですか、なら聞いてほしいです……」
 心なしか心臓の動きが速くなった気がする。握る拳は汗に濡れ、目の焦点はぶれ始める。流れる血液は加速したようになった。全身の細胞が緊張を伝えている気がする。
 何で自分がこう言う役回りなんだろう。損な役回りな気がしてならないのだ。でもしかし、これは島津さんの気持ちをダイレクトに先輩に言う事ではない。ただ、遊びの約束を取り付けるとか、仲良くなる手助けをするだけなのだ。
 故にこんなに緊張する必要性は皆無だが、それでも緊張してしまうのは俺が島津さんの本当の意味での気持ちを知ってしまっているからだろうと思う。
 動け口。
 動け声帯。
 頑張れ俺の体。
 俺は勇気を振り絞る。そして言った。
「あの、先輩と仲良くなりたいって奴がいて。そいつと先輩の橋渡し役を頼まれたんです」
 我ながら言い方のセンスが無いと思う。しかし、言い始めたらしょうがない。人生にはリセットボタンはない。それくらいは分かっている。
「男の子、なの?」
 先輩は首を傾げた。そう言えばそうだ。それくらいは疑問に思って当然だろう。男子がか仲良くなりたいからって言ったらそれはもう、下心アリと見て間違いないだろうから。しかし、女子の場合は事情が違ってくる。仲良くなりたいはそのまま、仲良くなりたいという意味で通じるだろう。まぁ、島津さんの場合は例外であるが。
「あの、島津麗佳っていう……」
「まぁ、まぁまぁまぁ。あの島津さん?」
「……え? ああ。そうですよ」
 俺が言い終える前に先輩は口を開いた。その声の感じからは警戒の色は感じられない。さすがは学園のアイドル。その名は先輩の耳にきっちりと届いているらしいのだ。その言葉は俺の緊張を和らげてくれた。もう後は言うだけなんだ。
 心に念じた。俺は島津さんを助けたいんだ。俺は島津さんの手伝いをしたいんだ。
 心に移すのは島津さんの笑顔だった。あの笑顔のためならば、先輩ごめんなさい。
 俺はなぜか謝って言った。
「島津さんと仲良くしてやってくれませんか? 遊びに行ったり、色々したいなぁって言ってたんです。あいつはとってもいいやつです。いい笑顔で笑うんです。見た目は少しとっつきにくいかもしれないけど、でも、いいやつだから。絶対に仲良くなれると思うんです」
 いつの間にか結構感傷的になっている自分が笑えて来る。島津さんの顔を思い浮かべたら、想いが溢れて来たのだ。いつの間にか店内のBGMは消えていた。いや、集中しすぎて聞こえなくなっていた。
 とても好きなのだ、島津さんのことが。
 目の前にいるのに、でも、その気持ちを知っているから。俺はあくまで島津さんに
笑っていて欲しいから。そのためなら、俺は自分の心を押し殺すくらいは簡単だ。あのぬるま湯に浸っていたいと言う気持ちもある。
 あんなに近くで喋れるんだ。一年の時はただの憧れだったあの子と。一回冷めてしまった気持ちも、本当の心に触れているだけであっという間に熱く燃え上がる。
 好きです。
 笑ってる貴方が好きです。
 寂しげな顔も好きです。
 貴方が好きな人のことを話している時も好きです。
 全部が好きです。
 でも叶わないんです。
 決して表に出ない言葉だった。でも、言葉に乗せた。全てを乗せて、全てを伝えたいから。
 客観的に見たら、とても異常に見えるかもしれない。俺が喋る言葉は想いが詰まりすぎていた。重いかもしれないし、知らない間に熱弁をふるっているかもしれない俺は気持ち悪いやつだろう。
 でも言葉が止まらないんだ。もう誰もがこの気持ちに気づいても仕方が無いんじゃないかってくらいに心が暴走するんだ。
 言いきって、そして俺は目をつむった。目を開けるのが怖かった。やがてBGMがまた聞こえ始める。今流行りのメジャー女性歌手の歌だった。CMで聞いたことがある。手は汗で滑る。背中も緊張で攣りそうになった。何も聞こえない無言の時間が怖い。相手がどういう風に見ているのか。つい悪い方向にばかり考えてしまう。
「ん~、山田君が、そう言うなら」
 え、俺は恐る恐る目を開けた。
 目の前にはいつもの包み込んでくれるような優佳先輩の顔があった。
「今なんて」
「私ね、山田君のことは一年の時から知ってるよね? だからね、山田君のこと信用してるの。だから、山田君がいい人っていうなら。それは本当にいい人なんだね。だからね、私は島津さんとお友達になれるように頑張ってみるよ? だからそんなに辛そうな顔しないでよ」
 呆然とする俺の頭に、そっと先輩の手が乗った。柔らかい手だった。温かい感触がした。撫でられて、俺は心から休まった。いやしかし、俺はやはり、そんなに変な顔していたのだろうか。恥ずかしくて、穴に入りたいとはこのことだと思った。
 先輩は手を離すとお茶をひとすすりする。店内から外をぼーっと見ながらつぶやいた。
「大切な、お友達なんだねぇ、山田君にとっての」
「……はい」
 好きな人、とは言わなかった。恐らくは分かっているんじゃないだろうか。優佳先輩には不思議なところがある。ぽけーっとしているところがあると思えば、何もかも先読みしていそうな時があるのだ。人の感情を敏感に感じ取って。だからこそ、周りから常に慕われるのだろう。
 俺は携帯を取り出す。
「では、島津さんのメルアド送りますよ」
「ん、お願いです」
 笑顔で先輩はそれに応えた。
 あーあ、言っちゃったな~。
 先輩の横顔を見ているとそう思う。
 さんざんやらかしておいてなんだけど、今さら先輩に言ってしまったことを後悔してしまう。だって、言い方は変かもしれないが、こんなに女神みたいな先輩と島津さんはとってもお似合いの二人だと思ってしまうから。
 ここまで来たらもう、上手くいってほしい。俺は思った。この二人が上手くいくように、これからの俺が作る橋は何よりも頑丈にしていこうと。
 クリスマスの時が近づいていた。



 なんだか疲れた。俺は教室の自席でうだっていた。全身の力が抜けて、何もする気が起きないというやつだ。
 相変わらず教室は賑わっている。休み時間という事もあるのだろうが、人の喋る声が耳に響いてうるさい。でもなんだか疲れているから動く気にもなれない。これは完璧駄目人間ではないだろうか。
 俺はそんな衝撃事実に気づいて驚いてみた。なんだかスリルを求めすぎて燃え尽きたみたいになっていると自負しているのだ。禁断の恋に手を貸すなど、俺には到底慣れない仕事のはずだ。しかし。好きな人のために頑張った。頑張ったのだ。という事はだ。もう頑張らなくてもいいんじゃないか。毎回のように自分の気持ちが変わっていくのが情けないと思うのだが、正直、これ以上応援したら自分がどうなるのか見当もつかない。
 さすがに廃人間にはならないと思うが、少なくとも女性恐怖症になるのは免れないかもしれない。そして俺は再びネガティブ人間になり、ついには外でもその状態を維持し続けるようになる。
 透は幸野と結婚をして、俺から離れていく。友達も彼女もいない毎日。やがて荒んだ心は俺の足を富士の樹海へと導くのであった……。
 うあ、とっても恐ろしい最後である。こんな最後は嫌だ。てか、そんなことを考えつく俺が嫌だ。いっそのこと、小説家としてデビューを考えるのもいいかもしれない。この自問自答や妄想を小説の世界へと投影し、その中では俺はハーレム状態の告白されまくりなのである。みんな美少女や美女で俺はある意味女難の相に苦しめられるのだ。そんな生活してみたい。
 目の焦点が定まらない。それだけ全身の力が弛緩しているということだろうか。もうこのまま寝ていようか。それとも帰ってしまおうか。生憎外は雨が降っていて帰るのも面倒だと思わせるような降り方だった。考えようによってはこの雨のせいで俺のネガティブに磨きがかかっているのかもしれないと思わないでもない。
「おいおい、大丈夫かよぉ」
 透が話しかけてきた。どうやら幸野がトイレに行ったらしいのでこちらに来たらしい。リア充には一生分からない話題だろうよ、俺は心の中で毒づき、そして顔も上げずに言った。
「大丈夫じゃないやい」
「なんかあったの?」
「知らないやい」
 もう何かも投げやりである。適当に言って、その時間を潰せればそれ幸い。こんな時間つぶしに付き合ってくれている友達に感謝である。
「はぁ、おまえ何なんだよ」
 一回ため息をつくと、透は俺の肩に手を置いた。
「悩み事か?」
「うん」
 傍から見たらとても子供っぽい態度をとってしまった。まるで拗ねた子供ではないかと思うが、今さらその行動はキャンセルできない。こういう廃れた気持ちになるとどうしても子供っぽくなっていけない。それで母性本能でも刺激して女子が寄ってくればいいのに、と思うけどもそんなのは夢でも叶わないことは分かっているさ。
「なんだよ、俺でよかったら話してみろって」
 優しい言葉が胸に刺さる。なんというか、優しいのに優しい言葉なのに心に深くえぐりこんでくるような、そんな感じ。
 ああいう言葉とは時として受け止めるネットであったり、包み込む毛布にもなり、そして受けた人を傷つける鋭利なナイフにもなりうるのだ。
 言いたくない。だって、それを言ってしまえば俺は認めることになる。俺がもう叶わない恋をしていることを。俺は理解しなくちゃいけない。もう届かないところにいるんだと。認めてしまえばいいのかもしれない。こんなに嫌な気持ちが蓄積するくらいなら。くすぶって、自分でも触ってしまえば火傷をしてしまう。そんな心の痛みをさらけ出せば。
 それでも。優佳先輩と島津さんが付き合ってしまえば俺と彼女を結んでいた線は切れるだろう。それだから、この二人だけの秘密が最後の一本だから。だから。
「俺はね、もう恋なんてしたくない」
 それだけ言うのが精一杯だった。カッコいいセリフを吐きたかったわけじゃなかった。クサイことを言うつもりでもなかった。でも、絞り出た言葉。
 もう臆病になってしまったのだ。完璧に、人に恋をすることが。怖い。また自分が恋した人には、俺が絶対に叶わない壁が立ちふさがるんだろうと思うと。もう怖くて仕方が無い。
「山田……」
 視線を向ければ透は心配そうに俺を見て、そして、
「ごめん!」
 俺は教室を飛び出した。


 カシュッとプルトップを開ける音が響く。俺はまた階段の所に座り込んでいた。ここは俺の最後の居場所なのかもしれない。一人でいられる場所。ここでなら仮面をつけなくてもいいのだ。いつもの根暗な自分でいられる。
 人は必ずしも仮面を持っているだろう。俺然り、他の人もだ。そして疲れるのだ。演じることに疲れ果てて、そしてやがて、崩れる。
 俺はその崩れるポイントが早いのだろう。それは基盤が弱いからか。崩れてしまえば、どうしようもない感情をどこにぶつけていいのかわからなくなる。悲しみ、怒り、どれも違った。喜びはあり得ない。何もあり得ない。全部が混ざり合ったような気持ちの悪さが体を支配する。
 混沌とした感情はぶつけどころが分からないから。
 何であんな人を好きになってしまうのだろう。何で早く忘れることが出来ないのだろうか。もうあの人は学園のアイドル、そういう境界線をつけてしまえばいいじゃないか。そして俺は、そんな島津さんを遠くから見て、他の男子と可愛いねって言い合っていればいいのだ。
 そうすれば何もかもが問題ない。何もかもが解決するじゃないか。
 時が解決してくれるよりも早く解決したい心の闇がうごめいた。
 この階段という空間の隅にある暗がりが俺に共鳴してその色をより一層漆黒に染め上げている気がしてならない。このままいっそ、この闇と同化できたなら。それならこんなに苦しまなくて済むのに。
 今は感情があるのが苦しい。
 人形になりたい。無機物になりたい。消えてしまいたい。
 初めて島津さんの本心を聞いた情景がフラッシュバックした。
 耳を澄ませば外には雨粒の地面に落ちるザーザーという音がずっと聞こえてくる。その音に混じっていくかのような気がした。落ちる雨粒が自分で、どんどんと暗い気持ちに自分が溶け込んでしまいそうな、そんな感触に。泥だらけの地面になじんでいってしまそうな錯覚に襲われて。そんな時だった。
「あ、いた!」
 虚ろな目を向ける。そこには島津さんがいた。コーヒーを二本持って。
「どうしたの、暗いよ!」
 隣に座って、俺に一本差し出す。いつも飲んでいる俺の大好きな味だった。なんて残酷なんだろう。誰のせいでこんなにブルーになっていると思っているんだ。
 当然相手には分からないだろうが、心の中で毒づいた。しかし、なんだろう。本当に残酷なことだ。さんざん俺の心をかき乱して、昇天させて、頂上まで行ったところで突き落としたのに。そして今もなお、俺の目の前に現れて、俺を苦しめ続けるのに。
 ――もう俺の目の前に現れないでくれ!
 その一言が言えなかった。否、言いたくなかった。相反しているのは分かっている。そういう気持ちが矛盾なのだろうと言うのも分かっていた。でも、それでも。
 泣きそうなほど切なくなる。こんなに苦しいのに、嫌なのに、島津さんの顔を見ると、オレンジ色の感情が漆黒に差し込むから。
 何でだろう。何でこんなに好きなんだろう。
 今絶対に言えることがあるとするならば、俺は恋に恋をしているんではないという事だ。こんなにも一途な自分に同情すら覚えてしまう。俺は多分、重い考えの奴なのだ。
「あ、一本飲んでたか……ごめん、これは私が」
「いいよ、ありがとう」
 差し出された一本を手にとってプルトップを開ける。今さっき聞いたのと同じ音が階段に響いていた。
 俺は呆れるくらいに好きになった島津さんを横目に落ち込む。
 さっきまでは絶対に会いたくない。もう闇になりたいとさえ思っていたのに、いざ彼女が目の前に来れば温かい気持ちが体を包み込んで、さっきの暗い気持ちを覆い隠してしまったから。
 なんて現金で、なんて馬鹿正直な心だろうか。
 矛盾していることにいい加減気づけよ馬鹿野郎、俺は自分の心にそうどなってみる。当然のことながら相手方から返事はない。
「ねぇ、山田君」
 優しい声が耳に届く。穏やかな春先に吹くそよ風のような声だった。
「まずは言わせてほしいの。とっても、とっても有り難う」
 でね、と。
「山田君のおかげでね、先輩と仲良くなれたんだよ。山田君が言ってくれて、もう四日が経つけど、毎日のように話しているの。しかも驚くことにね、先輩から来てくれるんだよ。だから、お昼とかも一緒に食べたりもするの。何で来てくれたんですかって聞いたことがあるんだけど、先輩は「大切な後輩の頼みだから」だって。ちょっと嫉妬しちゃったよ」
 俺はそんなに想われている先輩に嫉妬しているさ。
 そう思いながら続きを聞いた。
「もう幸せいっぱいなんだ。そして感謝してるのよ。あの時、最初に会ったときね、何で私泣いてたと思う?」
 もうこのまま話が続くとばかり思っていたから、俺は準備が出来ていなかった。そういえば、もう忘れそうになっていたが、俺と島津さんが話すようになったのは、あの日、俺が島津さんの泣き顔を見たからなのである。その理由は知らないし、聞きたいとも思わなかった。そして島津さんとの時間を過ごすうちに、楽しすぎて、そんな物はすっかり忘れていたんだ。
「私は、その時に一人の女の子に恋をしていたのよ。そしてその子に振られてたの。だから、悲しくって泣いてたってわけよ」
 思わずぽかんと口を開く。
 だってそれくらいに驚いた。島津さんが以前にそんなことを経由していたなど、知りもしなかったからだ。しかし、その事実があるならば、学校に少しは広まっててもいいはずである。でもそれが広まっていないという事は。
「その子ね、とっても真面目で誠実な子だったから、言わないって言ってくれて、でも、もう話しかけないでくれって言って……」
 俺の疑問に回答するかのように島津さんが言った。
「それで私は本当に絶望してたの。悲しすぎて、もうどうしようもなく悲しくて。いつも私は優等生なキャラでいるはずだった。“学園のアイドル島津麗佳”であるいうことは一応自覚していたから。みんな言うから私はそうなる、だけど、そんなことも振られたショックには敵わなくて。
 分からないまま外にいつの間にか出ていた。そして泣けるだけ泣いてた。誰にも見られてないと思ってた。見られてたんだけど。
 最初は頭に来たわ、だって、山田君のせいで、私のイメージは全て崩れるって思ってたから。それでも、今はそれでよかったと思ったんだ。知り合ううちに、先輩と山田君の接点を知って、思い切って言ってみて、山田君がやってくれた。そのおかげで今の私がいることが出来た。だから、ありがとう、心から感謝してるの」
 そこまで言ってから島津さんは深呼吸をする。俺は何も邪魔はするまいと思考すら半分停止させて、それを見届けようと思った。
「だから、私はそんな山田君の努力にも、私に対してくれた誠実さにも報い入れなきゃいけないの。ゆっくりなんて駄目。きっちりとケリをつけて山田君に笑顔で報告したい。今度は泣き顔なんて情けないところ見せたくないから」
 でね、と。
「クリスマスに遊びに行く約束を取り付けたわ。一日使って遊ぼうって。だからね、私はその時に、先輩に告白するつもりなんだ」
「え」
 ちょっと待て。いくらなんでも早すぎるだろう。そういうことは、しかも、島津さんみたいに他の人とは違うデリケートな問題の時は特にそうだ。もっと時間をかけて、じっくりと相手の気持ちを探っていかなきゃいけなんだ。そうじゃなきゃ、また泣いてしまう。心が傷ついて、今度こそ再起不能なまでになってしまうかもしれないじゃないか。
 見たくない。島津さんの泣き顔だけは見たくないんだ。
「それは早すぎる! 俺のことはもういいから。だからもっとじっくりやってくれよ。失敗したらまた傷つくことになるんだぞ?」
「もう決めたことだから」
 島津さんは空き缶を持つと立ちあがった。
「とにかく今日はね、このことを言いに来たのよ。だから、ね?」
 階段を駆け降りた。そして振り返り、島津さんは一言だけ叫ぶ。
「成功するように祈っといてよね!」
 そういうと島津さんの姿は見えなくなった。俺は思考停止した脳味噌に渇を入れる。再起動した頭を駆使して考えた。
 もう落ち込んでいることすらできなくなってしまったようだ。
 もちろん、悲しいさ。でも、一番は。
 島津さんの顔を改めて見て一番大切なことを思い出したのだ。それは、
 ――島津さんを泣かせないこと。それが俺の青春だということだった。
 ああ、もう!
 何でこんなに忙しいのだ。俺は俺で落ち込んでいたかったのに。もうちょっとくらい悲劇のヒーローを演じさせてくれていてもいいじゃないか。しかし、こうなったらしょうがない。
 俺は空き缶を二つ持つ。
「生憎だけど俺はね……」
 祈ることが苦手なのだ。俺はただ応援する方が似合っている。それくらいは理解しているつもりだから。
 だから心の闇は少しだけ引出しにでもしまっておこう。全てが終わった時に、まだそこにあれば心に散りばめればいいことなんだとそう思ったんだ。
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『山田アフター~a secretスピンオフ~』




「はぁ~」
 ため息が出てしょうがない。これでは売り切りワゴンセール状態ではないか。でも買う人はいないだろうけど。
俺はいつものように階段でコーヒーを飲んでいた。今日はなんだか朝から憂鬱な感じなのでブラックで攻めてみる。う~ん、やっぱり豆から挽いて自分で作ったほうがおいしいのか、とそれを言ったら立場が無いことを思ってみる。
 今日は生憎の雨で、この時期の雨と言ったらとんでもないくらいに寒いし冷たいものである。学校に来るまでで鬱っぽくなって、学校に来ても結局はあのことを思い出してしまってまた鬱になる。
 このままでは学校でも俺は根暗なままになってしまう。
「はぁ」
「あ、ここにいたか」
 前から、正確にいえば下から声がした。声のした方を見ると、そこには透がいた。なんだか少し気分が向上する。今は島津さんに合わせる顔が無い。きっと会ったら俺は窓から飛び降りたくなるに違いない。というかここは秘密の場所のはずなのに、意外と発見される率が高くて残念な気持ちになった。まぁしかし、片っ端から探せば見つかるのが道理というものか。
 透は俺の近くまで来ると顔を覗きこむ。今は鬱まっしぐらなはずだから見ても面白くないはずだ。いや、いつもは愉快な顔をしているわけではないことを補足しておこう。今のままではいつも大道芸で顔芸しているみたいな意味になってしまう。
「あのさ、お前、委員会は? 今日あるんだろう。委員長が教室まで来てたぞ」
「え?」
 すっかり忘れていた。今日は会議の日だった。でも行きたくない気持ちが約九割と飛んで限りなく十割に近い値なのだ。足を動かそうとすれば、足が大地にへばり付いてとれない感じだ。このまま足だけ置いていくのもありなのだが、そうでもすれば俺が人間でないことがばれてしまう。と思ってみるも俺は人間だということを思い出した。
 これはかなり重症である。こんなバカみたいな妄想と現実が曖昧に入り組んでしまっているような現状では普段の生活にすら支障が出そうだ。
 それに、
「行きたくね~」
 行ったら行ったで優佳先輩と顔を合わせなければいけなくなる。島津さんとの約束を果たすために俺は今から同性愛専門の恋のキューピッドになるわけだ。俺の放つ矢は理性のせいで見当外れの方向に当たってしまいそうで怖い。それがもし、男同志に当たってしまったなら……。
 ぞ~っと背中に寒気が走る。思わず、誰も入れないような花園の中心にチューリップやコスモスの中で抱き合うマッチョな男を二人思い浮かべてしまったからだ。そしてそいつは二人ともつぶらな瞳で抱き合いながら俺に言うのだ。
「「ありがとう、山田君。君のおかげで僕たちは結ばれたのサ☆」」
 おろろろろ、と今すぐに吐きそうになった。それならばまだ女性同士の同性愛の方が禁断の花園って感じで名前的にも良さげな気がした。しかし、相手が相手でないのならばという前提においてだ。
 憂鬱。ひたすらに憂鬱。でも行かなくてはならないジレンマが俺の周りを蚊のように飛び回った。
 今すぐはたき落としたいが、そんなことをやってはこれから先で大変なことになりそうだ。ここは、素直に行くしかないのだろうか。うん、俺に拒否権など最初から存在していないのだ。
「わかったよ……。行くよ……」
 よっこらせと立ち上がって、陰鬱な気持ちで階段を下りた。我ながら、いつまであの空気を意識しているのか嘆かわしいが、まぁそれはあれだ。察してほしいと誰もいない空間にテレパシーを送ってみた。壁は何も反応しない。もしかしたら、壁が「しゃあねえなぁ」と言ってくれるのを期待していたのに。嘘だけど。
 横では透が歩いてくれていた。頼んでもいないのに、鞄は俺の分まで肩にかけて。そこはとても男らしい。しかし、鞄も持てないくらいに心が衰弱していると思われているのが少し腹立たしいと思うところだ。本当ならば教科書の一冊だって持ちたくない。
 リノリウムの廊下にキュムキュムと上履きが微妙にゴムのような繊維を踏む時に出る音が木霊する。時刻は一応授業終わりだ。廊下の窓から外を一望すれば、灰色一色だった空に一筋に切れ込んだ空の朱色。視線を少し移動すれば、和気藹藹と帰っている生徒が見て取れる。
 空気は相変わらず冷たくて、空は灰色で、まだ少し雨も降っているかもしれない。なのにああやって楽しそうなのが羨ましい。ああいう輩はきっと日々が充実しているのだ。いわゆるリア充というやつだ。俺は一生リア落で過ごすに違いないだろう。
 ちなみにリア落は俺の造語である。リアル落ち込んでいるの略だ。自分にとっても似合うと思って作りだした言葉だった。きっと流行語大賞山田部門にて大賞を取るに違いない。今のうちから礼服揃えないとなぁ。
とどうでもいいことを考えて現実逃避を無意識に行っていたことに驚いた。自己防衛機能が精神にのみ働いていたということか。
「何があったんだ?」
 透が不意に話しかけてきた。歩く速度はそのままで、振り返らずに、その言葉だけを背中越しに俺に伝える。
 別に透の背中と話しているわけではないけれど。俺はその背中に向かって話を繋げた。
「う~ん、言わないとだめか?」
 もちろん、言ってほしいのだろう。俺だったら即答でうんと頷くに違いない。
 というのは一応誤解だということで訂正しつつ、それは絶対に入ってはならない領域の話だろう。俺の考え方がただの自惚れでもない限り、島津さんは俺だから話したんだ。きっと、他の人には話していないはずだった。だから、俺が言えるはずもない。
「そりゃあ、話してほしいけど? 頷いたら話してくれるか?」
 今は背中しか見えない。でも、きっとその表情が見えていたなら。透は絶対に苦笑しているに違いない。
「そうだな~、報酬次第だな」
「誤魔化しにはいりやがって」
 話していて何となく感じることがある。透は俺にそのことを話してほしいのではないだろうと。ただ、俺があまりにも落ち込んでいるから。それを少しでも緩和させる手段を探していたのではないだろうか。
 それはいわゆるコミュニケーションというやつだった。
 だから喋った。
 少しだけ気まずい、この中途半端な廊下の旅路を終えるまでの少しの間。その内容っていうのが思いっきり確信をついているのだが、それでも俺の意識は一人での陰鬱な気持ち、たとえるなら、ドレッシングの底にたまっている小さい粒粒のような所から、ほんのちょっと浮上出来た気がした。
 少なくとも、一人で歩くのかよりはその背中は何十倍も心強い。こういうさりげない気遣いっていうのに気がつくことができると、心に温かいものが灯るのだ。友情っていいなと思う。
「ほれ、着いたぞ」
 透がドアの前で立ち止まる。そこは保健委員会の会議する教室だった。ほんのちょっとの廊下の旅路は終わりを告げて、そして旅の相棒は俺に鞄を寄こした。
 少しニヒルとも取れない笑い方をしながら指をさす。
「まぁとりあえず、ここで頑張ってこいよ。もしも悩んでいることがあってもさ。一個ずつ、一個ずつ片して行けばきっと終わりは見えるから」
 だからさ、と。
「今は迷宮みたいに思ってるものでも、客観的にみれば案外短絡的な迷路かもしれない。もしかしたら、一本道かもしれないだろ? そういう風に見るには目の前のことを一個ずつやるしかないの。俺はお前の友達だ。男友達っていうのは、なんかあったときに肩を貸してやれるような奴を言うんだ。俺にはそれが出来る。もし失敗してもお前が泣いてる時に傍にいてやるよ。ジュースの一本でも手土産にしてさ」
 決して大きくない声だった。
 この広い廊下ではあまりにもか細い声だったかもしれない。反響する声量が少ないから、それは儚く霧散して。それでも俺の心にはズドンとストレートをノーガードで受けたみたいな重みがあった。
 思わず泣きそうになる。うれし泣きって奴。でも今は肩を貸して貰う場面じゃない。故に俺は泣かないのだ。
「行ってくる!」
 雨上がりの空のように心が晴れていくのが分かる。雨というやつは単体では陰鬱の象徴かもしれないけど、太陽とタッグを組めば晴れた時に虹を作ることが出来るんだ。虹は元気になる象徴だ。俺が雨なら、透は太陽なんだろう。
 晴れた後の虹が背中を押した。もう、さっきまでの暗い気持ちが綺麗に洗い流されている。
 手にかかるドアの重みはまだ数倍に感じられる。でも、後ろで待ってくれているという友達を意識した時に、それでも前に進もうと思った。
 今やることは何だ?
 それは島津さんを笑顔にすることだろ。



 ガララと音を立てて扉はスライドした。一斉に中にいた人の視線が俺に向く。一瞬足がすくみそうになるけど、それでも俺は前に進むことが出来た。透が教室を離れる音をドア越しに聞くと俺はあいてる席へと向かった。それは嫌がらせかと思うほどのポジションだった。優佳先輩の隣だ。
「遅いわよ」
「すみませんでした。会議のこと、色々考えてたら忘れちゃってて」
 優佳先輩はため息をつくと、俺の前にプリントを数枚置いた。そしてノートを一枚破くと、それも前におく。見てみれば、それは今のところ進んでいる会議の内容がメモ書きのように書かれていた。俺のためにやってくれていたらしい。
「ありがとうございます」
「別に、当然のことよ」
 優佳先輩は特に表情の変化もないままそう答える。まぁ優佳先輩が言うのなら本当にそうなのかもしれない。ここで淡い何かに期待するほど、俺は優佳先輩を知らないというわけではないのだから。
 会議は順調に進んだ。特に俺が入ったからといって、それが支障をきたすほどでもないくらいだった。自分のクラスのことで言わないといけない所がある、そんな所だけで、俺の出番はほぼ終わり。後は各階の洗面所に配置するせっけんのこととか、トイレにおいておくロールペーパーのこととか。この数カ月で変わったことはないか、それに対する注意などを終えると、委員会は九割終わったことになる。
 後は委員長の方針で、この会議の後に自分たちは何を変えたいのか。もしくは目標、抱負を保健委員会としての立場で言うという作業が残っている。正直、会議で一番面倒なのはこの作業かもしれない。
 次々と委員会の人たちは自分の考えを言っていた。次は俺の番だ。立ち上がると、視線が向いたことを確認して言う。
「俺の目標は、いつでもみんなが笑顔でいられる空間を提供することだと思っています」
 そう言うと座る。まばらな拍手で迎えられた。
 今の言葉にはもちろん意味がある。それはみんなとは俺からしてみれば島津さんのことのみを指す。そんなことをみんなに言えば、からかわれることが必須だから、そんなことは言えなかった。そして提供するというのは、島津さんに絶対、優佳先輩との仲を取り持たせるという意味だった。
 まぁみんなはそういう意味ではもちろん捉えていないが。
 そして最後の人が言い終える。みんなは優佳先輩の号令が終わると一斉に席を立って帰り支度を始めた。俺は他の人とは反対のベクトルに動かなければならない。
 優佳先輩も例外ではなく、ファイルに書類やらを入れて帰り支度をしていた。
 優佳先輩はもちろん美人である。良きお姉さんという雰囲気を持っている人だった。最初の出会いは一年生の委員会。まだそこまで俺が“チャラい”山田というイメージが出来ていなかった時のことだった。その時はまだ、学校でも少し根暗な面が出ていて、そんなに友達もいなかった。いや、全然いなかったの間違いである。
 俺は委員会を決めるときに、何かを変えたい一心で手を挙げたのだ。人まで手を上げようと考えていただけで頭は真っ白だったから、先生の話などもちろん聞いていない。故に、今がどの委員会を決めるために採決かさえもわかっていなかった。
 やっと手を挙げることが出来た。自分の中でそんな自分勝手な自己満足に浸っている時だった。先生の声が俺の中に響く。
 ――挙手があったので、山田君が保健委員ですね。
 そうやって俺は保健委員へとなったのであった。そして最初の会議の時に、その時はまだ委員長では無かった二年の先輩が俺の隣に座っていた。そしてそれが優佳先輩だったんだ。
 今でもその時の出会いは印象に強く残っていた。まず感じたこと。それは自分の春到来の予感であった。季節に反しない気持ちが俺の中で走り回る。
 綺麗だ。
 それがまず初めの印象。
 優しいんだな。
 それが次の印象。
 俺が人に慣れていなくて、自己紹介の時でさえしどろもどろだった時に、優佳先輩はその明るい笑顔で俺を元気づけてくれたんだ。でも、俺はあんまり言えなくて。意気消沈して席に座った。
 ――初めては誰でも緊張するもんね。私は、山田君の自己紹介、いいなぁって思ったよ。
 そんな俺にかけてくれたそんな一言が、俺の視野を何倍も広くした。そんな一言が胸にときめきを抱かせ、好意を抱いた。
 一年間ずっと想い続けていたと思う。だからこそ、今の自分がいるのだから。誰とでも話せるようになり、誰とでも仲良くできる。あの時の自分とは違うのだと見せることによって、成長した自分を優佳先輩の目に留めていたくて。
 でも、結局は仲良くなっただけである。
 それ以上の境界線を俺は踏むことが無かった。いくら話せるようになっても、その境界線だけは踏み越えることが出来なかったんだ。それは、ある意味、友達として仲良くなりすぎたから。それが原因とも言えるだろう。今は優しくて頼れる自慢の先輩、それが優佳先輩の自分の中でのポジションだった。
 こんな綺麗なんだ。島津さんが思わず一目ぼれするのも頷けた。
 あの河川敷にて、島津さんはその時の話しをしてくれたのだ。島津さん曰く「私が学校で困っているときに、優しく手を差し伸べてくれたのが優佳先輩だった」のだそうだ。その時に一目ぼれしてしまったらしい。
 優佳先輩は誰にでも優しいし、誰にでも女神みたいな人だった。故に島津さんもそこに惹かれてしまってしょうがないのだろう。それはまるで斥力のようなものなのだから。閑話休題。
 やがて優佳先輩は荷物をまとめると教室を出ようとする仕草に出る。しかし、まだ残っている俺に目がとまると首を傾げて言った。
「あれ、山田君。まだ帰らないの? 教室閉めちゃうけど」
「ああ、はい。すぐ出ます」
 思わず握りこぶしが強くなった。これからどう切り出そうか。そういうことを考えるだけで頭が真っ白になりそうになってしまうのだ。
 やばい、のどがひっつきそうだ……。
 震える汗だくの手で鞄を掴むと、優佳先輩と一緒に外を出た。先輩がカギを差し込みガチャリと閉める。それを職員室に返そうとそちらの方向に歩きだした。もう今しかないと思うような状況だ。これから先輩は帰るのだろう。先輩がアルバイトをしているなどの情報は聞いたことが無いし、間違っても彼氏などいない。しかも好都合なことに、優佳先輩と俺は変える方向が一緒なのだ。
「あの!」
「ん?」
 優佳先輩は振り向いて止まった。
「何か用?」
 俺は心で“人”という文字を洪水の如く飲みまくる。息が出来ないくらいに飲み込みまくって、その調子で緊張も流し込んでしまおうという魂胆だ。そしてそれには辛うじて成功する。
「あの、一緒に帰りません?」
 にこりと、最高の笑顔でいってみる。夕方の廊下。人はいない。二人の空間だ。明らかにこの状況では放課後デートに誘っているみたいだが、そんなつもりはない。
 言い方は変かもしれないが、優佳先輩はいわば昔の女。今はそういう気持ちはないのだよ、と自分に言い聞かせた。
「ん。別にいいけど、これ、預けてからだよ? ちょっと待てるかな」
「大丈夫っす!」
 よっしゃぁ! と心の中でガッツポーズ後に緊張。これに成功したのはいいかもしれないが、これは言ってみれば序盤。プロローグだ。俺の作戦はこれから起承転結の承から転に移行する場面にさしかかるのである。
 大丈夫だろうか。無事に島津さんへと気を向けることに成功したなら。それはとっても喜ばしくて、とっても切ないのである。そんなパラドックスめいた感情が俺の中でグズグズしているのだけど、それはいったん保留というやつだ。それはパンドラの箱にでもおしこめてしまえばいいのだ。
 俺の長所はすぐに嫌なことは記憶の奥底に閉じ込めて、表層意識に持ってこないように出来ることなのだ、と今考えてみた。有言実行の気持ちで俺は前を向き直った。優佳先輩はすでに歩き始めていて、その背中は夕陽の中にぼんやりと浮かぶ幻のよう。掴もうとすれば、それは蜃気楼でそこには実態が無い。それがあんまりにも綺麗だから。やっぱり嫉妬してしまう。
 いいなぁ先輩は。あの島津さんに好かれているんだぜ、と。
 今はとりあえず追いかけることにした。あんまり考えると、俺は考えすぎてしまうから。だから、追いかけて、自分のやらないといけないことをやりきろうと思ったのだ。


「失礼しましたぁ」
 先輩が職員室から出てきた。そしてこちらに振り向くと、女神の頬笑みを向ける。
「じゃぁ、行こうか」
 先輩は歩き始めた。俺もトコトコとついていって、先輩の隣に並んだ。横を見ればすらっとしたモデルみたいな優佳先輩がいて。不覚にドキドキしながら廊下を歩く。もう時間も時間だった。さっきならばまだ辛うじて、外で遊んでいたり、校舎に残っている生徒の声が聞こえたりもしたが、それらの人はとっくに帰宅したらしい。しんと静まり返った廊下は、一人だと心細く、ちょっぴりホラーな印象を持たせるものかもしれない。
 学校とはある意味で怪談の宝庫だ。昔からあるトイレの花子さんとかそういうの。古い学校ならば、一つや二つは怖い話が存在したり、七不思議があったりするもので。
 気を紛らわすという意味でも、そっちにことが少し気になった俺であった。
「あの」
「ん?」
 例えばだ。今振り返った優佳先輩が優佳先輩じゃないってこともあり得ないことだろうか。もうあれは違う人だ。幽霊だ。幽霊が俺をあの世に連れていこうと、先輩に化けて、俺を誘惑するのである。いや、またはもうこの空間そのものが現実ではないかもしれない、と節目にやる、黒いサングラスをかけた人が司会な同じみなドラマ張りの妄想を繰り広げてみた。
 自分でやっといてなんだが、ゾッとしない。鳥肌が全身を電光石火の如く這いずりまわった。
「どうかしたの?」
 答えない俺に疑問を抱いた優佳先輩は一回大きめの声で俺に呼びかけた。ハッとして現実に戻る俺。もしかして今、精神があの世に向かっていたのでは……とはさすがに思わない。
「いや、なんか、こういう廊下とか見てると、この学校にも怪談とか七不思議ってあるのかなって思って」
 ガチャン!
 大きな音がして横を見ると優佳先輩が派手に荷物を床にぶちまけていた。あの先輩がだ。珍しいこともあるものだと思いつつ、一緒になって荷物を拾った。
「ありがとう」
 えへへ、と笑った顔もいつものようなハリが無い気がするのは気のせいだろうか。元気のないような、怖がっているかのような……あれ。
 そこまで思ってある仮説に至る。それはとってもあり得ないことでもないかもしれないが、そんなギャルゲーみたいなシチュエーションが許されていいものだろうか。いや、断じて否だろう。そしてこの場合、選択している相手を間違っていた。これでは違う人にフラグが立ちかねない。いや、立たないけれども。
 仄かに暗くなる廊下。夕陽に雲が入ったようだ。朱色はグレーのフィルターを通して光を飛ばす。しかし、灰色は思ったよりもつわもので、その綺麗な朱色は約六割減でその光を伝えることしか叶わない。
 ただでさえ人気のない廊下である。これはさすがに怖がりでないやつも少しは不気味に思うのではないだろうか。ごくりと生唾を飲み込む。無意識に首元のネクタイを少し緩めた。
 優佳先輩が無言で立ち上がる。その顔はあの空に広がる雲に負けずとも劣らない曇り具合。グレーの配色が激しい気がしてならなかった。
 まさかなぁ。
 いやいやまさか。
 まっさかぁ~~。
 段々と燻ぶるのは俺の中のいたずら心、もとい、探究心や好奇心といった感情である。徐々に黒くではない。紫というのか、ピンクに近いものというのか。複雑な色の感情がせせりあげ、そして俺の心を徐々に覆っていく。俺はそれに為す術もなくされるがままである。それに抵抗した理性は一秒しかもたなかった。
 完全に色に染まった時、俺は覚醒する。
 なんかアニメや漫画の下りみたいだが、それは違う。覚醒といっても、空を飛べるわけでもないし、マントから刀を取り出すわけでもない。ただ単に欲望に忠実になっただけである。
 何の話からしようか。いや、ここは脅かす方がいいのかもしれない。
 生憎、先輩はどうやら前だけしか気になっていない。後ろがガラ空きである。ここで変態、俺では無い、がいたとしたら、ここでたちまち先輩はそいつの餌食になってしまうだろうか。もちろん片手にはクロロホルムを装備しているのである。
 と馬鹿な妄想は頭から振り払わなければ。バチンと両頬にビンタをした心意気で忍び寄った。
 一歩、また一歩と進んでも、先輩はこちらに気づいていない。というか、このままだと俺の存在そのものが無いものになっているかもしれない。それは冷静に考えればとっても酷いことなんではないだろうか。
 フルフル。頭を振った。色々な邪念が入ってきていけない。今は目の前にいるウサギにいたずらを仕掛ける時なのだ。
 機は熟した、そうほぼ真後ろに立った時に俺はそう確信し。そして息をゆっくりと肺一杯まで吸い込んだ。そして、
「わっ!」
「きゃああああああ」
 こっちに向いて、何かしら言ってくるのかと思った優佳先輩は俺の思惑通りには動いてくれなかった。
 まずはフェーズワンとしては、優佳先輩が驚いてくれたのは良かったんだろう。しかし誤算があるとすれば、フェーズツー、ここでこっちに向き直ってくれることを期待していたのだが、先輩はそのまままっすぐと脱兎のごとく走り去っていってしまった。
 そしてフェーズスリー。優佳先輩は学校で陸上系の種目がとても得意だったことを思い出した。
 俺は走り去る背中を茫然と見送り……じゃなく、すぐに気を取り戻して追いかける。しかし、早い早い! 俺が階段を下れば、先輩はもう見えなくなっていた。あのか細い体のどこにそんな筋肉が隠されているというのだ。俺はとうとう追いつくことが出来なかった。
 そんな調子でトボトボと昇降口まで戻る。そこには当然のことながら誰もいない。
 もう帰ってしまったんだろうか。よく分からない倫理観から、優佳先輩の靴箱を調べる気にもなれずに俺は自分の靴を手に取る。今日は朝の占いでラッキーアイテムがスニーカーだったためにローファーでは無くてスニーカーにしたのだった。
 紐を解いて、足を入れて紐をまた締めなおす。その時だ。
「やっと見つけたよう」
 背中に温かみとそして重さが勢いよく覆いかぶさった。反動で思わず背骨が前かがみに限界以上に曲がりそうな気がしたが、なんとか腹筋と背筋が頑張ってくれたみたいだった。
「くっ」
やっとこさ、その重みを押し上げた。若干、人のものとは思えないほどのマシュマロみたいな何かの感触が離れて言ってしまうのが少し惜しいが、ひきはがす。それははたして、優佳先輩ではないか。
 こんなにも女の子っぽかったっけ?
 正直戸惑うしかない。だって、優佳先輩のイメージとしては、お姉さんで頼れて、すごいのだ。なんというかすごいのだ。なのにどうだろう、今の先輩は完璧に女の子なのである。女は仮面を使い分けると言うが、まさにこのことだったのだろうか。
 いやいやいや。
 ブンブンブン!
 いつもより激しく頭を振った。戻れよ理性、そして戻ってこい俺の現実。こんなにおいしい展開があっていいはずが無いんだ。そして俺には島津さんとの約束が、約束がぁ~~。
「ふん!」
「どしたの?」
 半泣きの先輩に心配されてしまった。これでは俺の方が重傷みたいではないか。少なくとも、心はそうなんだろうと一瞬思ったけどやめた。世の中には思ったら負けが多いのであるからして。
 それよりも現状を理解する方が先決に決まっている。
「何がどうなったんですか。いきなりいなくなるし」
 俺が言うと、先ほどよりも一割増しの半泣き顔が戻ってきた。
「だって山田君が脅かすからだよ。驚いて走って。走って。走って。あれ、ここどこだろうって。やっと、ここまで来たら山田君がいて。それで」
「抱きついてきたと?」
「ん」
 コクリと頷く優佳先輩。ごめんなさい俺の理性。限界が近いです。
 いくらなんでも可愛すぎる。そしてなんだこのおいしすぎる展開は。今日に限ってこんなに可愛いんだなんて。
 潤んだ瞳が俺を引き寄せる。湿ってプルンと艶めいた唇はとても魅力的に見えた。大きすぎず小さすぎないバストは強調されて、すらりとしたボディラインが俺を誘惑した。漂うオーラは俺を取りこみ、今すぐにでも狼に変えてしまおうと画策している気さえする。俺の中の煩悩という本能が暴走して、体中の筋肉繊維一本一本を操作しようとしている気がした。これは集団無意識からの反応なのだ、と煩悩が言い訳している。
 だから、襲っていいというのか。答えは否だ。やってはいけないのである。
 先輩は俺がこうして妄想に耽っている時でも、縋りたいという気持ちを前面に押し出してウルウルと潤んだ瞳を向けてきた。理性どころか違うところまで反応しそうな勢いである。これでは明らかに俺に気があるのではないかと勘違いしてしまう。それで言うと、あれだろうか。据え膳食わぬは男の恥、というやつだろうか。
 う~ん、と俺の心の中の葛藤がやばいことになっている。
 先輩は俺の袖をつかむと俯いた。頬が赤みを帯びている気がした。
「それで、お願いがあるんだけど……」
「はいはい、なんでも言ってくださいね!」
 もう上機嫌で何が何やらわからなくなってきた。もうどうにでもなれ。お父さん、俺は、今から男になるかもしれません……。
 とそんなに現実は甘くない。
「トイレ、ついてきてくんないかな。怖くって」
 拍子抜け、という表現は適切ではないかと思われるが、それはある意味的を得ていた。少なくとも、俺の心をぶち抜いているのだから。下は反応しかけたのに、心が転んでしまったような感じだった。
 しかし、トイレである。さすがに女性のトイレについて行くのは抵抗があった。こんなところに転がっている理性を拾い上げてそう思う。
 ギアがオーバートップからトップに戻る。冷静に考えてみて、確かに先輩には悪いかもしれないけど、ここはお断りするべきであろう。デリカシーがない。そして俺の最後の理性が見せたささやかな反抗だった。
「すみません、さすがにそれはできません。しかし! 帰りませんから。行ってきてくださいな」
 ドシッとその場に座ると、笑顔で言ってみた。さすがに原因は俺にあるのだし、これが一応、俺なりの責任の取り方のつもりで。先輩は泣きべそをかきながら、笑顔を振る。
「だよね、ごめんね、変なこと言って」
「いえいえ」
「じゃあ、行ってくるから絶対に帰らないでね!」
 俺が手を振ると、先輩は瞬く間に廊下の奥へと消えた。その背中は最後までついてきて欲しいなという感じが伝わってくるのが印象的だった。
 俺は満面の笑みで幸福をかみしめている。もうこの際だから島津さんには悪いけど、二人でデキてしまうかもしれないと、心の中で島津さんに今から謝っているところだ。あの人が恋人なら、悪いが、いい気しかしない。元々、恋してたし、それに島津さんとは叶わないのだから。それならいっそ……、
そんな俺の決意が脆くも崩れそうになった、次の瞬間。
「あれれ、山田君、こんなところにいたの?」
「うひゃおおおう!」
 後ろから声が聞こえて、急いで振り返ると、あれ、目の前には優佳先輩がいた。手には鞄を持っている。先ほどはここにおいて行ったはずである。しかし、そこには何も置いていなかった。
「さて、帰ろうか」
 特に何も言わずに優佳先輩は歩き始めた。まるで先ほどの会話も行動も全てが無かったことのように。頭の中では疑問符が飛びまくっていた。いくらなんでも早すぎる。それに外から来るなんてどうしてもおかしいだろうと。もしかしたら、トイレから外に出て、というケースも考えてみたが、全てにおいて矛盾しか残らなかった。
 とりあえず俺はその背中を追いかけた。追いついたころに先輩は俺にゴツンと一発軽くだが、ゲンコツをした。痛くはなかった、でもくすぐったい感じがする。
「今度からああいう事はしないこと。びっくりしたんだから。おかげで先に帰りそうになっちゃったよ。まぁ途中で気付いたからよかったけど」
「え、でもさっき」
 優佳先輩は疑問符を浮かべた。俺が言っていることが理解できないというのだ。あまりにも遅いから、昇降口で待っていた先輩は、俺が迷ったと思って、先輩は一回外に出て見回ったそうだ。そして戻ったら俺がいたと。先輩の話ではそういう事になっていたらしい。
 俺の中では後から優佳先輩が来て、いきなりイチャイチャして、そして先輩はトイレに行った、と。そういう風になっていたはずだった。
 先輩は靴を履きながらしきりに「本当に心配だったんだから」と呟いている。先ほどのことで正直混乱しているのは確かだが、そこまで心配することはないと思う。まるでここで何かあったみたいではないか。
「そんな心配することでもないのに」
 正直な気持ちを呟くと、先輩はむむむ、と唸る。
「ごめんね、この学校に伝わる怪談の一つに“放課後の連れ去り女”っていうのがあってさ」
 え。
 俺は何やら得体のしれない感覚に襲われた。いやいや。まさか。
 必死にあふれ出る冷や汗を拭う。
「そいつはその人の今一番会いたい奴に化けて……」
 俺は頭が真っ白になった。なぜならば。いや、これはもしかして。もはや確信に近づいて……。
「……でね、そいつに山田君が捕まったんじゃないかって、思って。君が原因だけど、私が置き去りにしたのは変わりないしね。怖がりなのに頑張ったんだから」
 もう、とお母さんのような仕草をする。本当にこういう仕草の似合う人だと思う。しかし。
 マジで心霊現象というのに立ち会ってしまったというのか。もう冬だぜ。幽霊がお盛んになるのは夏で。お盆で。それはもう過ぎていて。怪談話の消費期限は何カ月も前に過ぎているというのに。クリスマスが近いんだぜ。そんなことあっていいのだろうか。
 そして思った。というか、もしもあの時について行ってしまったなら。もしくはついて言っていたならどうなってしまったのか。
 思っている時に優佳先輩のトドメの一言が降りかかる。
「そしてね、そいつは化けて人をあの世に引きずり込むのよ」
 ゾワワワワワ!
うわーーーー。鳥肌が薬をキメている感じに全身を走り抜けた。俺は今までその幽霊と話していたというのか。そしてもしもあの時に、優佳先輩(偽物)の色香に惑わされて、理性よりも煩悩が勝っていたとしたなら。もしかしたら、今ここに、もとい、この世に俺は存在していなかったのかもしれない。
 マジであり得ない。
 呆然としながら俺は校舎を出た。そして校門を出る時に、後ろを振り向くと、校舎の窓から女の人が覗いている気がした。
「どうしたの? 忘れ物?」
「なんでもないっすっ」
 もしも忘れ物があっても行くものか。とりになんて行くもんか。俺は先輩の背中を押して帰り道を促した。先輩はじゃれているとでも思っているのだろう。「私まだおばあちゃんじゃないから歩けますよぉ」と笑って押されていた。
 ああ、貴方は罪な人だ。
 これから話さないといけない本来の要件を丸ごと吹っ飛ばしてしまいかねない体験だった。驚かそうとしていた人間が驚かされる。ミイラ取りがミイラになる、俺のためにあるような言葉だな。
 ほら、空も俺を嘲笑しているぞ。
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『山田アフター~a secretスピンオフ~』


 何が言いたかったのだろうか。
 俺は帰りながら考える。
 雪が顔に吹き付けて、少し痛かった。今日は寒いという天気予報だったのに、それでもあんまりモコモコしていたくなくて。カーディガン一枚で来たのが明らかに失敗だった。だって、制服にはしわがたくさん付いていて着たくなかったというのはいいわけである。
 もんもんとしながら家に帰る。母さんには曖昧なただいましか言えなくて。そのまま自室へと赴き、ベッドに体重を預けた。
 ギシッとバネが軋んでまるでそれは重いぞとベッドが文句を言ってるみたいだった。もちろん俺はそんなに重くない。平均の体重より軽いくらいだ。
俺は寝転がりながら天井を見上げた。こういう時に見上げる天井は、何か特別に感じることがある。特に何かを天井が伝えたがっている、とか超常現象的な意味では無く、いつもはもうあんな所に天井があるという意識がとても曖昧なものになって、ああ、天井って高いなとふと思ってしまう。ただそれだけの話だった。
 手を伸ばしても届かない。当たり前のことだ。もしも、ここで手が届いてしまったのなら、それは俺が立った時に頭と天井がこんにちはをすることをさしている。
 寝返りを打つ。
 自分で自分を包み込むようにして体を丸めた。リモコンで部屋の電気はオフにして。そうするとひどく落ち着く気がするのだ。何かに守られているような気がする。そんな物はありはしないのに。以前、寝る時の恰好で、なぜこれが落ち着くのかという記事があった気がした。自分を守るように丸くなって寝ると落ち着くのは、それが母親のおなかの中にいる時の同じ格好らしいからだ。
 マザコンでは無いと信じたいが、自分にはそちらの気があるのかもしれない。男は誰だってマザコンだ、どっかで聞いたことのある言葉だった。
 段々とまどろみの中に俺は身をまかせ始める。ゆらりゆらりと意識の船は幻霧の中を漕ぎ始めるのだ。霧まみれの川は程よい揺れ方をして、意識をさらに深い部分に潜らせる。
 それが行きつく先を俺は知らない。ただ身を任せるだけ。それだけでいい。余計な力はいれないで、船頭が目的の場所までは運んでくれるはずだ。
 そう感じながら俺は。
 幻霧の中を突き進み、やがて霧が晴れて……。


 ガタンガタン!
 けたたましい音が俺の鼓膜をノックした。ハッと我に返って辺りを見回す。どうやら俺は島津さんを見送ってからそのまま呆けていたみたいだ。電車の走る音がフェードアウトするのが分かった。いや、もっと他にしていたような気がしないでもないが、今ここに俺は立っているのだからおそらくはそうなのであろう。
 もう家に帰っていた気がしたのは白昼夢を見ていたからだ。
 そんなどうでもいいことを考えながら、自分は妙に窮屈な感じがしてならなかった。苦しい? いや、苦しいというよりは心地よい。何か落ち着く感触が俺の体をまんべんなく包み込んでいた。
 いい匂いがした。女の子特有の甘い香りだ。
「……くん」
 そう、そうして耳に心地よいソプラノが奏でられる。聞いていて心底落ち着いて、そしてとても愛おしかった。
 ん?
 何か変だぞ。
 何がおかしいのか考えてみた。結論。俺はどうして声を聞いた。そこしかないだろう。
 様々な憶測が飛び交い、やがて一つの答えを導き出した。脳内会議の結果は「下を見ろ」だ。
 視線が少し下を向く。そして驚いた。視界にはただの平坦な白い結晶たちが覆っているコンクリートの景色しか見えないはずなのに、俺の目には何が映っているのか。そう、俺の目にはまぎれもない、人の頭のてっぺんが見えた。
 それは最近見るようになって、そしてどんどん好きになっていた人の頭な気がした。
「山田君?」
 否。その人の頭であった。
 声を聞いて確信する。周りの寒さが吹き飛ぶように血液が沸騰しているかのようだった。体が熱い。そして、愛おしい。
 気持ちが溢れだす。その匂いに体は支配され、その感触に心が掌握された。五感が全て彼女を欲している。
 半ば緊張の面持ちでその人の顔をしっかりと見据えた。やはり島津さんの顔だった。精緻な顔の作り、すらっとした骨格。ぷっくりとした唇に、マロンブラウンの瞳。思わず吸い込まれそうな造形美は間違いない。華奢で可憐な巻きついている腕も。確かに感じる体温も。
 そこまで理解してさらに頭では混乱した。意味のわからない現状がやっと理解できたからだ。
 まずなぜに自分は島津さんに抱きしめられているんだ?
 これが疑問一つ目。俺は確かに島津さんにじゃあねをしたはずだ。だって、最後のバイバイは口の形で分かったけれど、その前の言葉が分からなくてという経験をしたはずなのに。これでは説明がつかない。
 そしてその目は何だろうという疑問だった。
 何かに縋りたい。甘えたいような、そんなものを要求するかのような瞳は、俺のチキンハートをぶち抜いた。このまま殺されてもいいかと思うような甘い時間が過ぎる。どんなに甘い時間でもそれには絶対終わりがある。
 この場合にもそれは適応されていて。何とも世の中は寂しいものかと思った。
「もう! 何で何にも言わないわけ!」
 さっきまで俺の体を包み込んでいた彼女のベールが剥がされて、気持ちがひゅるりと寒くなる。ああ、と思わず心の中で手を伸ばせども、悲しいかな、それは彼女には届かない。
 島津さんは寒さからなのか、恥ずかしさからなのか判別できないが、頬を微かに上気させ、うるんだ瞳で俺を見上げていた。明らかに怒っているように見えるのに、しかしそれは彼女のある一種の愛情表現に見えてならない。
 思った通りに、彼女は「ぶぅ」と頬を膨らませると、また俺に抱きついてきた。今度こそ逃がさないように俺は両腕を島津さんの背中にかぶせた。何でこんな破廉恥な行動に出られたのかは分からないけど、体が勝手に動いたのだ。これは愛の為せる技なのか。いや、脊髄反射のようなものかもしれないと思う。
「やっと、抱きしめ返してくれたね」
 ん、と島津さんは俺の腕の中で一回うなずく。
 もう、我慢できなかった。
 もう、抑えきれない。
 衝動が俺を襲う。自分を抑えるリミッターが、大体三十層はあるはずなのに、それが一気に解除される。どれだけもろいリミッターなのかと思うけども、それを考えるより先に腕に入る力が強くなる。
「痛いよ」
「ごめん」
 声が出る。自分で声帯を動かしているわけじゃないはずなのに。声が俺を通じて外に這い出てきた。最初こそ戸惑う。でも、ここまで来たらもういいじゃないかと思った。
 今度こそ、俺は自分で声帯を震わせた。その気持ちを込めて。
「でも、好きだから」
「ん」
 彼女は静かにうなずいた。
「最初は島津さんが人気者だったから、だから憧れて、それを恋愛感情と勝手に結び付けてた。それは恋愛感情なんかじゃないのに」
 彼女はまたうなずく。
「ん」
 様々な気持ちがあった。いろんな想いがあった。幸野や透を見ていて思ったこと。本当に好きになるってああいうことを言うのかなっていう疑問や、憧れを取り違って透に言って聞かせた時の恥ずかしさ。関わりあいになんてなれると思っていなかったあの出会いの時の感情。憧れとか諦めとかを超えて芽生えた本当の恋心の話とか。色々と。
 思いのたけを言葉に乗せて。
「でも好きになってたんだ」
 想いは五線譜。言葉は旋律。
「離したくないんだ」
 届け。そう感じながら。俺は紡ぐ。想いは届くのだと信じながら言葉を奏でた。
 そしてそれは相手に届き。島津さんは顔を上げる。
 柔和で優しそうな笑顔。その瞳は熱っぽくて情熱的だと思った。
「私も」
 その刹那。
 彼女は一気にかかとを上げる。精緻な作りの顔が俺に急接近してきて。そしてその柔らかそうな唇が。ちょんと俺のそれに触れる。
「私も山田君が好き。大好き」
 夢のような時間だった。
 湿った唇の感触がとても柔らかい。ファーストキスは何味かと聞かれても、それは島津さんの味としか表現できない。味をレポートする前に爆破しそうなこの理性をなんとかしなけれないけないのだから。
 何も感じない。
 寒さも何もかも。
 ん?
 何もかも?
 急にひどい立ちくらみに襲われた。足元がぐらつき、三半規管が警報を鳴らす。込み上げてくるのは何だろう。吐き気に襲われて俺は島津さんをひきはがす。
「山田君?!」
 ああ、そうだ。これはなんだかやっとわかった。いや、多分分かっていたんだ。でもそれに甘んじて悪ノリしてみただけなんだ。これは夢だ。夢の中だというのに、まだ島津さんは俺の名前を呼んでくれている。
 甘い時間を過ごしたい。ただそんな願望が見せた少しの幻想。これでお腹がいっぱいかと言われればそれでは腹八分目であると言いたいが、これはこれで。ある意味満足いく結果になった。
 夢というのはいつだって。
 最後まではやらせてくれない。
 ここぞという時に取り上げられてしまうおもちゃのように。長い時間ゲームをやって、いいところで母さんがゲームの電源を引っこ抜くかのようにシャットダウンするものなのだ。
 これも例外に漏れない。いい加減神様もこういう意地悪はやらなくてもいいと思うのに。


 ガタン!
 ひどい頭痛が襲った。
「はぅ!」
 俺は急いで目を開ける。すると、そこには上下が反転した俺の自室が目に映る。そこは俺の部屋で、推測するに、俺はベッドから落ちたのだろう。
 なんてベタなオチなのだ。展開のあまりの出来の酷さに俺は悲しみを覚えた。実はこれが夢で、俺は事故に遭い今も病室で眠っていて……というオチの方がまだましな気がする。そしてあまりの眩しさに目をくらました。
 俺の部屋の窓からは暗い空から一筋の、まだ小さな太陽が昇ってきている最中だった。
 そう、昇ってきて……。
 ハッとして枕元の時計に手を伸ばす。そこに表示されている時間とは、見事に日付が変更した後の時間であった。あのとき俺はふと眠るつもりが、そのまま寝てしまっていたらしい。
 どれだけ眠かったんだ俺は。
 あればあるで、無駄だと思う時間だけれど、無ければ無いで惜しいことをしたと思うのもまた心理。太陽はまだ昇り続けている。このまま時間が過ぎ、今日は始まるのだ。
 ふと以前に読んだ小説の内容を思い出した。
 それは起きたらいつもの日常が始まり、主人公は退屈していた。この時間がいらない。一人になりたい。そう思った時だった。主人公の中で誰かが静かに呟くのだ。
 ――なぁ一人になりたいのかい?
 鬱屈した気分の主人公は一言返事で答えてしまう。
 ――ああそうだよ。
 それが全ての間違いだった。その時はたまたまそういう気分なだけであったのだ。前の日に親とけんかしたりして、気分が最悪なだけで。本当はそんな終末を望んでいたわけではないのに。現実は主人公の思いとは裏腹に加速していった。
 その日は家に帰り、眠りに就く。そして、次に目を覚ました時に、主人公の世界は変わった。何もない世界だった。それは抽象的な意味で、現実には建物はあり、自分はその部屋に住んでいて、何もかもが日常通り。
 何が無いのかと聞かれれば、それは“生気”というもので。生き物の要素を感じさせないその世界は、いつも通りの景色でありながら、そこは明らかに違う別次元で。吐き気を催すような魔空間で。
 どこに行っても同じだった。
 いつも通う通学路。人でにぎわう表通り。駅、学校。全てを見てきたけれど、そこにはやはり人が無い。やがて何物かが呟く。
 ――どうだい? この世界の居心地は?
 その何者かが主人公をその空間に引きずり込んだのだ。理由は分からない。それはたまたまそこに自分がいたからなのかもしれない。主人公は叫んだ。とにかく元に戻してくれ。俺はそんな世界は望んじゃいない、と。
 ――そうか。ならば。
 そして視界は暗転し、再び目を覚ました。そこは雑踏だった。人々で賑わう交差点。仕事で忙しそうな人や、高校生の話声が主人公には奇跡みたいに思えた。その時に。
 ――第二幕の始まりだ。
 不穏な声が響き渡る……。
といったような話だ。ジャンルはホラーで、それがテレビ番組で毎年秋や冬の節目に特別ドラマとしてやっている奴が小説化したので興味本位で読んだやつだ。結末を言えば、そいつはもう元に戻れない。というか、そいつは死にながら夢を見ていた。
 覚めない夢を何度も見て。起きてもそれは現実じゃないともがき苦しむ。何度も何度もその狭間を行き来する。多重夢と起きてしまった身の内を受け入れられないと言った悲しい結末に幕を閉じた。
 時々思うのだ。特にこういったあまりいい気分じゃない時は。
 起きたらそこには俺しかない。何もない世界にいる。そして永遠と俺は一人。世間の悲しいことや辛いことから俺は逃げ出すことに成功する。しかし、そこに救いはあるのか。それで幸せなのか。
 分からなかった。別にそんなことは現実に起こるわけでもないのに、そんなどうしようもないことを考えて、それでも俺は悲しくなって。やっぱり、俺は学校でないと根暗な人間なんだと自覚してしまう。
「おっし!」
バチンと一回自分に渇を入れた。起きたてのビンタは体に染みる。今日は一日、学校モードの自分で生活するのを試みることにした。と思うけれど、もう一回時計を確認すると、そこには曜日がきっちりと示されている。
今日は土曜日だった。



 う~んと頭を捻りながら俺は住宅地を歩いていた。あの夢が頭から離れてくれないのだ。いやしかし、あの時の島津さんは可愛かったと思う。
 いやいや、こういうことを考えるからいけないのだと気分を立て直し、また歩いた。
 現実の問題だ。俺が島津さんと付き合えるわけがない。俺はただの男子生徒で島津さんは学園のヒロイン。たまたま今は話したりするけど、俺が見る限りでは、島津さんが俺に気があるように見せたところは皆無と言っていいだろう。それこそ友人の関係にしか見えないのだから。
「きゃうん!」
 飼い犬であるミニチュアダックスフンドのヴィタが元気よく吠える。俺の手から繋がれたリードの先で、元気よく跳ねまわっていた。なにぶん最近はこいつの散歩などしてやれなかったからそれで喜んでくれているのだろうと都合よく解釈することにする。
 いたって平和な休日の風景だった。
 こうやって普通に俺は犬の散歩なんぞして、目の前で井戸端会議している主婦たちの光景もいつもと変わらない。
 誰かが言った。日本は平和ボケしていると。
 それでいいじゃないかと思う。だって、それほど楽にしていられるわけだから。いざ銃とか持たされたら俺は何をするのかも分からない。俺のチキンハートは特別製だ。こんなにも平和だから、ちょっとしたボランティアな精神が生まれてくるわけだ。
 例えば、交差点を荷物が重くて、渡れない老人。あらゆるところで余裕が無ければ、普通ならば、だったらそんな物を買うなよと思い素通りするところだ。しかしどうだろう。金銭にも気分にも余裕があれば可哀想だなという気持ちが芽生える。そして人助けをする。
 例えば食べ物に困っている友達がいたとして、明日食うものにも困る人ならば、まさか自分の食べ物を分け与えることなんてしないと思うのだ。中にはいるかもしれないけれど、少なくとも俺は違う。これを食わないと明日死ぬかもしれない。そんな中で俺は相手に使う気づかいなど皆無なのだから。でも、それだって余裕があればちょっと分け与えることだってできるのだ。
 俺が今日犬の散歩をしようなんて思ったことも然り。余裕が無ければできないことであることに間違いない。
 平和ボケ上等。
 平和ボケ最高である。
 故に人は人を気遣う心を持つことができるのですよ、と。そんなことを思いながら道を歩く。やがて道は開けて河川敷にでた。河川敷で昼間とはいえ、さすがに十二月。吹く風は冷たく。刺さるようであった。
 川沿いを歩く。
 ヴィタがご機嫌でしっぽを振る。
 俺もそんなヴィタを見てご機嫌だ。
 すれ違いざまに挨拶をしてみると、相手も笑顔で返してきた。今日は学校モードで行こうと決めたのだ。こんなに社交的な自分でいられる。
 ポケットからボールを取りだした。近くの開けた川沿いの空き地で適当に場所を取ってヴィタにそれを見せた。ヴィタはそれが何なのか理解すると、先ほどよりも数倍の勢いでしっぽを振りまくる。
 犬というのは単純明快な生き物である。元気があればしっぽを振り、それが飼い主の前だとさらに振る。元気が無ければ尻尾はだらりと垂れ下がり、泣き声まで「クゥゥン」と寂しげなのだ。そんなに直情的でいい感情任せの世の中ならいいのにな。
 そんなちょっとの羨望を自分の飼い犬に抱く自分が恥ずかしいわけでもあるが、とりあえず今は遊んでやるとしよう。
「ヴィタ!」
 ヴィタの前でボールを数回ちらつかせて、一気に投げた。放り投げられたボールは楕円を描きながら地面に向かう。そして地面に落ちる前にそれをヴィタがキャッチした。
 スタスタとヴィタは走ってきて、俺の前でボールを解放した。
「ワウン!」
「そうかそうか」
 わしわしとヴィタを撫でてやると、嬉しそうにまた吠えた。ご褒美にポケットから犬用のお菓子を取り出して食べさせてやる。
「ワンワウン!」
 飛び跳ねてじゃれていた。本当に可愛いやつである。俺は持参してきたブルーシートを地面に被せて、そこに腰を下ろした。他にも玩具はいっぱい持ってきたので、しばしの休憩タイムと洒落込む。ヴィタは目の前にだされた玩具で目を輝かせ、元気いっぱいに遊んでいた。
 最後にもう一回ボール遊びしておくかとヴィタを呼んだ。そしてボールを思い切り投げて……あ、投げすぎた。
 最初こそ順調に弧を描いて飛んで行ったボールだが、いかんせん飛距離がありすぎて飛びすぎた。そのボールは空き地を過ぎて、そしてチャリに乗って走っている人の目の前に落下した。
「きゃぁ!」
 焦ったチャリの人は慌ててブレーキをして、なんとか転ばないような状態であった。ちなみにヴィタはそんな人には目もくれず、そのままボールめがけて飛び込んでいき、チャリの人をしり目に俺の方に飛び込んでくる。
 さすがに気まずい俺だから、とりあえずヴィタからボールを回収すると、チャリの人のもとへ走っていく。
「あの~すみませんでした。俺がボール投げすぎちゃって」
 相手は体勢を立て直すとこちらを向き直る。
「本当よ。投げる時はちゃんと注意して……ってあれ? 山田君」
「は?」
 もう一回相手を確認する。まずは体のラインから確認だ。うん、男の体では無い。そして徐々に上に視線が移動して、結構豊満なものを持っていることも分かり、最後に顔。そしてそれは島津さんであった。
「島津さんじゃん。あれ? どうしてここへ?」
 確か島津さんの家は俺の家から一番近い駅から一個先のはずだ。
「これはね、せっかくいい天気だし、サイクリングもいいかなって散歩ついでにね、河川敷をずーっと走ってきてたの」
「ああ、そういうこと」
 それだったら納得だった。一個くらいの距離ならば、自転車で行くのは他愛もないこと。ならばいつも自転車通学にすればいいのにというどうでもいい提案はとりあえず端に放っておくことにした。
 島津さんは俺の足元にすり寄っていいたヴィタを見て目を輝かしている。
「ねえねえ、それって山田くんちの犬だったりするの?」
「ああ、ヴィタっていうんだ。ミニチュアダックスフンドのオスだよ」
 とそれを言い終わらないうちに、島津さんはヴィタに駆け寄っていた。抱きしめて頬をすりすりしている。
「きゃ~ん、可愛い~」
 ヴィタも現金な奴で初対面の男なんかは吠えまくるくせに、島津さんには笑顔で抱きつかれて居やがる。犬の好みも飼い主次第ってことなのだろうか。それよりも、犬になりたいと俺は思った。
「ヴィタって言うの?」
「キャウン!」
「かっこいいね!」
「キャンキャン!」
 スリスリダキダキ……。俺はいい加減耐えられなくなった。ヴィタは犬であることをいいことに、島津さんの体を堪能しまくっているわけだ。いくらなんでも。犬でも許せないことが男には一つや二つあると思うのだ。心の中では燃える闘志が叫んだ。
 ――犬だからって調子に乗るなよ! 羨ましいんだよ~~~~っ。
 むんずとヴィタの背中をつまみあげると、自分の腕に抱かせる。最初こそまだあそこにいたいみたいなまなざしを向けていたが、やはり主人のもとが落ち着くのだろうか。ヴィタはやがて、俺の腕の中で静かに丸まった。
 結局は俺がいいと言うのか。まぁ許してやらんでもない。
 一息ついて前を向き直ると、今度は島津さんが俺の方を見て羨ましそうに見つめていた。最初こそ、俺のことをそんな見つめられても……照れるぜ、と思ったのはもちろん嘘だ。
「あのさ、今下でブルーシート敷いてて、そこでヴィタと遊んでたんだ。だから、島津さんもどう?」
「いいの?!」
 まぁ素直な性格だこって。
 女というやつは誰も彼もこういった小動物が好みなのだろうか。だからモテルことを理由に犬を飼う不届きものが増えるのだ。ちなみに俺は違うと言っておく。俺がヴィタを飼い始めたのは、中学に入る前。まだ俺が純粋無垢な少年時代である。嘘はついていない。多分。
 また空き地に戻る。ブルーシートを整えて、そこに適当な布を敷くとそこに島津さんを案内した。
「どうぞ」
「あらら、山田君って案外紳士なのね」
「当り前だ。俺はいつでもレディファーストなのですよっと」
 俺もその隣に座った。ブルーシートが小さいからだろうか、心なしか、いつもよりも島津さんと俺の距離は近かった。ドキドキしているのは俺だけだろうか。隣を見てみる。ヴィタはまた俺のもとを離れて、今度は島津さんの膝の上で丸くなっていた。
 優しそうな眼差しでヴィタを見つめて、その頭を撫でていた。
 知らない表情だった。多分普通に高校に行き、その時には知りえなかった表情だと思う。とっても優しくて、とっても魅力的な表情だった。
 そんな天使みたいな横顔がふと俺の見据える。
「どうしたのよ。ぼーっとしちゃって」
 あ、と。
「ヴィタはまだ返してあげない。だってフサフサで温かいし、可愛いんだもの」
 そっちか。思わず、何見てんのよとか言われないことに安心しつつ、俺はちゃんと男として見られているのかということが不安になった。
「別にいいよ。ヴィタって女の人には懐くの早いから」
「でも、山田君にはすごい懐いてるみたい」
「だってそりゃ、飼い主だし、それに……あ、いいや」
 思い出したのは小学生の時だった。あれは大切な思い出だろうか。こんな時にならないと思いだせない思い出だというのに。しかし、あの出来事があってから、俺はヴィタと仲良くなれたと思えたのだった。
 不自然な言葉の切り方に、すかさず島津さんの捜査が入る。何、何よ! と詰め寄られて、島津さんの息が感じられる距離になると、さすがの俺も降参した。
「分かったよ、話すから」
「良し!」
 縮まった距離がたちまち離れた。それがとても惜しいことのような気がして、つい手を伸ばしかけてしまう。けれどその手は伸ばせなくて。
 俺は話し始めた。
「あれはね、俺が小学校五年生の時かな……」

 その日は俺にとって最上の日だった。だって、念願の飼い犬が俺の家に来るのだから。
 近くのホームセンターで買ったそいつはミニチュアダックスフンド。グレーとホワイトが混じったような色で、本当にまだ子犬だった。ある日買い物に行った時に俺が一目ぼれし、そして飼いたい、とねだったものだった。
 俺は昔からあまり物をねだらない性格だったらしい。今でこそ、いや、学校でこそあんな性格であるがしかし、家ではこんな静かな子で大丈夫かしらと言われている、結構真面目、というか寡黙、というか、まぁとにかくそんなキャラだったのだ。
 そんな俺がこんなに一つのことをねだった、その事実が親を驚かせて、そしてしょうがないかと買ってくれた。それがヴィタだった。こいつは最初から曲者だった。
 母さんにしか懐かないのだ。
 俺が飼いたいと言って買ってもらったというのに。それなのに、こいつは俺に牙ばかり向ける。可愛がりたい、でも出来ない。そんなジレンマが幼心にショックだったのを覚えている。
 ある日家族でピクニックに行った。車で二時間ほど行った山である。軽登山にはちょうどいいとされている山でその時期は秋も近かったためか、木々は緑から朱色へ変わっていこうとするのが分かった。
俺はヴィタに早く懐いて欲しくて、母さんからヴィタのリードを奪うと、そのまま歩こうとした。その時だった。嫌がったヴィタがそのまま走りだし、俺はその力に抗う事が出来なくて。そのまま走らされて、山の段差に足を挫き、そのまま斜面を転がり落ちた。
一回世界は暗転し、次に目を覚ましたら、よく分からない山の中。
周りは同じような木々で囲まれ、どこから来たのか、どこへ行けばいいのかもわからない。俺は夢中で泣いて、そしてヴィタの存在に気づく。ヴィタは近くにいなかった。いつの間にかリードから手が離れていて、俺は一人ぽっちなのだと悟る。
 その瞬間、世界がもう、何か違うものだと思ってしまって。俺は身動きも出来ずにただうずくまって。ひたすら父さんに母さん、ヴィタの名前を呟き続けた。
 いくらか時間が過ぎたころ、ガサリと近くの地面が鳴る。俺はびっくりして、その一画を凝視した。そこからは、片足を引きずったヴィタがいた。
 思わずヴィタに抱きつこうとするも、ヴィタは唸ってそれを拒む。悲しくて、俺はまた泣いた。なんで俺には懐いてくれないのか、なんで、と。野犬がでたのはその時だ。
 どう見てもがたいの大きなそいつは、俺を一睨みするとすかさず飛びかかってきた。俺はどうしようもなく無力で、どうしようもなく泣き虫で、弱い奴だったから、もうその時には恐怖で目をつぶった。
 でもいつまで経っても、そいつの攻撃は俺には来なかった。恐る恐る目を開ければ、目の前には俺を守って必死に戦ってくれていたヴィタがいて、ヴィタがそいつを追い返してくれたのだ。
 辺りは夜になり、暗くなる。寒くなって凍えていると、段々、ヴィタがこっちに近寄ってきていて。俺はポケットにあった犬用のお菓子を取りだした。仲良くなれるようなことがあれば、自分であげたいなと思っていたのだ。
 ヴィタは俺の手からお菓子を食べて、それがなんだか嬉しくて、また泣いた。ヴィタは俺の膝に乗り、頬を舐めてくれて。慰めてくれているような気がしたんだ。

 その事故があった時から、俺とヴィタは本格的に仲良くなった、と。ただそれだけの話だった。
 懐かしい話もあったものだと話終えてから少しの間感傷に浸る。こういうことを覚えているって、心にとっても多分大事なことなんだろう。それだけでこんなにも優しい気持ちになれるんだから。
 横を見ると、涙腺が緩んでいる島津さんの顔が映る。
「いい話ねぇ」
 そんなにいい話だろうか。正直、こんな話はすると、よくあることじゃね? とか言われるのが常だから、あえて言わないようにしていたことなのに。そんなことで泣きそうになっている彼女がおかしくて。でももっとそんな顔が好きになった。
 感受性も高いんだなと思う。
 泣いている姿も可愛いなと思った。
「そうかなぁ。でもま、ありがとう。この話で真面目に泣きそうになってるの見たの島津さんが初めてだ」
「そうなの? おかしいわね、こんなにいい話なのに。みんな心がおかしいのね、多分」
 不意に会話が止む。
 ふわりと川に乗るようにして風が吹いてきた。川の匂いや芝生の匂いをたっぷり吸いこんだ風はこの時期だから寒いけど、それとは別に心地よいとも感じられる。
 この沈黙の中で俺は思いだした。この前のことである。電車の音で聞こえなかった、おそらくは大事なはずの言葉。その続きを聞きたいなと思ったのだ。
 隣を見る。相変わらず島津さんはヴィタを膝に心地よさそうにしていた。この空気を今から壊すかもしれないことを心のうちで謝る。でも、何かを言わないと始まらないから。あの時の言葉は聞かないといけないのだ。
 自分にとっては恐ろしくマイナスな言葉かもしれない。プラスな言葉かもしれない。どれにしたって、島津さんが俺に話してくれようとした。それを聞かずに何を聞く。
 不安や色々なものが混沌として、俺はその声帯をふるわせられないでいた。いつもならば無駄にでかい自分の声が今日この時は十分な機能を果たしてくれない。そんな物は欠陥品だ。
 だから頑張れ。俺の声帯よ。
「あの!」
 出た。
 なんとかその一言を紡ぎだせたことを安心し、そしてまた緊張した。島津さんはこちらを向き、頭の上で疑問符を浮かべている。その先が何かを知りたいらしいが、生憎、自分で言っといて、その先はビビって言えてないでいる俺が何とも恨めしいことか。
 とりあえずイメトレをした。
 この先言ったらどういう言葉が返ってくるだろうか……。いや、そんなことを考えてしまうから先が言えないのだ。
 誰かが言っていた、その先に進めないのは、最初からこの先起こるかもしれない最悪な事態を思い浮かべるからだ、と。もしかしたら、この先には幸せなものが待っているからもしれないのに。なのに最初から最悪なことを考えている。だから進めなんだ、と。
 ええい、ままよ!
 俺は目をつぶった。何もかもを視界からシャットダウンした。それにより俺の不安値は約二十%も減少した! さていけ自分よ!
「あのさ、この前のことなんだけど!」
「この前?」
 おし順調だ。
「駅で、島津さんが何か言おうとした時のこと。あれ、電車の音でよく聞こえなかったんだ」
「え……」
 相手は黙る。俺は瞼の中に焼き付けられている、空想の島津さんを見た。その表情は怒りか、悲しみか、恐れか。そのいずれも該当するような複雑な顔で俺を見ている気がしてならない。
 それも自分の不安フィルターに通しているからそう感じるのか。では現実を見るにはどうすればいい。このフィルターを一時的に取り除きたい。では、目を開ければいいのではないか。
 俺は目を開けた。そして目の前の島津さんは顔を赤らめて、悶絶している。ヴィタには伝わらないように悶絶しているものだから、その微妙な仕草がまた可愛らしいと不謹慎ながら思ってしまう。
「あの……」
 続きが出ないようなので、恐る恐る俺は話しかける。島津さんは動きを止めて、大きくため息をついた。
「聞こえて、無かったの?」
「うん」
「だからかぁ……」
 だから? 意味が分からなかった。それが分かれば俺は態度を改めていると言っているような素振りである。
「聞かせてもらえる?」
 言うと、島津さんはジト目で俺を見た。言いたくない感じがとても綺麗に表現されていると思います、と美術の先生張りに評価してみた。心の中で。
「聞きたいの?」
「もちろん」
「誰にも言わない?」
「ん? ああ」
「今一瞬、どもったわね、信用できないわ」
「いや、言わないから。あの泣いてたこと言ってないことが何よりの証拠だ!」
「……そうかもしれないけど……」
 マシンガントーク的な応答が終わると、島津さんはまたため息をつく。これは言うのが嫌というよりも、それを言うのを躊躇ってるように思えた。言ってもいいけど、心の準備がって感じのあれだ。
 ばちこーい!
 いつの間にか目の前の空き地では少年野球が繰り広げられている。ここは、微妙に外れているからまぁ位置的には問題ないだろうが、なんだか複雑な心境だった。まさか、こんな目の前で野球してたのに気付かないなんて、どれだけ俺達は言いあっていたのだろうかと。
「キャウン~」
 ヴィタが目を覚ます。ブルブルと震えると島津さんの膝から飛び降りた。そしてどこけ行くのかと思えば、近くの地面で用を足していた。
 見上げれば飛行機雲が伸びていく。
 雲は今日も滞りなく流れていて。
 空気すらも午後の穏やかさをはらんでいるような感じがした。
 俺と同じように犬の散歩をしている人や、ジョギング中のマダム。
 エイオーッと掛け声がやかましく走る道着を着た男たち。ほとばしる汗が嫌だった。
 そんな平和な時間が流れて、その中で今俺達は、真剣に話し合っているんだ。それを思うと、なぜだか込み上げてくるのは笑いで。それはどうやらこらえられないものらしく、もうお腹から這い上がって、のど元まで来ていた。そして、
「「プッ……アハハハ」」
 完璧に笑いが被った。相手も同じ心境だったのだそうだ。お腹を押さえながら島津さんは言った。
「なんか、真面目に悩んでるのが馬鹿らしいわね。こんな空気だと」
「違いない」
 ふぅとお互いため息をついて。そして島津さんはこちらを見る。目には闘志のようなものが見えなくもない。この平和な空気の中に一粒の泡が浮かんでいるようなそんな感覚。
 俺も島津さんを見据えた。島津さんは深呼吸をする。そして、
「この前のことを話すわ」
「うん」
「私はね」
「うん」
 どくんと心臓が跳ねる。先ほど弛緩したはずの空気がまたきゅうっとしまった感じだ。ああ、自分はこの空気が苦手だとつくづく思えてしまう。これは先が気になる小説などではなく、先を聞きたくはないが、聞かなければ始まらない現実なのだから。
「私は、女の子が好きなの」
 は?
 疑問符が飛び交う。
 今の言葉を整理しようではないか。まず何を言ったんだ。どう解釈する。これにはどういう暗喩が含まれて……いるはずがない。だってそれならどうしてそういうことを言わないといけないのだ。
 初めから俺を騙すつもりでいたのか。もしくはこれは咄嗟に出た冗談なのか。どちらにしろブラック過ぎる。チキンハートを持つ俺には少々ばかりか大分辛みの強いハバネロのようなもので。
 この瞬間から俺は耳を閉じたい衝動へ駆られる。そして、それを実行しようとした。最後の一瞬で視界に島津さんが入る。そこには目を逸らさないでこちらを見続ける彼女の姿。
 俺は恥じた、自分の行動を。島津さんは精一杯言ってくれた。おそらくはこの穏やかな空気を完全に壊してしまう、もしくはそれ以上に、せっかくここまで仲良くやってこれたのに、その関係すらも壊してしまうと自覚しながら。
 少なくとも俺は島津さんのことを友達だと思っていたし。島津さんも俺のことを友達だと思ってくれていると信じたい。だからこそ、こんな行動に出た彼女に最大の敬意を払わないといけないと思ったのだ。
「そう、なんだ」
 やっと出た言葉だった。絞りとるように飛び出した言葉のなんと貧弱なことか。こういうときは、どうすればいい? どういう声音で、どういう会話をすればいいのか。学校で特訓した人間関係のマニュアルは一瞬の彼女の一言で玉砕し、白紙へと戻ってしまっていた。
「ショック、だった?」
 ショックじゃないはずがない。もう足元から底なしに沼にはまったような、そんな気持だった。これが夢だったらいいのに。そういうことを心の底から願った一瞬だった。
 島津さんは先ほどの笑顔から反転、悲痛そうな笑顔を向ける。
「ごめんね、こんな話をしてしまって、でも、山田君には言っておきたかったんだ。私の友達だし、それに一つだけ協力してほしいこともあったから」
 でも、と。
「ごめんね、やっぱり、無理だったみたい」
 きちんと俺に届いたらこうだ。以前までは聞かないといけないと思っていた言葉が俺の胸に深く突き刺さる。聞かなきゃよかった。だって、俺の顔は今、酷い造形になっているに違いない。
 彼女のことを直視できない。それくらいに心の中が闇に染まっていた。
 そして島津さんは立ち上がる。零れ落ちたのは涙か。それとも別の液体か。
 いや違う。あれは紛れもない島津さんの涙だったんだ。立ち上がる体を俺は掴んだ。きっちりと掴んだ腕からは島津さんの温かさが流れ込んでくる。こんなに優しそうな子にそんな顔をさせてはいけないのだ。フェミニズム精神に溢れた心がそれを呟く。
 でも実際のところはそんな大それたことじゃない。全世界のフェミニズムに関することを考えたいわけでもない。みんなの涙を見たくない、なんてヒーローみたいなことも考えていなかった。ただ一人、目の前の女の子の涙を拭ってあげたくて。
 泣きたくなるくらい切ない気持ちで俺はこう言おうと思う。
「泣かないで。そんなことないから。俺は島津さんの友達だから。だから、全部から逃げたくない。悲しいことがあれば来ればいい。辛いことがあるなら、俺のところで泣けばいい。悩みたいのなら俺に愚痴をたくさん吐けばいい。俺はいつでも島津さんの味方だから」
 本当の真実の思いと、それに混じった羞恥からのオブラートが半分ずつのセリフを言い終えると、島津さんは目を見開いた。
「ありがとう」
 儚いけれど。
 もうこの時点で気付いてしまった。俺にはもう立場が無い。もう“男”としての立場が無いことを。だから決めたんだ。だったら俺は島津さんにとっての友達としての立場を極めようじゃないかと。
 失恋って悲しいんだなと思う。
 ノリで付き合った女ならいた。だって俺は学校ではそういう仮面を被っているからだ。本当は根暗でどうしようもない臆病な俺を隠すように。
 そんな本来引っ込み思案な俺だからこそ、その最初に夢中になりかけた恋に想いを伝える前に敗れてしまったことが悔しいと思う。
 だからって今から言うか! という気持ちにはならない。それは俺にとっての島津さんの笑顔こそが、それを守ることそこが、俺にとっての青春だと理解できたから。冬なのに俺の青春は今から始まるのだ。
 甘酸っぱいのじゃない。出来れば最高に切なくて熱い青春にしてやろう。彼女の笑顔がヒマワリのように咲き続けることを信じて。
「おう! 友達だからな」
 また仮面を作る。彼女を笑顔にするための仮面だ。それはいつでも笑顔という仮面。
「それで相手はいるの?」
 俺の笑顔に安心したのか、島津さんはコクリと頷くと、座りなおした。俺も座りなおす。すると、今度は俺の膝にヴィタが乗った。しきりに鳴いて、俺の頬を舐め続けている。きっとヴィタなりに俺を慰めてくれているのか。
 ヴィタとの友情がさらに深まった気がした。
「相手はね」
 二度あることは三度ある、という言葉をご存じだろうか。
「三年の高橋優佳先輩なの」
 俺は本日二度目の、いや三度目か? もうそれすらも忘れてしまうほどの衝撃を受けた。
「へ? 優佳先輩?」
 高橋優佳、三年二組で席は真ん中の少し前らへん。好きな食べ物は甘いものより辛めのもの。好きな動物はフェレットで好きなタイプは乙女の秘密。見た目は可憐で少し茶色の混じった綺麗なストレートの髪。腰まで届く長さで、その穏やかな見た目とは裏腹に結構男気がある。
 なぜそんなに知っているのか。
 簡単なことだった。優佳先輩は俺が所属する保健委員の委員長で、一年の時からお世話になってる人だったのだ。
 もうここまで土台は出来ている。島津さんがこの先なんて言いたいのかなんて想像がついた。
「山田君にはその仲を取り持ってほしいのよ」
 ここまで出来すぎていると思わず先ほどの言葉を撤回したくなる。これではまるで、このために俺と仲良くなったみたいではないか。
 でもまぁ、それは考えずに置いておこう。今考えたら折角芽生えた……偽物かもしれないけど、友情に傷が付いてしまう。そんなことは考えないで、それは意識の外のごみ収集所に捨ててしまえ。俺は島津さんの笑顔を守ると決めたんだから。
 島津さんとの別れ際に、俺がいいよと言うと、とっても笑顔でありがとうと言ってくれた。段々島津さんの乗った自転車は遠のき、そして俺はその芝生にすとんと腰を下ろした。
 肩にヴィタが乗る。耳元を舐めて、スリスリしてきた。ああ、友情とはいいものである。こんな時に慰めてくれるんだから。
「大好きだぜっ! ヴィタ~~」
 抱きつくと嬉しそうにヴィタは鳴く。俺の嘆きは朱色に染まりかけた天に空しく響くだけであった。
 尚、近所の山田家の息子さんが犬に求愛をしていたという噂が流れたのは余談である。
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2

『山田アフター~a secretスピンオフ~』


 こうやって話す機会も多くなると忘れがちになるけど、島津麗佳はこの学校のアイドル的な存在だ。現に、島津さんと話しているのを他の生徒に見られたときの視線というのが嫉妬丸出しだから分かる。
 ある秘密を知ってしまった。そんな些細なきっかけで話すようになった。これは喜ぶべきか否か。
「なぁ、どう思う?」
「んあ。そうだな~」
 体育の時間でバスケをやっていた。俺と透のチームはただいま採点係。ローテーションで試合をやっていた。そんな合間を使っての相談である。
「っていうか、お前、俺が話したときに本気じゃなかったのかよ」
 透が不満を顔全体に広げて表している。不意に可愛いと思ってしまうのは秘密である。こういう無邪気というか、感情の表し方に幸野は惹かれていたのだろうか。分からんでもない。
「うん」
 ごめんなというと、まあいいけどとそっぽを向いた。
「俺さ、幸野に告白するときに、お前が島津さんのこと好きだって、随分チャレンジャーだなって。勇気もらったのに」
段々と言葉の後ろにある棘が増えてきている気がした。そのままアイアンテールとかやりそうな勢いだ。
「ごめんてば」
 体育館内にはボールをつく音やキュッキュというシューズが地面を蹴る音がしきりに響いていた。男子は最初は遊び感覚でプレイしていたのだろうが、段々と本気になって、今では結構ガチンコで勝負している気がした。そういう時の男子の顔というのは決まってかっこいいと思えてしまうものだ。
 誰かがスリーポイントを決めている。俺が担当する方のゴールだったのでペラリと三枚得点板のビニールをめくった。
「じゃあさ、今はどうなの?」
「今? 島津さんのこと?」
「それ以外に何があるんだよ」
 呆れたという視線を透に向けられて居心地が悪くなる。
 脈略もなく始まったからイマイチ要領を得なかったろうが、俺は今、透に相談中なのだ。相談の対象はもちろん、島津麗佳。あの時の泣いているところを目撃したところはもちろん伏せつつ、幸野星香なんていう超難関キャラを攻略した友人に相談中、ということだった。
 正直、意見を聞きたいと思っていたが、実のところ、未だに自分が島津さんのことをどう思っているのか、それについてはあまり考えていなかった。
 ちょっと前までは外見とか、アイドルっていうブランドとか。そういったあれこれで憧れを少し勘違いしたような恋慕を抱いていたが、透と幸野の二人を見ていると、それが馬鹿らしく思えてしまって。故に今はどうなのと聞かれてもよく分からない。それが現在答えられる一番の答えではないだろうか。
 それ以外の言葉は、今のところ、自分の頭の中のボキャブラリーの中には存在していなかった。
「よく、わかんないんだ」
 正直に言ってみる事にする。
「前まで俺が抱いていた気持ちは恐らく、憧れとかブランドとかに似たようなものを恋に置き換えていただけなんだろうって。それが今までの気持ちだった。でも、最近、お前ら二人を見ていて、それで疑問に感じたんだ。俺が思っていた関係とは違う。お互いがお互いを補足しあう関係。温かい空気を作り出せる関係。ああ、これが恋人なのかって」
 話し終えると、透は首をかしげていた。よく分からないのだろう。確かに、自分でもイマイチ要領を得ていないのは確かである。
 それでまた落ち込みそうになった。ああ、自分はこんなことで疑問を感じてしまうほどに純粋ではない。
「それで? それとこれがどういう風に繋がってくんだよ」
「ああ、俺はね、お前ら二人を見ていて、自分の気持ちは恋心ではないことを知った。そして面白い偶然で島津麗佳と顔見知りになった。今まではマドンナだった島津と」
 勘違いしているときは、島津さんを信仰しているような周りのやつと同じような心境で見ていた。
 ああ、あんな人と恋人になれればどんなにいいだろう。
 どんなに嬉しいだろう。
 横に島津さんが歩いているだけで自分は人気になれるだろうか。それこそ、全身を有名なブランドの衣服やアクセサリで包まれているようなものなんだろうかと。
 でも勘違いと知って、それからなぜか顔見知りになった。そんな偶然が俺にトキメキをもたらすかといわれれば答えはノーである。
 あんなに憧れていた女子が目の前にいる。しかし、本物の恋心というのがどういうものか知ってしまったから、それがどうしたと思ってしまう。ただ、可愛いなと思うけど、これが運命! とか勘違いしてしまいそうになるほど妄信もしていない。
 でも。それでも。
「お、また入ったぞ」
 また誰かがシュートを決めたみたいだった。今度は透が担当するほうである。透がめくるとコートの上では今入れた男子が「そっこぉ!」と叫んでみんなに呼びかけている。さっきアリュープしようと試みて失敗した奴だ。
「俺はさ」
「ん?」
 試合を見ることに気をとられていた透がこちらを向いた。
「気になるんだ。よくわかんないけど。馬鹿みたいだろ、勝手にアイドルのこと気になるとか言って」
 ここまで考えて、そういえば相手は学校のアイドルだということを思い出した。話しかけるのだって恐れ多いはずのアイドル。その人を相手に恋だのなんだのといっている自分が少々恥ずかしい。
「いんや」
 でも、透は思いっきり表情を崩した。
「そんなこと無いと思う。俺だって最初は諦めていたけど、進めたんだ。憧れでも何でもきっかけになるだろう。好きって気持ちは何かしらの感情の派生じゃないか。やっぱりお前はチャレンジャーだと思う。そういうのってなんか格好いいぜ。頑張れよ。付き合うとかじゃなくて、今の山田の気持ちがちゃんとまっすぐ向くようにさ」
 やっぱり透はカッコいい。可愛くてカッコいい。こんな奴と付き合える幸野は幸せ者だ。いや、彼女こそが透の良さを気付いた鋭い人なのだろうか。
 もしも俺が女なら惚れてしまうぜ、心の中で言っておく。そのまま言ったらタチマチ俺はホモ候補だ。それは不本意であるから避けたい方向。あくまで女に興味あるのです。
 言い終えるとちょうど試合終了の笛が鳴る。次は俺たちの番だ。透は俺の答えを待たずに立ち上がるとコートに小走りで向かっていく。
 それに続こうと立ち上がる。冷たい床にずっと座っていたせいだろうか、一回凍えるように体が震えた。
 小走りで遠ざかる背中を見て。そして笑みが自然とこぼれる。
 気持ちがすぅっと澄んでいくようだった。
「おしっ」
 今は目の前の試合を頑張ることにしよう。頭が良くないのに、二つも三つも考えるのは身の程知らずというものだ。
 今日はみんなに自分のことをスリーポイントシューターと言わせてやる。
 俺は走り出す。体育館シューズがキュッキュッと背中を押すようにリズミカルな旋律を奏でた。吐く息は白くて、体は相変わらず寒さに小まめに震えて情けないけど。踏み出す一歩は力強く感じた。



 帰り道。俺は透と帰りのあいさつを済ませると昇降口に向かった。靴を履き替えていると後ろに気配がひとつ。どうやらこちらを見ているような感じだった。
 後ろを振り向く。するとそこには島津さんがいて。そして何かいいたげにこちらをずっと見ているところだった。
「何?」
「べ、別に」
 プイとあさっての方向を見る。まぁそれならそれでもいいかと俺は外へと歩き出すが、すぐにスクールバッグの端っこを捕まれて後ろに引き戻された。
「なにすんだよ!」
 島津さんは俺を睨んで言った。
「こういうときは別にと言われても、それでも聞きだすところじゃないの!」
 そんな滅茶苦茶な理論があってたまるか。いや、理論ではない。それではただの持論である。俺はすぐにそんなのを振り切って帰ろうとしたが、踏み出してその足を止める。なんだか放っておけない自分が情けないと思うけど、それが俺の性なんだろうと無理やりに理解して向き直った。
「はいはい、それでなんでしょうか?」
「……」
そこで黙るか普通。
駄目だこれは。完全に上から目線が染み付いていやがる。面倒なことはこの上ないが、仕方ないので妥協した。こういう時は相手に従うのが吉といえよう。つまりは下手に出てほしいみたいだ。
「ごっほん! 間違えた。この私目にそのお言葉をお聞かせください」
「よろしい!」
 無駄に平均以上の胸をえっへんと張ると、美麗な笑顔を見せる。
「そうね、今日は私と一緒に帰らない?」
「でも……」
 言ってくれるのは嬉しいことなのかも知れない。しかし、俺と島津さんは帰る方向が反対のはず。ならば一緒に帰るなど、校門までになってしまう。そんな放課後デートはあってたまるかとデートでもないのに思った。概要は同じはずだから。
 そんな自分の態度に気がついたのか、ハッと気がついたような表情を見せると、満面の笑顔でいった。
「大丈夫よ。一緒に帰るの、というのは少しばかり誤植があるわ。ちょっと付き合ってくれない?」
「場所は?」
「駅前よ」
 それだけいうとさっさと前を歩いていく。さすが学園のアイドルと言うべきか。その立ち振る舞いといい、夕焼けに照らされて逆光気味に写るその背中はシルエットが綺麗に写っている。
 本当に自分は今、学園のアイドルと話しているのだ。そして、帰りに一緒に駅前に行くという。最初の羨望の恋慕こそ消えたものの、そんな不思議な感覚がフワフワと俺の体を包み込む。
 夢でも見ているのはないのかと思うけれども、そうではない。これは間違いなく現実。じゃなかったら。相手のことを何も知らないで、見た目と人気だけで好きだと言う馬鹿な自分がまだいるはずだから。
 それがないということは俺は現実に向き合っていて、ちゃんとこの脚で道を歩いているのだ。時々妄想や幻想に囚われて何回も踏み外しそうになるとっても細い平均台のような道を確かに歩いている。
 そんな無駄な思考をしていたせいだろう、ずいぶんと島津さんの背中は遠くなっていて、しばらくして気がついた島津さんが俺のほうを向いて早く来いというジェスチャーを見せた。
 キュッと少しきつめに靴の紐を締めると、その締め具合とは裏腹に、面倒な足取りで島津さんについていった。


駅前の商店街。
 これは裏設定になるのかもしれないが、現在季節は冬である。ということはどういうことかというと、そろそろ町はクリスマス色に染まってくる。何も無いようなさびしい町、天見町もそれは例外ではなく、クリスマスに向けて色めきあっていた。
 商店街の入り口を通り抜け、夕方のこの時間はもっとも賑わいを見せる時間と言っても過言ではない。八百屋は大声を張り上げて「ただいまタイムーセール中! 大根が安いよ~」としているし、ケーキ屋は店の前でクリスマスケーキの予約をやっていた。
 気のせいではないと思う。商店街のデザインも、いつもの煩雑としたものではなく、白と赤の色で統一されていた。来るクリスマスを意識してきているらしい。
「何止まってるのよ」
 どうやら俺は知らないうちに立ち止まっていたみたいだった。まだ商店街に足を踏み入れて入り口から数十歩も歩いていない。どうしてか、変な気分になった。これもクリスマスが近いからだろうか。
「ごめん、今行くよ」
 俺が駆けていくと、島津さんは言った。
「どうしたの? あんなところに止まってさ」
「う~ん」
 考えてみる振りをするが実際は自分でも良く分かっていないのだ。でも、さっきも思ったみたいに。こういうときは全てあれのせいにすればいいのだろうと思う。
「クリスマスが近いからかな」
「何それ、おかしなの」
 フフフと島津さんが笑う。その笑顔を見て。そしてこんなにも寒いのに、一箇所だけ熱く火照っている頬に手を当てた。
 あーそうか。
 悔しい。率直な感想だ。


 商店街に来て何をしたいのかと思えば、島津さんは迷わず近くのコーヒーショップへと足を向ける。俺は何も言わずに着いていった。
 カラン。
 耳に心地よいドアベルの音が体に染み込んでいき、ふと薫るコーヒーの香りがリラックスさせる。
 二人掛けの席に座って、お冷が来たところで島津さんはモカブレンドをセレクト。俺はコーヒーの事は良く分からないので、島津さんと同じものをセレクトした。
「モカでよかったの?」
 島津さんが聞いてきた。別に、よく分からないのでと返すと、そうと言って目を伏せる。しばらくの沈黙。聞こえるのはJAZZの落ち着いたメロディだけだった。落ち着いた空間、落ち着いた人々。各々がこの空間に求めているのはおそらく、静かさだと思う。でも、そんな世間の狙いとは裏腹に、俺の心情は激しく落ち着いていなかった。
 それがなぜかと聞かれれば。
 それは目の前の人が原因ですと答えるだろう。
 透が幸野に好意を抱いていると気づいた時の話だ。俺は島津さんが好きだと言った。透はそれに背中を押され、そして告白に踏み切れた一因だと言う。でもそれは嘘だった。
 いや、正確にいえば「嘘になった」と言うべきか。
 あの時は好きだった。好きだと思っていた。しかし、それは一時の気の迷いで。そう言ってしまうのはあの時、面識が無かった俺が言うのは変なことかもしれないけれど。でも、それはただの憧れという感情で。透を見ていてそれに気がついた。
 故に、俺は島津麗佳を好きでは無かったのだ。
 と思っていたのに。今の俺にはその時の気持ちが無いことに驚く。確実に、今のような、島津さんと過ごす時間が掛け替えのないものになりつつある。要は俺が島津さんを好きなのかと聞かれればそれは分からないとしか答えることができない。
 でも、ふと見せる仕草に戸惑う。
 今見せているその笑顔が見ているだけでフワフワ幸せな気分になってきて。その視線が自分に向くだけでドキリと心臓が速くなる。
「どうしたの?」
 あんまりにも静かにしていたからだろうか、島津さんがこちらを見て聞いてきた。なんとも無防備な表情である。島津さんは俺にとっての友達かまだそこまでいっていないのかは知らない。しかし、その表情はおごりかも知れないけれど、友達に向けるそれに似ている気がした。
「なんでも、ない」
 ズズーッとわざとらしくコーヒーを啜ってみる。初めて飲んだモカはなんだかちょっぴり酸味を帯びている気がした。
 後で聞いたところによると、モカとは酸味が強いものだと知る。俺はこの味が好きだと思う。だって、なんとも心情を表しているではないか。
ということは心情により好みの味が変わるのか俺は。面倒だな。
 やがて、店内の窓から見える商店街の通りが騒がしくなったように思える。
「そろそろ、時間かしらね」
「何の?」
「仕事している人は帰宅する時間帯じゃない」
 ああそうかと思い出して、時間を確認した。携帯のディスプレイは夜の六時を指している。たぶんこの落ちついた空間を抜けてしまえば、外はガヤガヤと昼間とは別の顔をあらわにしているに違いない。
 そろそろ帰る時間なのかな。
 俺はそう思い、鞄から自分の財布を取り出した。お金は飲食代を差し引いて百円しか残らない。懐の寂しさはいつの時代も変わらない。ため息が出るばかりだ。
 まぁ俺は電車通学でないから関係ないか。
「帰りましょうか」
 島津さんが伝票を持って席を立つ。俺も二人分のかばんを持って席を立った。
「いいよ、持つわ」
「いんや、駅まで送ってく。だからそれまで持つよ。てか持たせてくれ」
 なぜかそんな気分になったのでそう申し出てみた。これでもまだ言うようなら、諦めるつもりだけど。
 島津さんはならお願いと微笑んでレジに向かった。そして二人で会計を済ませると、外に出る。今までは時間がそこだけゆっくりと流れているような空間にいた。しかし、外に一歩でも出てしまえば、こんなものだ。
 生活感にあふれた雑音たちに囲まれたような、そんなところに俺は立っている。全ての時間に喫茶店のような時間の流れ方になっていればいいのに。現実とはこんなものである。それを実感してしまうと、少しさびしい気持ちになった。
 駅まで続く商店街の道を歩く。
 聞こえてくるのは周りの喧騒と自分の足音だけだった。会話の無い時間。しかし、それは案外悪いものではなかった。それはもちろん、今、自分の隣には島津さんが歩いている。それだけでこの時間はとても心地の良いモノに思えてしまうのだから不思議だ。
 俺はそんな気分に浸りながら周りを見渡してみる。最近はすっかり見なくなった風景がそこにはあった。
最後にきちんとここに来たのは、おそらくは小学生のときだろう。あれも時期は同じくらいだった気がする。クリスマスの商店街。商店街はクリスマス色に彩られ、活気にあふれた商店街。俺は母さんに手を引かれながら、ここを歩き、そしておもちゃ屋の前で立ち止まると、クリスマスプレゼントをねだった。あの頃はまだサンタさんを信じていて、母さんに
『そんな我が侭言ってると、サンタさんが来てくれないよ』の一言に黙り込んでしまったような気がした。
 今はもちろん、そこらへんの仕組みも分かっていて。それよりもクリスマスにプレゼントをもらったりあげたりするという行為からも遠ざかっている。もう、子供じゃないんだとそういうことを思い出すと、ふと感慨に浸ってしまう。
 それでも変わらないのは空であろう。
 あの時見上げた空も、こんな風に……、
「……あれ」
 俺はしばらく立ち止まった。島津さんがそれに気付いて振り返る。
「どうしたの? 早く行きましょう」
「ん」
 適当に相槌を打って天井を指差す。つられて島津さんは顔を上げて「ふぁ」と意味不明な声を上げていた。そして、微かに表情を崩して言った。
「雪ね」
「うん」
 そうだ。あのときの空も、こんな風に圧迫感を感じさせて、青の要素も無いように、灰色の塊から白い結晶を地面に落としていたのだ。
 アーケード街は屋根があるために気がつきにくい。
 変わらない空。
 変わった身長。
 変わった声。
 変わった環境。
 流れる雲や、様々な表情を持つ空だが、根本的な部分ではいつでも空は変わらない。でも、色々なものが変わった。もちろん、価値観や恋愛観も変わった。こうして季節が移り変わって、体ばかりが成長して、そんな成長振りに心はビックリして背伸びすることを拒んでいる。
 今回は変われるといいな。
 変われるといい。大事な友達と、出来れば、島津さんと一緒に。
 クリスマスに何を望むだろうか。俺はどんなものより強欲にお願いしてみたいと思った。
 ――島津さんと、友達以上になりたいです。
 サンタさんは叶えてくれるだろうか。
 やがて、アーケード街を出ると、頭上高くに見上げていた雪がはらりはらりと至る所にまとわりついてくる。
 決して悪い気はしないが、雪はシミになると言うので制服は少しだけ心配にはなる。冬を感じさせ、刺すように寒い風を感じながら、俺たちは駅へと向かった。
 グムグムとちょっと聞くと嫌な感じの足音を立てながら雪の上を歩く。不意に思い出してしまうのは小学校の時なんかは新雪を誰が最初に踏むかという競争だったという思い出なのは俺だけであろうか。しばらくして駅が見えてきて、俺と島津さんはそこに向かった。その改札口にて、島津さんは立ち止まって、俺を見た。
「どうしたの。こんなところに立ってると寒いぜ。中、入ればいいのに」
「うん」
 ヒュオウと一際大きな風が吹いてきて、思わずその寒さに身を縮めた。
相変わらず島津さんは動こうとしない。何か言おうとしているのは分かる。しかし一向にその口は閉ざされたままだ。何が言いたいのか。何を言いよどんでいるのか。様々な憶測が頭の中をしきりによぎる。そしてその中には、もしかしたら、自分は島津さんに今から告白されるのではないかと言う淡い希望も二割ほど在駐していて。それもあってか、中々先を聞けなかった。
あるわけがない。
分かってる。でも、意識している子にああいう態度を取られると、男はしどろもどろなのですよ、と心の中の俺に一つ注釈を加えておく。
「あのね」
 言いかけた時だった。
 邪魔なチャイムが響き渡る。ホームには電車が来ることを知らせるチャイムが響き渡って、人々はみんな電車に乗る体勢になっていた。それは島津さんも例外ではなくて。
 ガタンゴトンと騒音のように電車がホームに滑り込んでくる。その車体が島津さんの後ろに見えた時に、島津さんはその口を控えめに開いたのだった。
「私! 私ね……」
 そこまでは聞こえた。でも、それ以上は聞き取れない。
 口だけが言葉を形作り、音としてではなく形として俺に何かを伝えようとしていたけども。でも、それは分からない。届かない。
 その言葉は絶対に、今日俺を放課後に誘った事柄について関係しているはずだった。だからこそ聞かなければならないのに。
「何! 何が言いたいんだ! 聞こえない!」
 俺が言うと、島津さんは儚げに笑う。なんでだろう。今の言葉はとても重要な気がしてならない。聞かなきゃいけないはずなのに。なのに。聞こえろと念じるけれど、それはレールと車輪の摩擦の音でかき消されて。彼女の声もかき消され、俺の念じる心もかき消されて。もどかしいとはこういうことを言うのだろうか。
 今すぐ、そっちに跳べたなら。
 そのあとちょっとの感覚がいら立って。必死にその視線だけは島津さんに向けた。
 島津さんは手をひらひらとした。
 さっきは分からなかったのに。今度は彼女が「バイバイ」と言っているのが分かった。
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『山田アフター~a secretスピンオフ~』


 俺は弁当の白いご飯を咀嚼しながら考えた。
 仮にこの世にバランサーのようなものがあったとして、間違いなくそれは狂っているだろうということだ。天秤は真ん中でブラブラすることはなくて、常にどちらかにゴンと重りが偏っているような。
 何故こんなことを考えるのかというと、いつもは馬鹿だが、いきなり哲学に目覚めたとか言う話にはあらず。純粋に目の前の光景をみたときの感想であった。
 時間はもちろん昼休み。十二月も初旬ということから、夏ほど外で遊んでいる生徒は少ない。学校ではお馴染みのヒーターがゴウゴウと熱気を発して、教室内はヌクヌクと暖まっていた。
 俺は紺色のカーディガンを上に羽織り、皆と同様に暖かい恰好で昼ご飯を食べていた。教室のなかは和気藹々と昼食を楽しむ生徒の会話ですこしうるさいなと思うほどで、備え付けのスピーカーからは明らかに個人の趣味全快の激しいナンバーが流されていて。そしてこの暖房器具や、人の活気の熱にも負けない一角が存在していた。
 それは俺の目の前だったりするのだが。
「あれ、今日は和食なんだね」
「ええ、ヘルシーに和食で攻めてみたわ。さぁ、食べて」
 俺の目の前で繰り広げられている光景、ある意味でどんな犯罪よりかも許しがたいその光景。幸野と透が仲良く昼飯を食べていた。愛妻ならぬ恋人弁当というやつだ。
 一見、クールな幸野が弁当だけ透の前に置き、あとは勝手にどうぞと冷たくあしらっているように見えるかもしれないが、そこは余興。茶番はこれから始まるのだ。
「ねぇねぇ、食べてって冷たくない?」
「そんなことないわ」
 黙々と幸野は自分の弁当を丁寧な仕種で口に運んでいた。流れるような一連の仕種は一瞬、どこぞのお嬢様を思い浮かべる。
 その隣で透が上目遣いで幸野をじっと見つめつづけた。これで分からない訳ないよね、まさか。と目が言っいてるのが分かってしまう自分が憎い。
 しばらくの静寂。
 そして両目を閉じるように弁当を食べていた幸野はそーっと片目を開けた。当然、上目遣いの透と目が合って、そして目を背けた。それを二回三回と続けて、その後にため息を付いた。
 しょうがないぁと。
「それじゃ、口を開けて」
 ゆっくりとした仕草で幸野は透から弁当を受け取り、おかずを一掴み。それを「はい、あーんして」と口に運んだ。
「いただきます」
 満足げに透は目を細めてそれを口にする。ああ、なんでだろう。あれだけのことなのに、元々おいしそうに見えた弁当が金粉を塗しているような弁当に変わったように見えてならない。俺は手元にある自分の弁当箱を眺めた。
 それはもちろん、彼女の手作りなんてものではなくて、約九割が冷凍食品の弁当である。冷凍食品だけあって、味はちゃんとしている。これは友人が言っていたことだが、冷凍食品を多く食べると、添加物が体内に溜まっていって、将来的に未熟児などが生まれやすくなるそうだ。それは大変に恐ろしいことではあるのだが、こんなに簡単に安定した味が楽しめるものを他に知らない俺は、どうしても食べてしまうのだ。
 とはいっても、味はいくらでも安定している。しかし、そこには愛がない。故にそれは美味いだけなのだ。愛情のスパイスが欠けている弁当は味気なくて、食べると心が冷え冷えしてしまう。
 幸野はと言えば口でこそ嫌々言っているものの、口元が緩んで、目は熱く潤んでいた。まぁ随分と遠回りしてしまったが、故に二人はラブラブなのだ。ただの友達だった透に彼女が出来た。
 弁当とか特に気まずくなること請け合いだった。
「おいしい?」
「もちろん! 幸野の愛情が入ってるもん」
「……馬鹿」
 これ以上は目に毒だと判断した俺はさっさと弁当を胃に詰め込んでしまうと、立ち上がって二人に言った。
「あのさ、邪魔して悪いけど、ちょっと飲み物買ってくる。ついでに目が熱に当てられたものですから、外の冷気で冷やしてきます」
「――ごっほん」
「んんん」
 俺の嫌味に二人は赤面して、下を向いた。その調子で少しは自覚して尚且つ自重して欲しいものだ。でもどうせ、一分もしたらまたいちゃいちゃ始めるのだろう。
 心の中がブリザードで荒れてしまう前に、俺は教室を出ることにした。
 廊下は何故だか二乗倍くらいに寒いと感じた。



 昇降口の所に自販機は設置されている。微妙に外に近い場所だ。なぜもっと室内に置かないのだろうか。こんなところでは夏は暑いし、冬は寒いではないか。業者のことなど考えないでいいのに。
 ポケットに手を入れてみた。
 チャリンと嫌に軽い音がして、見てみると案の定百二十円ちょうどしか入っていなかった。今朝買った、菓子パンがいけなかったんだろう。調子にのってあんなものを買わなければよかった。
「はぁ、ついてねぇなぁ」
 飲み物は温かいミルクコーヒーをセレクト。俺は缶コーヒーならば一番は某会社の炭火焼コーヒーが一番だと思っているので、それが校内の自販機にあるのは僥倖だといえる。もしも俺が王様だったら、セレクトした者に金一封を持たせたかもしれない。ちなみに単価はウォンである。
 先ほど言った熱に当てられたので……のくだりを実践しようと外に出た。
 雪こそ降っていないもののやはり寒いもので、マフラーを持ってこなかったことを後悔。しかし、ここで戻るのも面倒だしと近くの地面に腰を下ろすと、座ってボーっとしてみた。
 灰色の空はなぜだか圧迫感を覚える。
 子供のころは、これが空が落ちてくると錯覚して、親になきついていたっけ。今も圧迫感は覚えるし、空は低くなっているなぁと思うものの、空は落ちてくるものではないと分かっているから泣きはしなくなった。でも、どこか寂しさを覚える。
 ただ灰色なだけなのに。
 気のせいかもしれない。でも、冬は晴れの日は少ない気がする。いつも曇っていて、いつでも雪を降らすことが出来るようにスタンバイしている気がするのだ。秋の空はもっと表情が豊かで、女心と秋の空なんていうくらいに、大変だし、見るのも飽きなかったけど、冬の空にはそういう要素が薄いように感じる。
 昇降口から見える景色はそっけないもので。唯一感じるところがあるとすれば、学校を囲むようにして生えている桜の木には特に何も咲いていなくて虚しいなと思うくらいだ。あれは春になると鮮やかなピンクで化粧をするのだ。
 あの下で宴会なぞ開きたいと思うほどに。当然、先生が怒るからやらないけれども。
 不意にさっきの光景が脳内を通り過ぎた。
 とても幸せそうな光景だった。
 あんなにも笑顔で。あんなにも熱を帯びた目で見つめられて。話しかける言葉一つとってみても、そこには愛情の重みがあるように思えた。恋愛っていいなぁと思うのだった。
 そういえば、透はあの幸野星香を落としたんだよなぁ。ちゃんと考えてみれば、それはそれで、どれだけすごいのかと驚いてしまうほどである。
 学校中の嫌われ者……とまで行かなくても、少なからず、二年生からは嫌われていた美人だけど性格最悪な幸野星香の心を射止めてしまった結城透。最初こそやめたほうがいいなんて助言のつもりで言った俺が馬鹿みたいに思えた。
 熱意さえあればそれでいいのだろうか。
 それで恋愛は成立するものなのか。
 あんな幸せそうな二人を見ていると、なんだか無性に羨ましくて。あんなに温かい空気を身に纏ってみたいものだと思う。上っ面だけ島津さんが好きだ、なんていってる自分がどうしようもなくみっともなく思えてしまった。
「冬だけど~青春したいな~」
 ぼーっとどこを見るでもなく呟いてみた。やまびこは不在らしい。返事はもちろん返ってこなくて。
 吐いた息が面白いくらいに真っ白だった。凍えるような北風が吹いて、いつの間にか缶の中のコーヒーが尽きていたのに気がついた。そろそろ帰ろうか。そんなことを考えつつ、立ち上がったときのこと。
「はぁはぁ」
 いきなり荒い息遣いが聞こえたかと思うと、俺の隣に島津麗佳が走ってきて。そしていきなり、
「うわぁぁぁん」
 泣きだした。



 しばらく泣いている姿を見たあとに、自分はどうやら逃げられないようなポジションにいることに気がつく。今からじゃどう動いても島津さんに見つかるコースであるからだ。
 どうしようか、いっそのこと堂々と今から登校したことにでもしてしまおうかと横着していたときに、不意に島津さんの目が俺を見る。
 驚き。
 羞恥心。
 後に怒り。
 何かに耐えられないような素振りで島津さんは立ち上がる。腕はプルプルと震えていて、どうやらよほど寒い……というわけでもなく。明らかに俺のことを敵視するような眼で見ていた。
「見たの?」
「あ?」
「今の、見たの?」
「ああ」
 こういうのは嘘をつかないに限ると相場は決まっていた。あとでネチネチと言われるよりも、今のうちに怒りは買っておくに限る。新鮮な怒りは消費期限も早いことだろうし。
 島津さんはふぅと息を吐く。クールダウンのつもりだろうか。
 しかし、美人はこういうときにでも得をするものなんだろう。島津麗佳。この学校のアイドルで、透と以前話していたときに俺が好きなんだと言った人物。クラスが違うし、そもそも話す機会も訪れないことだろうと思っていたから、本来ならここは喜ぶところなのかもしれない。
 でも、先ほども言ったとおり、これは上辺だけの気持ちだった。透と幸野を見ていたら改めてそう思った。故にそこまで嬉しくない。ついでにファーストコンタクトが悪い意味で目立ちすぎていた。
「そう、わかったわ。このこと言わないと約束してくれない?」
 島津さんはクールダウンを終えたのか、高圧的な態度で俺に言ってきた。先ほどのこと、とはつまり泣いていたことか。
 別にわざわざ言うほどのことでもないだろう。しかし、
「別にいいけど。でも、その態度が気に入らないな」
 そう、態度が気に入らない。人にものを頼むときはもう少し頼む態度というのがあるはずだ。そういう風に小学校で習わなかったのか。
 相手は一歩後ずさりした。どうやら俺の言うことがよっぽど意外なことだったのか。
「な、何? じゃあ何をすればいいのよ。まさか、かかかか」
「体、とか言わないから。そんな無理やりやっても面白くないし、まぁ頼みかたがあるだろうってそういう話だよ」
「そう?」
 案外面白い生物じゃないかと思った。今までは美しいだけで、高飛車で、女王様キャラで通っていたと思っていたからだ。考え方は案外子供っぽいのかもしれない。
 島津さんはい住まいを正す。そして優雅に一礼した。
「先ほどの無礼は申し訳ありません。そしてお願いがございます。私があのようなことになったこと、どうか他言無用にお願いします」
 少々わざとらしい、むしろ、相手がわざとやっているとしか思えないくらいに馬鹿丁寧だが、まぁ最初から言うつもりはなかったし。
「わかった。それじゃ」
 俺はその場を後にした。これ以上あそこにいる意味がない。体が芯から冷え切って、これでは温かいコーヒーでは癒せないと判断したからだ。やかましいが、暖かさはピカイチなはずの教室に向かうことにした。
「あの!」
 後ろから呼び止められる。後ろにはもちろん、島津麗佳がいた。
「あなた、名前は?」
「自分が先に言うのが筋じゃないの?」
「私は! 島津麗佳よ」
 知ってるけど。なぜだかこういうセリフを言ってみたかった。俺は顔の方向はもう教室に向かったまま口を開く。後ろにも聞こえるように少し大きめに。
「俺は山田孝高。二年だ」
 慣れない事をして、顔が火照ったように熱くなった。
 ん、なんだ。
 背伸びはいけないな。



 階段はいい。特に今俺がいるこの階段は特にいい。
 別に俺が無機物愛に目覚めたわけではない。もてないが、だからと言って無機物に逃げることは無い。断じて。
 ここは東階段の最上階。ここを数段登り、踊り場に出ても屋上へと繋がるドアは存在しない。屋上へと繋がっているのは中央階段だけなので、その分出入りも少なく、不良がはびこるようなアウトローな校風は持ち合わせていないから、安心して、不良のたまり場にでもなりそうなここに腰を下ろせるのだ。
 少々埃っぽいのはネックだが、定期的に家から持ってきた雑巾で清掃しているために案外、綺麗さは保たれていると信じたかった。
 うす暗いが、落ち着ける場所。
 それがこの場所の最大の長所であることは間違いなく、一年の時にこの場所を見つけた時は歓喜に涙……はしなかったが、ちょっと興奮はしただろう。
 誰にも邪魔をされずに、自分だけの時間を思い思いに過ごせる。
 一人でこんなところで何を言っているのかと思うかもしれない。しかし、俺は自分のことを存外根暗な男だという評価を下しているのだ。普段はチャラく振舞っているが、ここにいる時の、特にため息が零れ出る辺りの俺は、限りなく素の自分に近いと思う。
 先も言ったように、ここは誰に邪魔をされずに……という場所のはずだった。少なくても一年生の時と約十二カ月とちょっとの間は。
 今日は客人がいるらしく、ほぅと缶コーヒーの味の余韻を楽しんでいると、階段の下の方からみ目麗しゅう学園アイドルが顔を覗かせている。
 俺が気づくのを見計らってか、島津さんは駆け寄ってきた。そして、
「今日は何を聞きに来たか分かるかしら?」一人の休憩タイムを邪魔してきた。
「んあ~、言ってないよ~」
「なら良いわ」
 ストンと静かに島津さんが俺の隣に腰をかける。俺の一人の時間を邪魔しに来たらしい。授業も終わり昼休みの事だ。俺は缶コーヒーを買って、階段にて一人で黄昏ているときにいきなり島津さんが話しかけてきた。
 いきなり何を聞かれるのかと思えば、この前の事であった。当然言っていないのだから、何も思うところは無い。
 あれからしばらくして。島津さんは何かと俺に話しかけてくるようになった。相手としては、本当にあのときのことを話していないか確かめたいらしいのだ。そんなことはしないのだけど、しかし、そういうことで話しかけられるのはなぜか嬉しいものだった。正直、女子にあまりもてたこともない俺だから。
「それで何の用?」
「特に無いわ」
 カシュ。
 島津さんも自前のコーンスープをあけるとズズズと飲んでいる。
 内容物がまだ熱いのか、それとも島津さんがただの猫舌なだけなのか。まぁいずれかの理由があるとして。島津さんは飲んだそれを早々に缶に戻しそうな勢いで慌てていた。
「あっつぅ……」
 まぁ何も言うまい。ここでツッコムほど俺は芸人スキルに長けていないのだから。
 聞きに来るだけならば、それだけ聞いてわざわざここに残ることも無いのにと思うけれど、それが島津さんなりの礼儀なのだろうか。それは正直好感が持てるし、案外島津さんも普通の人間なんだなと思えてしまって少し笑えてしまう。
「なんか喋りなさいよ」
「だって、ここにはだらーっとするために来てるんだから、他の事はしたくないので~す」
 そして根暗な俺に戻れる場所でもあるので~す、ということは胸の内だけで言っておくことにした。しかし、ここでも学校での俺をしなければいけないのは少々面倒だった。
「ふ~ん」
 ズズズ。また島津さんはコーンスープをすすると、ほぅとため息をついた。なんかおいしそうだと思った。いつもはコーヒーだから今度は変えてみようかと思う。
 何分経ったか分からない。ゆっくりと流れるだけの時間に俺は身を任せていた。そして、隣の島津さんさえ忘れかけていた時のこと。
 バッと思い切り立ち上がったかと思うと、階段を駆け降りる。風圧でさらさらと髪が宙を舞い、膝くらいの長さのスカートをひらりとなびかせた。猫のようにしなやかに跳躍し、地面に足がつくと、島津さんはこちらを向いて言った。
「ここいいわね!」呆けていた俺に島津さんは最上級の笑顔を向ける。
「そう? お気に入りの場所だけど」
「うん。気に入ったわ。私も気分が滅入ったり、なんかぼーっとしたいって時にここに来ることにする。そんときは、私にジュースぐらい奢りなさい。じゃ!」
 言うだけ言ってさっさと島津さんは行ってしまった。大人っぽい女性なのか。大人っぽい童心を帯びた女性なのか。どちらでもないのか。正直よく分からない。でも、島津麗佳という人間がどうしてこの学校で人気を集めているのかは何となく理解できるような気がした。
 にしてもだ。なんだって、いきなり走って行ってしまったのだろう。まさか、もうすぐ授業が始まるわけでもあるまいし。
 と俺は自分の携帯を覗いてみた。するとそこには授業開始二分前の時刻が表示されているではないか。次は体育で、しかも着替えてない状況だと言うのに。
「やっべ」
 走り出す。
 誰もいないこの階段を。
 自分だけの休憩の空間をぶち破って。そこから先はいつもの日常。チャラい風に受け答えて、そして塗り固める学校での俺。人間必ずしも二面性を持っているはずだ。それを自覚するのかしないのかは別としても。少なくとも俺は自覚している。故に、学校での俺でもそれなりに楽しいと思える。
 また来る時も安息の空間であることを信じて。今日も退屈な体育の授業を受けに行くのだ。青春を謳歌しているわけでなく、あくまで日常を消化する手段として。手には体育着。もちろん、下に着込んでいるわけがない。正直遅刻ものだった。
 そしてもちろん、俺は先生に怒られた。通称マリオ先生に怒られた。先生の長い説教を聞きながら不意に思う。
 ああ、青春してぇなぁ、と。
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◇落花流水◇

2011.04.14【 『落下流水』

 ◇落花流水◇ 僕は今、電車に乗っている。今回は両親とでは無く、友達と、大事な彼女をつれて。 あれから二年が経った。今思えば刹那に感じるようなその時間は、早く過ぎたと思うけれど、同時に尊いものなんだと言うのも感じる。 今回は夏休みを利用しての旅行だ。場所は黄昏町、田舎に旅行するにはもってこいの場所だと場所決めの時に僕が提案したのである。なんと、宿はじいちゃんの家。そんなに人数多くないし、どうだろうと交...全文を読む


2

2011.04.14【 『落下流水』

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◇水火君私◇

2011.04.14【 『落下流水』

 ◇水火君私◇ ………ある日言っていたあの言葉が胸をよぎる。 片方の手にその花を持って言うのだ。 ――私ね、タンポポの花が好きなんだ。 理由は分からない。だって、教えてくれないから。でも、それを教えてくれなかった時の彼女はとても少女的だった。顔を赤くしている様子や、追いかけると、「べーっ」と舌を出して僕から逃げる。ひらりとプリーツスカートをひらめかせて。長く綺麗な夜の粒子を集めたような黒髪をなびかせながら...全文を読む


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2011.04.14【 『落下流水』

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◇流渡送心◇

2011.04.14【 『落下流水』

 ◇流渡送心◇ 夕方、私はいつものように準備を終える。今は部活が終わったばかりだった。夕方と言っても時刻はすでに夜に近い。赤い空は段々と黒ずんで、夜の到来を私に知らせていた。教室には誰もいない。よって私が最後である。それはまぁ、私が部長だからなのだけれど。 本当ならば、そろそろ部長を交代しないといけないはずなのに、その候補が現れないのだ。誰もやりたがらないと言うべきか。早く誰かに代わって欲しい、私は自...全文を読む


2

2011.04.14【 『落下流水』

  次の日、僕は欠伸をしながらテレビをつける。今日は朝から胡散臭い話題で盛り上がっていた。 どうやら昨日に、四番坂付近でUFOが目撃されたとのこと。黄昏町は不思議な事が起こる場所、と言うがまさかUFOまで守備範囲らしい。このままでは世の中の不思議がこの町に集中してしまう日が訪れるかもしれない。いや、このまにそこまで許容できるスペースがあればいいのだが。 見ている内にご飯が運ばれて、頂きます。食べ終えると、...全文を読む


◇花鳥佳人◇

2011.04.14【 『落下流水』

 ◇花鳥佳人◇ 電車の中は無言だった。とりあえず無言だった。 誰かが喧嘩したというわけではない。もちろん、車内には人がいる。しかし、その人とは僕と夕菜さんだけだった。僕たちが乗っているのは一番最後尾の車両である。いくら栄えている方の黄昏町に移動すると言っても、その実、田舎であることには変わりのないのだろうから東京に似た電車の中の喧騒と言うやつには無縁のようだった。 最後尾のさらに最後尾の席に二人して座...全文を読む


2

2011.04.14【 『落下流水』

  おばあちゃんが送りだされる時が来た。最後に顔を見て、そしてその穏やかな顔に安堵する。僕は昨夜に言いたいことを言ったせいか、心の中は晴れ晴れとしていた。葬式は逃げ出してしまったけれど、ここは逃げ出さない。きちんとおばあちゃんが旅立っていくのを送りだそうと僕は手を合わせる。 やがて日が棺桶を包み、おばあちゃんを囲っていた肉体と言う括りを抜けだして自由を手に入れた魂は煙と共に空に上がっていくのだろう。...全文を読む


◇落日動心◇

2011.04.14【 『落下流水』

 ◇落日動心◇ 人間と言うものは案外ショックに強く出来ているものなのかもしれない。その証拠と言ってはなんだが、僕は現在泣いていない。少したりともこの頬を濡らす液体は伝っていないのだから。 僕は愕然とした。自分の服装をまた鏡で見てしまったからだ。父さんと母さんは僕が酷く悲しんでトイレに駆け込んでいるのだろうと思っているに違いない。だから僕があの場を離れることを良しとしたのだ。 全身黒のフォーマルスーツ。...全文を読む


プロローグ

2011.04.14【 『落下流水』

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エピローグ

2011.04.12【 『縁堂へようこそ~真子の章~』

 『縁堂~居場所~』 あの事件はなんだったんだろうかぁと真子はぼうっとしながらアイスコーヒーを飲む。摩云宇館の二階のパン屋でアイスコーヒーを購入して一人で飲んでいるのだ。ただいま、二時間目始まって少し経ったあたりである。 琴奈も菜柚も授業に行っているが、真子だけ授業を取っていなかったので、そういう時のための席取り番である。「あう」 つい一カ月前にあったばかりの事件を思い出す。悲しいことも一杯あった。...全文を読む


10

2011.04.12【 『縁堂へようこそ~真子の章~』

 *** 乗り込んだ所、戦闘不能な敵が一人、そして、残る敵は三人というところだった。戦闘不能の敵は知っている顔だったので、驚いたが、双樹はそれを一戦闘個体と認識することにする。情が移ってしまうことほど、戦場で怖いことは無いはずだ。「あんたは回りを見て無さ過ぎ。本当に、一人では行動させられないわ」「うっさい」 双樹が皮肉を言ってみると、詩織は笑ってそう言ったので安心する。そこまで深手でもなさそうだ。 ...全文を読む


9

2011.04.12【 『縁堂へようこそ~真子の章~』

 *** うっすらと目を開ける。腫れているのか分からないが、上手い事目を開けることが出来ない。杏子は微かな息をしながら前を見た。 全身に痛みが走る。痛いと叫びたいが、身体が言う事を聞かない。腕も足もどこも動かせない。動かそうとすれば、もれなく、酷い痛みを感じて意識が遠のく。 杏子は意識を取り戻していた。真子を意思とは反対に襲ってしまい、完全に松下杏子という人格は、何か得体のしれないものの下に埋もれて...全文を読む


8

2011.04.12【 『縁堂へようこそ~真子の章~』

 ‡‡‡ 双奏鉄鎖を構えながら、真木詩織は走っていた。もう人目につく場所でもないし、それで良いだろう。 双樹に教えてもらった場所を頭の地図で辿りながら、目的の空間へと一気に飛び込む。本当ならば、少しばかり状況を把握してからの方がいいのかもしれないが、生憎、今の詩織の頭の中にはコケにされた相手へのリベンジしかなかったのだ。 そこは暗い通路だった。通路を疾走し、飛び込んだ先には開けた空間がある。その奥には...全文を読む


7

2011.04.12【 『縁堂へようこそ~真子の章~』

 『断罪~終局へ~』 何も成果が得られない、わけではないが、かんばしくも無かった。双樹はベンチに座りながら頭を抱える。先ほどは少しだけ違う観点の話が聞けたから参考にはなったがそれだけだ。それが何かに繋がるというわけではなさそうだ。 隣では詩織が飽きて、携帯を見ながら何かしている。どうやらメールらしい。相手は大体分かるがそれを思い浮かべると殺意が沸くのでやめておいた。ため息をついて辺りを見渡す。 大学...全文を読む


6

2011.04.12【 『縁堂へようこそ~真子の章~』

  講義を受けているときのことだ。後ろの席に座っているグループがヒソヒソなどと気を使っているわけでもない大きな声で話をしているのが耳についた。内容は、最近流行っている神隠し事件のことについてだった。 真子はペン回しをしながらその話を耳にいれつつ、授業には集中していなかった。まだノートを返してもらっていないというのは、実はかなりやる気を減退させる一つの要素だと思うのだ。「それはあんたがサボりたいってだ...全文を読む


5

2011.04.12【 『縁堂へようこそ~真子の章~』

 ***「はぁっ」 目を開けた。いつの間に寝てしまっていたみたいだった。それにしても酷い夢だったと少女は嘆く。酷い夢である。あんなに、幸せだったときのことがよみがえるのだから。 何も考えずにすごし、ただ時間という有限の代物を友人と遊ぶことだけに使うという贅沢。いっぱい笑った。いっぱい泣いた。時には退屈にさえ感じるその時間が今はなんとも愛おしい。他には何もいらない。だからせめて、あの時の自分を帰してほ...全文を読む


4

2011.04.12【 『縁堂へようこそ~真子の章~』

 『発覚~真知れ、残酷という物語~』 調査を始めて結構経った。詩織も双樹も事件が起こった場所などを中心に聞き込みへ励む。最初はネットや雑誌などを調べて、やっと聞き込みのポイントを絞るまでに至ったのだ。 馬草団地の横を歩きながら二人は話していた。「大学ないね」「そうね、ここらへんにあるはずなんだけど……」 ムームルマップを見ながら目的地を調べるが、どうやらその姿は未だに姿を見せないでいる。地下帝国でもな...全文を読む


3

2011.04.12【 『縁堂へようこそ~真子の章~』

 「ふむ、それで以上なのかい?」「そうです」 近衛双樹はいつものように無表情に事務所の所長に依頼の報告をしていた。所長の名は松波千秋という。しかし、特に事務所内、仕事の途中では「所長」または、別名である鈴蘭という名前で呼ばないと怒られる。鈴蘭は双樹にとって、力で対抗できない人物であり、この二人の関係を保っているのはある意味、力の主従関係というところだろう。 事務所の中は静まりかえっていた。詩織はソフ...全文を読む


2

2011.04.12【 『縁堂へようこそ~真子の章~』

 *** 雨が冷たいのだと。少女は思った。雨雲のせいでいつもよりも暗いと感じる道路を一人で歩く。学校では授業が終わっている時間ゆえにサークルなどから帰る人しか見当たらなかった。そういう人たちにとって、傘も差さずにぼうっと歩いている少女はさぞ奇妙に映ることだろう。 何を考えて歩いているのかと聞かれればそれには答えかねるというのが実際の感情だ。少女はいつの間にかこうなってしまった。 自分でも考えがつかな...全文を読む


1

2011.04.12【 『縁堂へようこそ~真子の章~』

 『噂~非日常こそが日常となりうるものを~』 こんな噂がある。二十号館の怪。今は使われていない校舎が大学内には存在して、それがどうして使われていないのかというお話だった。そこでは、昔殺人事件があって、それで不慮の死を遂げた女性の霊が夜な夜な徘徊しているという、よくありそうな怪談話だった。 葛城真子はその話をいつもの伝手で入手し、ある日、夏の夜に美術部の居残りでそれを体験した。もう死にそうなほど怖い思...全文を読む


プロローグ

2011.04.12【 『縁堂へようこそ~真子の章~』

 『発生~宵の秘め事~』 それは満月が綺麗な夜だった。夜も更けたころに二つの影が宙を舞う。常人には理解しがた高さを悠然と飛び、そのスラリとしたシルエットは美麗さを帯びていた。着地したのは、とある廃ビルの屋上である。着くと、慎重に歩を進める。 シルエットの一人、近衛双樹はポケットから設計図を取り出した。指でトントンといくつかのポイントを指差していく。「怪しいのはここら辺かしら。詩織は、こことここを探し...全文を読む


8

2011.04.09【 『山田アフター~a secretスピンオフ~』

 * なんでこんなにギリギリまであるのだろうか。俺はクリスマス後にもまだある学校というものを恨めしく思う。 インフルエンザやなんかで今年は休校が続き、その分の授業が今日まで来ているとのことだった。しかし、今日がやっと最後の授業である。 いやはや、だが今日学校に来るのは俺的にはかなり勇気、もとい色々なパワーが必要だったのだ。何せ昨日の今日だぞ。昨日あんなにショッキングな映像を見て、誰が落ち込まないとい...全文を読む


7

2011.04.09【 『山田アフター~a secretスピンオフ~』

 * デートも終盤と言う事で。俺は公園に来ていた。ポジションは草の陰。見つからないように、でも、ギリギリ声が聞こえてもおかしくないんじゃないかな~というような距離だ。嘘である。実は少し遠いところから双眼鏡を使ってみている。俺は最近どうも近眼なのだ。少し遠いくらいで双眼鏡を使う事はないのかもしれないが、それはそれ。これの方が味があって良いだろうという意味もある。 もはや漆黒色の空には限りなく分厚い雲が...全文を読む


6

2011.04.09【 『山田アフター~a secretスピンオフ~』

 * 本番である。今日は天皇の誕生日に続いてクリスマスイヴなのである。「はぁ~、まじでさっぶいわぁ」 息を吐くと限りなく白かった。まるで吐いた息が白い塊になって、そのまま固まってしまいそうな勢いだ。俺はコートを深く着込んだ。マフラーに顔をうずめる。頭はニット帽に守られているし、着込んだ服の数もかなりなのだが、見た目がもっふりなくせにやはり表に出ているところは寒くて仕方が無い。手袋が無いので軍手で来た...全文を読む


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2011.04.09【 『山田アフター~a secretスピンオフ~』

  冬というものは一日寒いものであるが、それでも、それは日が出ている間には少しばかり軽減されるものだ。しかしそれは日が暮れれば厳しい寒さへと変貌する。 俺と先輩は北風がびゅうびゅうと人間なんかに構わずにじゃれ合っている住宅地を歩いていた。お互い、そこまで家の距離が離れているわけではない。俺の家から先輩の家に行こうとするならば、それは大体十分くらいで行ける距離なのだ。 マフラーに必要以上に顔をうずめた...全文を読む


4

2011.04.09【 『山田アフター~a secretスピンオフ~』

 *「はぁ~」 ため息が出てしょうがない。これでは売り切りワゴンセール状態ではないか。でも買う人はいないだろうけど。俺はいつものように階段でコーヒーを飲んでいた。今日はなんだか朝から憂鬱な感じなのでブラックで攻めてみる。う~ん、やっぱり豆から挽いて自分で作ったほうがおいしいのか、とそれを言ったら立場が無いことを思ってみる。 今日は生憎の雨で、この時期の雨と言ったらとんでもないくらいに寒いし冷たいもの...全文を読む


3

2011.04.09【 『山田アフター~a secretスピンオフ~』

  何が言いたかったのだろうか。 俺は帰りながら考える。 雪が顔に吹き付けて、少し痛かった。今日は寒いという天気予報だったのに、それでもあんまりモコモコしていたくなくて。カーディガン一枚で来たのが明らかに失敗だった。だって、制服にはしわがたくさん付いていて着たくなかったというのはいいわけである。 もんもんとしながら家に帰る。母さんには曖昧なただいましか言えなくて。そのまま自室へと赴き、ベッドに体重を...全文を読む


2

2011.04.09【 『山田アフター~a secretスピンオフ~』

  こうやって話す機会も多くなると忘れがちになるけど、島津麗佳はこの学校のアイドル的な存在だ。現に、島津さんと話しているのを他の生徒に見られたときの視線というのが嫉妬丸出しだから分かる。 ある秘密を知ってしまった。そんな些細なきっかけで話すようになった。これは喜ぶべきか否か。「なぁ、どう思う?」「んあ。そうだな~」 体育の時間でバスケをやっていた。俺と透のチームはただいま採点係。ローテーションで試合...全文を読む


1

2011.04.09【 『山田アフター~a secretスピンオフ~』

  俺は弁当の白いご飯を咀嚼しながら考えた。 仮にこの世にバランサーのようなものがあったとして、間違いなくそれは狂っているだろうということだ。天秤は真ん中でブラブラすることはなくて、常にどちらかにゴンと重りが偏っているような。 何故こんなことを考えるのかというと、いつもは馬鹿だが、いきなり哲学に目覚めたとか言う話にはあらず。純粋に目の前の光景をみたときの感想であった。 時間はもちろん昼休み。十二月も...全文を読む


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『定規で測ったら10センチ位の距離』 (1)
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お題小説 (4)
『昼休みの風景』 (1)
『ニート後夢後暗転』 (1)
『春』 (1)
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サークル執筆作品 (32)
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『縁堂へようこそ~真子の章~』 (12)

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